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I号戦車

I号戦車(いちごうせんしゃ、Panzerkampfwagen I)は、ドイツが第一次世界大戦後、初めて量産した戦車である。訓練および生産技術の習得のための軽量・簡易な軽戦車として開発されたが、本来の実戦用戦車であるIII号、IV号の数が揃わず、第二次世界大戦開戦直後のポーランド侵攻作戦など、II号と共に実戦に投入された。後に同じ制式名称で、全く別設計の「新型」I号戦車も少数生産された。ヴェルサイユ条約によって戦車の開発を禁じられていたドイツだが、戦間期、秘密裏に「軽トラクター」「重トラクター」などの名称で戦車の試作が行われ、ソ連・カザンの実験場でテストが行われた。しかし、これらはどれも試作の域を出なかった。1930年代初め、交通兵監オズヴァルト・ルッツ、同兵監部主席参謀ハインツ・グデーリアンらによって将来の陸軍機械化構想がまとめられた。この構想では10~15トンの主力戦車、20トン級の支援戦車の2種が戦力の柱と位置づけられていたが、その開発にはなお長い時間が必要になると予想されたため、それまでの「繋ぎ」として、訓練用、生産技術習得を兼ね、軽戦車の開発が行われることとなった。1932年、開発の参考用として、イギリスのヴィッカース・アームストロング社より、同社製軽戦車の足回りを持つ、トラクター車台3両が輸入された。クルップ社が同年完成させた試作車台は、このイギリス製車両の設計の影響を色濃く受け継いだものとなった。開発は秘匿のため農業用トラクター(独:Landwirtschaftlicher Schlepper, 略号:LaS)の偽装名称で開発が続けられた。1934年、上部車体のない訓練用車両に続き、同年7月からは戦闘室・砲塔を持つ戦車型の生産が開始された。これらは当初、MGパンツァーワーゲン(機関銃装甲車)と呼ばれたが、再軍備宣言後の1936年4月には、Sd.Kfz.101の特殊車輌番号とともに、Panzerkampfwagen I Ausf A(I号戦車A型)の制式名称が与えられた。生産はクルップ社のほか、技術習得のためにMAN、ダイムラー・ベンツ、ヘンシェル、ラインメタルにも振り分けられ、1936年6月までに818両のI号戦車A型が生産された。I号戦車A型は、開発メーカーであるクルップ社製トラック用の改良型である空冷水平対向エンジン(57馬力)を搭載、車体構造は当時の主流であったリベット接合ではなく、溶接で組み上げられていた。機銃2挺を装備する回転砲塔は戦闘室の右寄りに搭載され、戦闘室左側に乗員乗降用のハッチを設けていた。足回りは参考としたヴィッカース社製トラクターのリーフ・スプリングを用いたボギーを踏襲していたが、4つの転輪を持つヴィッカース・トラクター(最後尾転輪が誘導輪を兼ねる)に対し、負荷の掛かる最前部にコイル・スプリングで独立懸架した転輪を追加、最後尾の誘導輪を兼ねる転輪は大径化し、さらに2組のボギー外側に補強用のガーダービームを追加した。履帯は高マンガン鋼製、シングル・ドライピン式スケルトン・タイプで、形状はヴィッカース社製ほぼそのままのコピーだった。生産されたI号戦車A型は早速部隊配備され、再軍備宣言をしたナチス・ドイツの軍事力をアピールする役を果たしたが、運用上では、エンジンの出力不足や過熱問題、走行安定不良などの問題点が浮上した。これらを解決するため、小型指揮戦車用に開発された、マイバッハ製エンジンを搭載した延長車体が戦車型にも採用されることとなった。延長車体を持つI号戦車は当初、従来型の1A LaS Krupp(クルップ型1A農業用トラクター)に対し、1B LaS May(マイバッハ型1B農業用トラクター)との秘匿名称が与えられていたが、後にPanzerkampfwagen I Ausf B(I号戦車B型)の制式名称となった。I号戦車B型は、A型では接地していた誘導輪を独立させて持ち上げ、転輪を1つ追加、同型の転輪2つずつをボギーで支える形式となった。これに伴い、上部転輪も1つ追加された。マイバッハ製水冷エンジンNL38TR(100馬力)への変更に伴い、機関室は前後に延長され形状も変化したが、車体前部、戦闘室、砲塔はごく細部の仕様変更を除き、基本的にそのままとされた。I号戦車B型は、A型の最終シリーズと並行して生産に入り、1935年8月から1937年6月にかけて675両が生産された。I号戦車は本来、訓練と戦車生産技術の習得を目的としたものだったが、その目的のためでさえ小型軽量に過ぎ、時をおかず II号戦車の開発が行われることとなった。再軍備宣言後の軍事パレードや1938年のオーストリア合邦で大々的に使用されたほか、1936年以降、実戦評価テストを兼ねて100両がスペイン内戦に送られた。また、より本格的な戦車の数量不足から、第二次世界大戦においても特に緒戦時に多用された。開戦時にはドイツ陸軍の装備する戦車のおよそ半数が、I号戦車によって占められていた。その脆弱さはスペイン内戦ですでに露呈しており、緒戦時の戦場であれ本格的な戦闘は無理だったが、ポーランド、デンマーク・ノルウェー侵攻、フランス、バルカン半島の戦い、バルバロッサ作戦、北アフリカ戦線など、ドイツ軍の主だった戦場すべてで使用された。砲を持つ敵戦車や対戦車砲に対抗できず大きな損害を出したが、III号戦車やIV号戦車が充足されるまで前線で使われ続けた。後には後方警備や本来の訓練用途、弾薬運搬車などの改造車両のベースとなった。改造の際に撤去された銃塔は要塞のトーチカに流用されている。中華民国に輸出されたA型は日中戦争の南京防衛戦に使われた。この際、4両が大日本帝国陸軍に鹵獲された。鹵獲された車体は、クルップ軽戦車または独国一号戦車の名称で陸軍技術本部に送られ、溶接車体や駆動部、機関銃の装備状態が調査された後、昭和14年頃に靖国神社で展示された。ただし、ドイツとの国交を考慮して、「ソビエト製の鹵獲戦車」として展示された。その後、37mm砲(形式不明)に対する抗堪性射撃試験の標的に用いられた。また、鹵獲した日本陸軍が運用した記録もある。

出典:wikipedia

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