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十和田丸 (初代)

十和田丸(とわだまる)は、日本国有鉄道(国鉄)青函航路の車載客船。洞爺丸台風で失われた洞爺丸の代替船として建造された。同型船はない。後に石狩丸(2代)と改称され、車両渡船に改造され、再就航した。1954年(昭和29年)9月26日の洞爺丸台風では、車載客船洞爺丸、車両渡船北見丸、同日高丸、同十勝丸、客載車両渡船第十一青函丸の5隻が沈没した。これらのうち、洞爺丸は1955年(昭和30年)8月25日に浮揚作業を完了したものの、右舷側の損傷が甚だしく、復旧には多額の費用が必要と見込まれたため、国鉄はこれを断念し、1956年(昭和31年)11月10日、代替船の建造を新三菱重工神戸造船所に発注した。これが十和田丸であった。洞爺丸事件の重大さに鑑み、運輸省は1954年(昭和29年)10月に学識経験者による「造船技術審議会・船舶安全部会・連絡船臨時分科会」を、国鉄総裁は同11月に同じく学識経験者による「青函連絡船設計委員会」を設置した。しかし翌1955年(昭和30年)5月11日には宇高航路でも紫雲丸事件が発生したため、後者は同年7月「日本国有鉄道連絡船設計委員会」と改称され、これらの審議会では、洞爺丸台風時の青函連絡船の沈没原因と、その対策についての審議に加え、紫雲丸事件についても検討されたため、本船建造にあたっては両事件から得られた対策が盛り込まれるところとなり、格段に安全性の高い船となった。船は強い風波に遭遇したとき、側面から風波を受けて横転するのを避けるため、船首を風波の来る風上方向に向けるのが常である。このような場合、錨泊すれば、船首は自然と風上を向くため、洞爺丸台風当夜も、多くの青函連絡船が、錨泊して船首を風上に向け、錨ごと流されないよう、両舷の主機械を運転しつつ台風の通過を待った。このような態勢でいれば、風下側の船尾開口部から、車両甲板上に海水が大量に浸入することはない、とそれまでの経験から、当時の関係者は考えていた。しかし、当夜の函館湾は波高6m、波周期9秒、波長は約120mで、洞爺丸の水線長115.5mよりわずかに長く、このような条件下では、前方から来た波に船首が持ち上げられたピッチング状態のとき、下がった船尾は波の谷間の向こう側の波の斜面に深く突っ込んでしまい、その勢いで海水が車両甲板船尾のエプロン上にまくれ込んで車両甲板へ流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが、事故後の模型実験で判明した。そして、波周期が9秒より短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に少なくなることも判明した。洞爺丸のような船内軌道2線の車載客船では、車両格納所の幅が車両甲板幅の約半分と狭いため、車両甲板船尾開口部から大量の海水が浸入したとしても、その滞留量は250トンとも360トンとも言われているが、この程度では転覆することはない、とされた。しかし、洞爺丸は石炭焚き蒸気船で、石炭積込口をはじめ車両甲板から機関室への開口部が多数あり、これらの閉鎖は不完全で、滞留した海水が機関室へ流入し、機関停止に至って操船不能となり、走錨もあって、船首を風上に向け続けることができなくなったことが洞爺丸沈没の要因とされた。先に建造された檜山丸型同様、主機械には従来の蒸気タービンに比べ操縦性が高く、車両甲板から機関室への開口部も少なくできて、機関室の水密性確保の容易なディーゼルエンジンが採用された。洞爺丸型と同じ、青森 - 函館間下り4時間30分、上り4時間40分運航可能な航海速力14.5ノットを確保するため、定格出力2,600制動馬力で、主軸を直結駆動できる毎分230回転の2サイクル低速ディーゼルエンジン2台が搭載された。