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パンチ佐藤

パンチ佐藤(パンチさとう、1964年12月3日 - )は、日本の元プロ野球選手(外野手、内野手)であり、タレント、野球解説者。本名及び野球選手としての旧登録名:佐藤 和弘(さとう かずひろ)。神奈川県出身。プロ野球選手時代の髪型だったパンチパーマがトレードマークであり、芸名の由来ともなっている。ニックネームは「パンチ」(1994年には登録名としても使用)。川崎市立西中原中学校、武相高校から亜細亜大学に進み、同野球部に入部(同期には阿波野秀幸がいる)。東都大学リーグ通算86試合出場、274打数82安打、打率.299、5本塁打、42打点。ベストナイン3回。社会人野球の熊谷組を経て、のドラフト1位でオリックス・ブレーブスに入団。社会人野球時代は俊足かつ強打の選手として知られ、第60回都市対抗野球大会(1989年)では大会史上2人目のサイクル安打を記録している。また、・1989年と2年続けて社会人ベストナイン(外野手部門)に選出されている。近鉄、巨人、横浜で活躍した阿波野秀幸は同期。中日で活躍した与田剛は後輩にあたる。現役時代は愛嬌あるキャラクターで親しまれた反面、打撃面で欠点があり(好不調の波が激しい)、また守備面でも送球に難があることが弱点であった。4月7日、新監督の仰木彬の発案で鈴木一朗とともに新しい登録名に変更。心機一転したパンチは復活を目指すが、成績の下降には歯止めがかからず、仰木監督から戦力外通告を受け11月4日に引退を発表した。レギュラー定着までは行かなかったものの、男気あふれるキャラクターおよび「パンチ語録」で人気を博した。これらの「パンチ語録」は、この年のフジテレビ「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」でも取り上げられ話題になった。また任侠・男伊達の世界観を愛し、演歌好きでも知られた。かつてスーツの裏地に物々しい虎の刺繍をびっしり入れたこともあり、「いや、こういうのは自分で満足するもんですから」と言ったことがある。タレントとしてとんねるず司会のスポーツバラエティ番組をはじめ、身体能力を活かした番組のほか、ドラマなどにも積極的に出演している。「探偵!ナイトスクープ」ではバッティングに悩む依頼人などに対して「チョコレート打法」や「桜島打法」を編み出して改善させている。両親が岩手県北上市出身だったため、パンチが子供の頃は北上・みちのく芸能まつりの時期などに一緒に里帰りしており、岩手での思い出も多い。そのためか東北地方のローカル番組の準レギュラーやゲスト出演が見られる。1995年は野球解説者として、フジテレビやニッポン放送のプロ野球中継に出演することもあった。2005年9月には、自宅駐車場に不審者(覚醒剤所持者)が侵入している所を取り押さえ、地元・中原警察署から表彰を受けた。2010年9月1日、小澤音楽事務所からスターヒルに所属事務所を移籍した。2013年4月1日、これまで所属していたスターヒルを退社し独立。2014年9月、翌年よりベースボール・チャレンジ・リーグに加入予定の武蔵ヒートベアーズの宣伝本部長に就任。2015年10月1日、契約満了により退任した。2015年、アスリートとメールのやりとりなどができる有料会員制SNSサービス『athlete club(アスリートクラブ)』を月額10万円の会員費で開始した。2015年、「笠間サポーターズ」の第一号として登録された。「笠間サポーターズ」とは茨城県にある笠間市を愛し、応援したいという気持ちを持つ個人や団体の方が登録できる制度のことで、パンチは年に数回その笠間市を訪れていて、そのことについてブログも更新している。にタレント・萩本欽一が監督を務める社会人野球チーム・茨城ゴールデンゴールズに入団が決定したが、その直後に別のプロ野球経験者が入団することになり、プロ経験者登録枠の関係と「古巣に恩返しがしたい」ということから、1994年に休部した熊谷組野球部OBらが結成したクラブチーム・熊球クラブ(ゆうきゅう-)に移籍した(登録名義は佐藤和弘。をもって退団)。