小川 甲子(おがわ かつこ、旧姓:井戸、1942年7月8日 - )は、元宝塚歌劇団花組主演男役・元女優で現在は東京宝塚劇場支配人。宝塚歌劇団時代の芸名は甲 にしき(こう にしき)。兵庫県神戸市出身、公称身長は162センチ、出身校は親和学園、宝塚歌劇団時代の愛称はコウちゃん。中学時代、腎炎にかかり長期の療養生活を強いられる。状態が落ち着いた時、気分転換にと宝塚コドモアテネを利用し始めたことが、歌劇団志望のきっかけになる。1960年、宝塚歌劇団入団。宝塚歌劇団46期生。宝塚入団時の成績は首席。初舞台の公演演目は星組公演『春の踊り(日本の恋の物語)/ビバ・ピノキオ』。同期に山吹まゆみ(女優)、上月晃(女優)、古城都(本郷功次郎夫人)、振付師司このみらがいる。1961年5月1日、花組配属。男役としては小柄であったが、懸命に素養を磨いて頭角を現し、1970年、麻鳥千穂退団に伴い、主演男役となる。相手役は竹生沙由里。その後、上原まりも相手役を務めた。同期の上月(星)・古城(月)とは“3K”と呼ばれ、同歌劇団を代表するスターとして絶大な人気を博した。『小さな花がひらいた』(茂次役)、『この恋は雲の涯まで』(源義経/チンギス・ハーン役)などの代表作を世に送り出し、1974年2月1日に宝塚を退団。退団後は“演れて舞える”実力を買われTV時代劇や舞台公演に多く出演、このことが後年の甲の私生活に大きな影響を与えた。1985年、文化庁芸術祭賞受賞。1980年代後半、共演が多かった萬屋錦之介と交際を開始、しかし当時錦之介はれっきとした妻帯者であった(妻:淡路恵子)。経済面等で苦境にあった錦之介を支えていた甲であったが、甲との交際も一因となって錦之介は淡路と別居、甲は不倫関係への非難から仕事を干される事となる。1990年、淡路と離婚した錦之介と正式に結婚。直後、錦之介の難病発病(錦之介の看護のため、この頃より事実上の芸能活動停止状態)、そして錦之介のガン闘病・死別と苦労は多かったが、錦之介とは最後まで変わらぬ夫婦生活を全うした。錦之介の死後、東京宝塚劇場の支配人に就き、現在に至る。1973年、甲が源義経を演じた主演作『この恋は雲の涯まで』が甲たち花組公演の後、星組での続演が決定し、星組の当時の主演スター鳳蘭(第50期生/甲より4年下)が義経を演じることになった。義経の演技を教わりに来た鳳に甲は「3回しかやって見せへん。それで覚えて」と申し渡した。懸命に覚える鳳だったが、極度の緊張などからか、突然稽古場を走り出て吐いてしまう。その事を知った甲は演出担当の植田紳爾(甲より9歳上)、当時の星組組長・美吉左久子(1933年入団・第22期生・甲より遥かに年上)に「(あなたたちが鳳を)甘やかし過ぎ」と言い放ったといい、甲の厳しさに植田と美吉は返す言葉がなかったという。甲が主演スターとして活躍していた当時、宝塚歌劇団は甲たちスターを輩出しながらも観客数が伸び悩み、親会社・阪急グループ内部でも歌劇団の赤字が問題視されるなど、歌劇団にとっては厳しい時代であった。歌劇団を取り巻く環境が厳しい中、懸命に歌劇団を牽引していた甲の強い自負が感じられる逸話である(歌劇団史上最大のヒット『ベルサイユのばら』が初演され、歌劇団が“ベルばらブーム“に沸くのは甲の退団直後、1974年8月からのことである)。
出典:wikipedia
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