しかし、低速ディーゼルエンジンは背が高く、これを車両甲板で天井高さが制限される車載客船の機械室に搭載したため、ピストン抜き作業は、車両甲板に設けたボルト締めの水密ハッチの蓋を開けて行う必要があり、車両積載時にはできなかった。また、それぞれ360制動馬力のディーゼルエンジンで駆動される三相交流60Hz 445V 300kVAの主発電機3台が、機械室から船首側に水密隔壁をひとつ隔てた発電機室に設置された。青函連絡船では、船内電力は 1939年(昭和14年)建造の第三青函丸以来、三相交流60Hz 225Vが採用されてきたが、本船からは電圧がより効率的な445Vに上げられた。更に国際航海に従事する旅客船に義務づけられた非常用設備規程を準用し、国鉄初の自動起動・自動停止する50kVAのディーゼルエンジン駆動非常用発電機が1台、煙突基部の端艇甲板室右舷側に設置された。また、この甲板室左舷側には、非常用発電機駆動ディーゼルエンジンの始動セルモーターや非常用操舵機、水密辷戸駆動用等の鉛蓄電池を収納した電池室が配置された。主機械、主発電機、ボイラーの各排気筒も檜山丸型に倣い、船体強度上有利な船体中心線上に、幅2.5mの機関室囲壁を設けて通し、煙突も太いもの1本となった。ディーゼル化等により、車両甲板から機関室への水密性が確保されたため、本船のような船内軌道2線の車載客船では、船尾水密扉の設置は安全上必須ではなかった。しかし、客船として更なる安全性向上を目指し、また本船では船尾1線のため、小型の船尾水密扉で対応できたこともあり、加えて、喫緊に実用化の迫られていた船尾3線の客載車両渡船(デッキハウス船)用大型船尾水密扉実用化への試作的な意味もあり、車載客船・車両渡船としては世界で初めて、船体外殻の強度を有する船尾水密扉が設置された。このため、車両格納所の容積も総トン数に加えられた。この船尾水密扉は、船尾開口部上縁にヒンジで取り付けられた船尾の軌道1線分をカバーする鋼製の上下2枚折戸式船尾扉で、中央部のヒンジで“く”の字に屈曲し、シャクトリムシのように、この屈曲部分を後方へ突出しつつ、船尾扉下縁両端を船尾開口部両縁のガイドウェイに沿わせて上方へ開き、全開位置では折り畳まれた状態で、開口部直上に垂直に立てられてロックされる構造であった。動力は端艇甲板に設置された電動ウインチで、下部扉下端両側のガイドローラーに固定された左右1対のワイヤーを、それぞれ一旦船尾開口部上縁両端の船尾扉ヒンジよりもやや高い位置で船体に固定された左右1対の滑車で反転し、上部扉下端両側の滑車で再度反転したのち、端艇甲板より1層上のポンプ操縦室頂部の複数の滑車を経由して、端艇甲板のポンプ操縦室前方に設置した電動ウインチに巻き込む仕組みであった。水密ゴムパッキンは船体側の船尾開口部全周に装備されたほか、船尾扉屈曲部分の上部扉下縁にも装備された。船内軌道がこのゴムパッキンを装備した敷居を越える部分では、電動油圧式の跳上げレールとなっており、扉閉鎖時には船内側へ跳ね上げて、船尾扉下縁の水密性を確保した。更に、扉閉鎖の最終段階では、下部扉を内側から4個の油圧式“締付け装置”で引き寄せて、船尾扉を開口部周囲のゴムパッキンに確実に密着させた。洞爺丸型では、車両甲板両舷中2階の下部遊歩甲板舷側には多数の大型角窓が並んでいたが、洞爺丸事件後、1956年(昭和31年)までに全て水密丸窓に交換され、この部分の完全予備浮力化が図られていた。本船でも同様の意図で、この甲板の舷側窓には水密丸窓を採用し、その密閉された実態に合わせ中甲板と称した。