強打の外野手として期待されたものの、打撃面では入団初年の打率.331を頂点に成績は尻すぼみ。1994年、新監督に仰木が就任し、登録名を既にニックネームとして定着していた「パンチ」に、3年目の若手外野手の鈴木一朗も「イチロー」に変更した(このアイディアは打撃コーチの新井宏昌が提案し、仰木が承認した)。この際仰木らは、実際にはイチローひとりを売り出すために登録名変更を思い立ったものの、当時はまだ全国区ではなかったイチロー一人だけを改名した場合、イチローだけが目立ってかえって萎縮してしまうことを懸念していた。そこで仰木らは、既に全国区だったパンチにも改名を勧め「一緒に目立ってくれ」と頼み込み、こうして2人の登録名が変更されるに至った。新たな登録名で心機一転したパンチは復活を目指すが、成績の下降には歯止めがかからず、同年限りで戦力外通告を受けた。仰木は「パンチは野球より芸能界の方が向いているのではないか」と見抜いており、パンチは仰木から戦力外を言い渡されると「どうしてですか? シーズン前には『期待している』って言ってくれたじゃないですか」と反論したが、仰木は「代打でなら使えるが、スタメンとして使うにはちょっと厳しいな。お前はこのままプロ野球選手として食っていくよりも、芸能界でやっていった方がいいと思う」と諭した。パンチは“尊敬する仰木さんにそこまで言われてしまっては仕方がない”とあっさり納得し、「はい、分かりました。辞めます」と二つ返事で引退を決意した。現役最終打席は1994年にグリーンスタジアム神戸で開催された対近鉄戦の代打出場。三塁打を池上誠一から打ち、渾身のガッツポーズ。そしてベース上でじっと涙を堪えていた。小学生時代のあだ名は「ザット」(“さとう”をもじって)。当時は両親が共働きで、帰ってくるのが遅いため、団地の前で日が暮れるまで素振りをしたという。パンチパーマにした理由は、社会人時代に坊主頭にしていた時、相手チームのボールを拾ってあげたところ、どうみても年下の選手から(「ありがとうございます」ではなく)「サンキュー」といわれたことに憤慨し、若く見られないために始めたものである。ドラフト指名時には熊谷組の寮で当時の上田利治監督からの電話に「会社の上の人と相談して決める事ですけれども…自分の心はひとつです!!」と応え、入団当時から話題をさらった(その時の映像が2000年代中盤にリクルート「フロムエー」のCMでも使われた)。入団時の記者会見では契約金の話になったが「この1億円はプロで勝負させてもらう為のお金であり手を出せないです」という発言で場内を驚かせた。またどんな選手になりたいかとの問いに「グシャっとした当たりでもいいから塁に出られるバッターになりたい」と答えたが、現役生活を振り返るとこの発言の前半のみが達成され、出塁機会は多くなかった。入団後は守備走塁コーチの今津光男と二人三脚で有名だった。だが、今津コーチも単身赴任で合宿所に住んでいたことから、ただの「飲み友達」だったという話もあり、度々ネタにされていた。福岡ドームでのホークス戦で、守備で悪送球をした際に、理由として「ついさっきまで稲荷寿司を素手で食べていて、手を拭かずに守備についた。油揚げの油が指についていた為、滑ってあんな送球をした」と弁解した。後に「ジャンクSPORTS」2002年11月19日放送分でもこの話を(多少形を変えて)披露している。1994年の阪神とのオープン戦で代打出場した際に中田良弘から足にデッドボールを受け、その場にうつ伏せに倒れてしまい全く起き上がれなくなった。そこで仰木監督が慌ててベンチを飛び出し、パンチのもとへ行こうとした瞬間、パンチが急に立ち上がり全力で一塁ベースに向かって走った為、それがパンチ特有の芸だと知るや仰木監督は大笑いをしながらベンチに戻った。ちなみにこの試合では仰木監督にピンマイクが付けられていて、代打のコールはもとよりデッドボールの際の笑い声も中継されていた。現役最後の年となった1994年の春のキャンプ中は意気込みが一段と強く、フジテレビ「プロ野球ニュース」のカメラの前で「今年、復活に賭ける男」と宣言。この年阪神から移籍した岡田彰布を見つけると「岡田さん、一緒に写って下さい。一緒にカメラの前で『今年、復活に賭ける』と言いましょう!」