江波(えば)は、広島市中区に位置する地区である。ここでは町丁名に江波を冠する地域について扱う。江波は広島市中心部(紙屋町)から南方向、同市中区の南に位置する地域。全体が平坦な地形であり、地域内を広島電鉄江波線が走っている。広島県を流れる太田川の河口部に位置し、南北に長細い地形をしている。東の吉島・光南との間に旧太田川(本川)が流れており、西側の西区観音との間に天満川が流れている。北側で舟入と接し、南側で広島湾に面す。江波がまだ島だったころ、漁業のエサが肥え、魚も良く獲れたという。このことから良いエサ場を意味して「餌場」(えば)と呼ばれるようになったとされる。漢字について、「衣波」、衣羽(えば)神社の「衣羽」などが当てられた。江波は、かつて広島湾に浮かぶ「江波島」という島であった。江波の村社である「衣羽(えば)神社」には約680年前の記録があり、島には約700年前には人が住んでいたという記録が残っている。広島が五箇庄といわれていた寒村の頃、現在の太田川デルタはほぼ海中であり、現在丘の部分がデルタに点在していた島々であった。江波が島であった頃、広島湾は洪水が発生した際に流出した土砂が、広島湾に溜まって自然の力によって海岸線が南下していった。約400年前毛利輝元によって広島城が築かれると、人の力によって急速に干拓が進んでいった。明治時代には舟入と陸続きになった。現在の地形になったのは戦後の埋め立てによるものである。江波は江戸時代、広島の外港の町として栄え、半農半漁の集落であった。とくに海苔とカキが採取され、養殖が盛んであった。畑があく冬に海苔を天日干ししていた。江戸時代幕末には横浜港や神戸港などのように貿易港にする案が浮上したが、版籍奉還により白紙となった。1889年には江波から東南に位置する宇品港(現在の広島港)の築港により外港としての座を譲った。戦時中には広島工業港建設により江波山南側が埋め立てられ、徐々に市街地化されていった。古い地図には「沼田郡江波村」と記されており「江波村」が存在していた。総数 [戸数または世帯数: 、人口: ]広島電鉄によるバスである広電バス6号線(江波 - 牛田方面)が運行されている。広島電鉄江波線の江波電停が江波西1丁目にある。江波の漕伝馬は未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選に選ばれている行事である。安芸の宮島の管絃祭が毎年旧暦の6月17日に行われている。この祭りに「江波の漕伝馬」と「阿賀の曳き船」が管絃船を曳航して祭りが行われている。
出典:wikipedia
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