檜山丸型に続き、車両甲板下の船体を、11枚の隔壁で12区画に区切り、隣接する2区画に浸水しても沈まない“2区画可浸”構造とした。更にボイラー室、発電機室、機械室、ポンプ室、車軸室の5区画では、船底だけでなく側面にもヒーリングタンク等の舷側タンクを各区画ごとに設け、二重とした。紫雲丸事件時、第三宇高丸と衝突した紫雲丸は、主発電機停止による交流電源停電で交流電動機直接駆動方式の水密辷戸の閉鎖ができなかったことから、引揚げ後の復旧工事で、水密辷戸駆動方式を、蓄電池からの直流電源で駆動する直流電動機直接駆動方式に改造のうえ再就航していた。本船もこれにならい直流電動機直接駆動方式を採用し、ボイラー室、発電機室、機械室、ポンプ室、車軸室間の各水密隔壁の船艙レベルに4ヵ所と、車軸室と倉庫(操舵機室)の間の水密隔壁の第二甲板レベルに1ヵ所の計5ヵ所の水密辷戸を設置した。これらは端艇甲板煙突基部甲板室左舷の電池室からの直流電源で、車両甲板左舷設置の3ヵ所の水密辷戸動力室内の、各辷戸専用の3馬力直流複巻電動機を駆動して開閉された。その動力伝達方法は、電動機の回転出力が、まずウォームギアで減速され、電動機駆動時のみ接続状態となるマグネットクラッチ、駆動軸回転方向が変わったときしばらく空転して起動時の過負荷を防止する過負荷防止継手を経て動力室外へ出た後、この回転運動を伝えるロッドは、自在継手や傘歯車で方向を変えながら船内を進み、水密辷戸に至って、辷戸表面の上下に水平方向に取り付けられた2条のラックギアを駆動して辷戸を開閉するものであった。これらは、操舵室からの電動一括開閉、各動力室からの電動開閉と手動開閉、辷戸現場での電動開閉と手動開閉が可能であった。端艇甲板には、軽合金製手動推進機付の102人乗り救命艇8隻と、発動機付50人乗りと44人乗り救命艇各1隻が洞爺丸型同様、ボートダビットに吊下げられ、ずらりと並んでいた。しかし、端艇甲板から救命艇を海面に降ろす際、旧来のボートダビットでは、救命艇を手動で舷外へ振り出す必要があり、これに人手と時間がかかり、非常時の間に合わないため、ブレーキを外すだけで、救命艇が自重で舷外へ振り出される重力型ボートダビットが採用された。なお、在来船でも既に1957年(昭和32年)2月までに重力型ボートダビットへの交換は完了していた。また、通常は折りたたまれてコンテナ内に収納され、非常時放出され、炭酸ガスで膨張してゴムボートとなる15人乗りの膨張式救命いかだ4個が、端艇甲板船尾両舷に、国鉄連絡船として初めて搭載された。従来の洞爺丸型では、船速の4倍弱以上の風を真横から受けると、“風に切れ上がる”という風下に回頭できなくなる現象がおきていたが、檜山丸型同様、舵を2枚とし、2基あるプロペラの直後に配置した。これにより、低速時でもプロペラが前進方向に回転している限り、プロペラ後流が直接舵に当たるため、低速時の操船性能は著しく向上し、「風に切れ上がる」こともなくなった。この舵を動かす電動油圧式操舵機は檜山丸型の改良型で、通常はそれぞれが出力7.5kW交流電動機で直結駆動される2台のアキシャルプランジャ式可変吐出量型油圧ポンプで油圧を造り、これで舵を動かす油圧シリンダーのピストンを駆動したが、この2台の交流電動機駆動油圧ポンプを、その回転軸が一直線になるよう背中合わせに配置し、更にこの2台の交流電動機の間に、これらと回転軸が一致するように100V 7.5kWの直流電動機1台を配置して、何れの交流電動機とも手動クラッチで接続できる構造とした。これにより、交流電源故障時には端艇甲板煙突基部の甲板室に設置した蓄電池からの直流でこの直流電動機を駆動し、このクラッチを介して何れか一方の交流電動機を機械的に駆動して油圧ポンプを運転し、操舵機能を維持できた。この操舵機は操舵室中央に設置されたクラシックな木製舵輪付きの水圧式テレモーターで遠隔操縦された。