と力強く誘ったが、引きつった笑みを見せながらあからさまに嫌がる岡田に「復活って、俺はそうやが、お前、ええ時あったんか」と返された。なおも「いや、これでもお立ち台に立ったこともあるんです。今年にとにかく賭けてるんです。一緒に写りましょう!」と食い下がったが、一流選手としてのプライドが高いことで有名な岡田から「復活って、お前、何もないやないか」「一緒にすんなよ」とあくまでも拒否された。吉兆とはいえない最後のシーズンの始まりであった。グリーンスタジアム神戸での打席に登場時のテーマ曲はアップテンポの曲で統一されているが、パンチの場合のみ演歌であった。プロ野球解説者森祇晶の自伝で「要領が良い、立ち回りが上手いだけで中身が全く無い選手」と大久保博元とともに半ば特定される形で非難されている(刊行は佐藤の引退後)。韓国に凝っており、週1度はテコンドーの道場に通い、韓国料理もかなりのペースで口にする(フジテレビ「ウチくる」{2005年秋に放送分}でもロケ地が韓国料理店だった)。しかしグルメ番組のレギュラーを持っているほど味にはうるさい反面、午後8時以降は食べ物を一切口にしないという体調管理を貫いている。フジテレビ「ジャンクSPORTS」に出演時、野球に関するうんちくを述べた後、同じく出演していた野村克也に「ねっ、そうですよね?」と同意を求めたところ、「オマエの話はみなデタラメや」と一喝されたことがある。同番組で浜田雅功に「漫談」と言われたこともある。フジテレビ「めざましどようび」にてパンチが担当していた「朝刊スポーツパンチ」のコーナーでは、オープニングにサッカー、ゴルフ、フィギュアスケート、野球と色々なスポーツをするパンチのアニメーションが流れていたが、最後の野球では、左打者だったはずのパンチが右打席でボールを打っていた(結局コーナー終了まで、左打者への修正もしくは「※実際は左打ちです。」などの脚注付記は実施されなかった)。関西テレビ「野球狂のネタ」では準レギュラーだが野球以外の話題が多い為、ますだおかだから野球ネタ切れ疑惑をかけられた。パンチはプロ入り時のオリックス監督である上田利治と、引退時の監督である仰木を深く尊敬しているその一方で、上田と仰木の間にオリックス監督を務めた土井正三に対してはどうしても尊敬の念が持てず(土井の在任時にはチーム内に軋轢が絶えなかった事が遠因にあるといわれている)、引退後に出演したフジテレビ「プロ野球ニュース」では、歴代の監督に感謝のメッセージを述べる際に「プロへの扉を開いてくれた上田監督、芸能界への扉を開いてくれた仰木監督、…途中何かありましたけども」と、土井にだけは感謝の念を述べなかった。また、パンチは自著でも土井のことを「土井監督」ではなく「D」とイニシャル(敬称なし)で書いている(該当箇所→『プロ野球・独断毒舌改造論』数か所、『プロ野球・独断毒舌改造論』の124ページ)。また、土井監督時にイチロー(当時は鈴木)が野茂からプロ入り初本塁打を放った翌日に二軍落ちさせたというエピソードを語っているが、完全な捏造であり、その後7試合連続で起用(うち6試合で先発出場)されたが、20打数4安打、打率.200・出塁率238・長打率.250と結果を残せず二軍落ちというのが真相である。上田・仰木は共々、明るい性格の選手が好きなタイプの監督である。パンチが引退後の最初の芸能界での仕事は、奇しくも日本ハムの監督に就任した上田へのインタビューだった。上田はインタビュー中、「パンチ、何で現役やめちゃうの?もったいない!もったいない!」と引退を惜しむ発言を繰り返し、普段は豪快でにぎやかなパンチは終始恐縮していた。武相高校の先輩の東門明を尊敬し、プロ入りの際背番号を決めるときに45番を選んだ理由は東門が早稲田大学で着けていた背番号9にちなんでいる(4+5で9になる)。入団直後は9番が欲しかったものの、先輩の本西厚博が9番だったため、「本西さんから貰うわけにはいかない」として苦肉の策でこの番号になっている。現役最終年の背番号90は45の2倍という意味もあるが9が入っているからという意味でもある(出典は竹書房刊「まんがパロ野球ニュース」のパンチの連載コーナー)。

出典:wikipedia

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