基本構造は、共通運用する洞爺丸型を踏襲したが、全長は1.3m長い120m、幅も復原性向上のため1.55m増しの17.4mと若干大型化した。垂線間長と幅は檜山丸型と同一であったが、乗り心地改善のため動揺周期を長くする必要があり、車両甲板下の舷側外板に88‰の傾斜をつけて絞り、満載喫水線での幅を約17mとするなど、船体線図は異なっていた。当時の青函連絡船は、着岸前には必ず投錨しており、錨のスムーズな落下は、着岸操船時の安全にかかわる重大事であった。この錨のスムーズな落下性能確保には、錨鎖が船首甲板から船体外板へ通り抜けるホースパイプ内での抵抗を減らす必要があり、それには、ホースパイプと船体中心線との角度を小さくする必要があった。そこで本船では、ホースパイプ出口と、その周囲の船体外板に“アンカーリセス”と呼ばれる陥凹を付け、凹ませた分だけその角度を小さくして、錨のスムーズな落下性能を確保した。このアンカーリセス設置は、国鉄連絡船としては、かつての 関釜連絡船の7,900総トン級客貨船天山丸 崑崙丸以来で、これにより、錨を揚げた状態では、錨がこの“アンカーリセス”に収って目立たなくなり、客船らしい優雅な外観となった。国鉄連絡船では、翔鳳丸型から檜山丸型に至るまで、ヒーリングポンプには、一方向へしか水を流せない遠心式ポンプ等を用い、2個の4方コックを遠隔操作することで、両舷のタンク間の海水の移動だけでなく、船外から、あるいは船外への注排水もできる構造であった。本船では船内軌道2線のため、小容量のポンプで対応できたのを機会に、当時国産化されて間がなかった、可変ピッチプロペラ式軸流ポンプを国鉄連絡船として初めて採用した。これにより、水をどちらの方向にも流せるようになり、保守に手間のかかった4方コックを廃し、ヒーリング装置の配管の単純化が図られた。なおヒーリングポンプの動力には、檜山丸型で採用した汽動式とはせず、洞爺丸型同様、交流誘導電動機を使用したが、係船機械は引き続き汽動式が用いられた。船体側面の外観は、下部遊歩甲板窓の水密丸窓化後の洞爺丸型と似ていたが、甲板室前面デザインや煙突は、檜山丸型に似たものとなった。従来の連絡船の船体塗装が白と黒であったのに対し、アイボリー(2.5Y9/2)とあさい緑色(10GY6/4)の塗装となり、青函連絡船では初のカラー化塗装となった。塗り分け線は洞爺丸型にならって中甲板ラインとしたため、檜山丸型より若干低くなった。旅客定員は、2等470名(A寝台54名、椅子席108名、雑居室308名)、3等1,000名(椅子席212、雑居室788)の計1,470名であった。なお国鉄では本船就航前年の1956年(昭和31年)6月1日より1等を廃止しており、洞爺丸型では1等寝台を2等A寝台に、2等寝台を2等B寝台に変更しており、本船の寝台は旧1等寝台相当の2等A寝台であった。しかし洞爺丸事件後の補充船として急遽建造されたこともあり、客室の内装は簡素で、また安全性重視の観点から、非常時の脱出に難のある車両甲板下への客室設置を見送り、それで急増する旅客数に対応するため、洞爺丸型以上の旅客定員としたため、客室、特に公室が狭く窮屈で、旅客誘導上も不便ではあった。車両甲板には洞爺丸型と同様、車両甲板船尾端では1線、船内の分岐器ですぐに2線に分岐する方式で敷設されたが、船体中央部には幅2.5mの機関室囲壁が設置されたため、この部分で2線間の距離がやや開いていた。また、船尾水密扉設置位置が甲板室の後端で、車両甲板後端(エプロン甲板との段差)から約6mとやや距離があり、甲板室の外の軌道にまではみ出して車両を積載できた洞爺丸型に比べ、軌道有効長は短く、船1番線は有効長80.0mでワム換算10両、船2番線は同64.0mで同8両となり、合計積載数は18両に留まって、当時19両積載できた洞爺丸型を下回った。また、車両甲板舷側部の左舷側には船尾側から郵便室、食糧庫、厨房、食堂従業員室、船員浴室やトイレ等が、船首部左舷に普通船員食堂、同右舷に高級船員食堂が、右舷舷側部には船首側から無線部、事務部、機関部の高級船員室が配置された。洞爺丸型の下部遊歩甲板に相当する中甲板は、左舷には3等食堂と3等椅子席を、右舷には3等椅子席と船尾側に小さな3等雑居室(畳敷き)を設け、更に洞爺丸型では船員居住区となっていた船首部にも3等雑居室(畳敷き)を配置した。3等乗船口は乗船タラップを共用する洞爺丸型に合わせ、左舷中甲板の前部と後部の2ヵ所に設けられたが、いずれも十分な広さの出入口広間は確保されていなかった。この船首中甲板への3等雑居室配置により押し出された船員居住区を、洞爺丸型では3等雑居室となっていた車両甲板下第二甲板のボイラー室前方に隣接した2つの水密区画へ移し、洞爺丸型でも船員居住区であったこれら2区画の更に前方に隣接した1区画分を含め、連続3区画を船員居住区とし、船首側から順に、甲板部、機関部、事務部の各普通船員居室とした。更に洞爺丸型では存在した車両甲板下後部第二甲板の1水密区画への3等雑居室の設置中止を受け、中甲板の1層上の遊歩甲板(津軽丸型の船楼甲板に相当)の甲板室船尾側の1/3を超える面積を3等雑居室に充てた。このため、洞爺丸型ではこの位置にあった2等雑居室が前方へ移動し、煙突下の機関室囲壁左舷側に、後ろから、食堂、2等椅子席、右舷側には2等雑居室(畳敷の上にカーペット)と2等椅子席を設け、その船首側の、ごく狭い2等出入口広間を隔てた前方には洗面所を、その前方は甲板室前端まで2等雑居室とし、この位置にあった2等A寝台室や特別室は1層上の端艇甲板へ移動した。2等出入口広間中央から船体中心線上に設けた階段を船首方向へ上ると、端艇甲板の中央廊下中ほどに達し、この廊下の右舷側には寝台室が5室、左舷側には寝台室4室と非営業の特別室1室が設けられ、階段の前方の廊下中央部には洗面室、突き当りにはトイレが設けられていた。各寝台室の床面積は洞爺丸型より若干拡張されたが、各室2段寝台定員4名から同6名に増員されたため、かえって窮屈になった。また特別室も1段寝台定員2名ながら洞爺丸型のようなバス・トイレ付ではなくなった。洞爺丸型では端艇甲板に配置されていた機関部と無線部の高級船員居室は、本船では車両甲板右舷舷側へ移り、無線通信室は檜山丸型同様、操舵室との連携容易な、1層上の航海甲板の操舵室後ろ側に隣接し、電気機器室と並んで設置された。客室ならびに船員室内の照明には、全面的に蛍光灯が採用され、明るい船内となった。本船は青函連絡船の車載客船としては初のディーゼル船ということで、檜山丸型と同一形式の主機械を採用しながらも、振動軽減のため、檜山丸型での定格回転数毎分250回転の設定を230回転に抑える配慮がなされた。しかし、主機械だけではなく発電機も含め、その防振や遮音対策が十分だったとは言えず、従来の青函連絡船の低振動・低騒音の蒸気タービン船に慣れた乗客には不評を買った。特に2等席(現在のグリーン席に相当)が排気筒の通る機関室囲壁周囲に配置されていたことから、2等客から「3等よりうるさい」などと苦情が出たそうである。洞爺丸台風直後の 1954年(昭和29年)10月1日から、元関釜連絡船 徳寿丸が客船として青函航路に助勤し、洞爺丸喪失の穴を埋めていたが、本船就航を前に1957年(昭和32年)9月13日付で広島鉄道管理局へ戻った。同年10月1日、車載客船である本船就航により、3年ぶりに車載客船4隻とデッキハウス船・車両渡船10隻の計14隻体制に戻ったことで、運航ダイヤは1955年(昭和30年)10月1日以来の定期18往復、臨時1往復のままであったが、全便での車両航送が可能となった。本船は洞爺丸型3隻と共通運用され、通常これら4隻中3隻稼働で旅客扱い便4往復を、多客期には4隻で旅客扱い便5往復を運航した。本船就航時はちょうど「なべ底不況」と呼ばれた景気後退期で、1958年(昭和33年)度の往復貨物輸送量は前年比96%の439万トンに留まったが、旅客輸送人員の増加は著しく、前年比109%の往復263万人であった。1959年(昭和34年)後半からは「岩戸景気」の影響で貨物輸送量も増加に転じ、1961年(昭和36年)夏には滞貨を擁する事態となり、同年度の貨物輸送量は521万トン、旅客は319万人に達した。このため、1961年(昭和36年)10月1日ダイヤ改正では、連絡船の機関整備のための休航から休航までの間隔を延ばして運航回数を増やし、旅客扱い便を通常5往復、多客時には6往復、貨物便も14往復、繁忙期には16往復に増発した。またこの改正では、函館―旭川間に北海道初の特急「おおぞら」1往復が新設され、上野発着の常磐線経由東北本線特急「はつかり」、新設の大阪発着の日本海縦貫線特急「白鳥」と青函連絡船の深夜便を介して接続されることになり、下り1便では4時間25分、上り2便では4時間30分運航と、わずかながらスピードアップを果たした。しかし、1964年(昭和39年)5月10日には高速車載客船津軽丸が、8月12日には 八甲田丸が就航し、同年9月からは、遅延回復能力の高いこれら2隻のいずれかが、ほぼ毎日、下り「はつかり」・「白鳥」に接続する1便に充当され、同年10月1日のダイヤ改正からは1便・2便は共に4時間20分運航となり、完全に津軽丸型運航便となった。またこれまでも、旅客の集中する深夜の特急接続便1便の続行便3001便、2便の先行便3002便が多客時のみ不定期運航されていたが、この改正から、それぞれ11便(4時間30分運航)・12便(4時間40分運航)として定期化され、当初は本船と摩周丸(初代)・羊蹄丸(初代)が充当されていたが、摩周丸(初代)は10月26日の11便で終航し、羊蹄丸(初代)も翌1965年(昭和40年)6月20日の11便で終航となる一方、津軽丸型は当初計画6隻の最終船羊蹄丸(2代)が同年8月5日に就航した。この津軽丸型6隻就航を受け、1965年(昭和40年)10月1日ダイヤ改正が実施され、津軽丸型で運航される9往復の旅客扱い便は全て青森-函館間3時間50分運航のうえ、ワム換算48両の貨車航送も行ったが、一方本船は4時間30分運航のままで、貨車航送もワム換算18両と少なく、旅客扱い便としても貨物便としても使いづらく、深夜の下り特急接続便1便の続行便で、本改正で11便から便名変更された101便と、310便の1往復のみの運航となり、日中は函館港内で“昼寝”状態となった。当時の青函航路は、継続する高度経済成長による北海道内の消費水準向上や、農業・土木の近代化に伴う化学肥料や機械・車両の入り込みもあり、下り貨物輸送量の伸びが著しく、1965年(昭和40年)には300万トン(上りは328万トン)に達し、1963年(昭和38年)8月の津軽丸型6隻建造決定当時の予測を上回るもので、1966年(昭和41年)以降の貨物輸送の逼迫が予想された。そのうえ、旅客輸送の伸びも著しく、1965年(昭和40年)10月22日には津軽丸型もう1隻の追加建造と、それに合わせ、稼働率不良の本船を1966年(昭和41年)秋でいったん係船することが決定された。1966年(昭和41年)10月1日の変101便で十和田丸としての最後の運航を済ませ、一旦函館港内のブイに係船された。追加建造の津軽丸型第7船が十和田丸の船名を継承していたため、同年10月21日、石狩丸と改称のうえ、青函航路の逼迫した貨車航送能力増強のため、同年10月12日の理事会で車両渡船への改造が正式決定され、同年11月1日着工となった。撤去された救命艇のうちの一艘は長らく保管され、1871年(明治4年)に木古内町サラキ岬沖合で沈没した咸臨丸のミニチュアモニュメントに改造されたうえで、2007年(平成19年)4月よりサラキ岬にて展示されている。遊歩甲板の甲板室は船尾側の半分、即ち2等(旧3等)雑居室を含め左舷側は食堂の半ばから、右舷側は1等(旧2等)雑居室の半ばから船尾側の甲板室は全て撤去され、残った前方の甲板室は、端艇甲板が高級船員居住区に、遊歩甲板改め船楼甲板が普通船員居住区に改装され、船楼甲板機関室囲壁左舷側の旧旅客食堂部分は、船首側から高級船員食堂、普通船員食堂、厨房に改装された。これに伴い、車両甲板下や車両甲板舷側の船員居室は全て廃止された。このため、煙突より前半分は十和田丸の面影を残していた。従来からの煙突はボイラーと発電機からの排気を受け持ち、主機械からの排気は煙突の船尾側に新設された左右に近接して並ぶ2本のツノ型の排気筒が受け持った。なお、端艇甲板の救命艇は右舷最前部の1隻のみ救助艇として残された。車両甲板では中甲板が船首部のみ残して撤去され、機関室囲壁幅も1.2mに縮小され、船内軌道は檜山丸型同様、船尾3線、車両甲板の大部分で4線となるよう敷設し直された結果、ワム換算43両の積載が可能となった。十和田丸時代は船内軌道2線のため、ヒーリングタンクにはポンプ室側面の容量177.4トンの第4舷側タンクを使用していたが、船内軌道4線では容量的に余裕がなくなるため、前隣の機械室側面の第3舷側タンクと、第4舷側タンクの前半分を連結して片舷容量297.1トンと293.5トンのヒーリングタンクとし、前年建造された津軽丸型第7船 十和田丸と同等の、85kW交流誘導電動機駆動可変ピッチプロペラ式軸流ポンプを装備したヒーリングシステムの1セットを導入して、機能向上を図った。船尾水密扉も津軽丸型と同じ、電動油圧式トルクヒンジ駆動の3線幅の大型のものに取り替えられ、ポンプ操縦室を含む船尾部分は津軽丸型とほぼ同じ形に改造されたため、船体後半は後に建造された渡島丸型に似たものとなった。十和田丸時代は、それ以前からの連絡船同様、船首甲板には揚錨機が1台あり、両舷の錨の投揚錨を行うほか、本体の両側面にはワーピングドラムという水平軸で回転する糸巻き形のドラムが突出しており、これに、フェアリーダーという甲板縁に設置された係船索の向きを変える滑車を通して、岸壁と繋いだ係船索を数回巻き付けたうえ、甲板員が3人がかりで係船索を引いたり緩めたりして、係船索でワーピングドラムを締め付けたり緩めたりし、係船索とワーピングドラムの間のスリップを調節することで、その張力を調節しつつ係船索を巻き込んで着岸していった。船首にはこのほかに、この揚錨機の前方の船体中心線上に垂直軸で回転するキャプスタンもあり、これもワーピングドラムと同様の使われ方をしたが、この動力も揚錨機からシャフトと歯車で伝えられていた。また船尾には、車両甲板曝露部の両舷にキャプスタンが1台ずつあり、甲板員2人で同様の作業を行っていた。この改造工事では、船首甲板左舷に1ドラム型、右舷に2ドラム型の係船ウインチを、船尾船楼甲板上にも同様に左舷に1ドラム型、右舷に2ドラム型の係船ウインチをそれぞれ設置し、いずれも汽動式ながら遠隔操縦可能であった。揚錨機も同様に遠隔操縦できるよう改造された。これにより着岸時、係船ウインチで直接係船索を巻き込めるようになり、離着岸時の省力化が進められた。操舵室には主機遠隔操縦装置が設置され、主機械の発停、正逆転、回転数制御が操舵室から直接できるようになり、固定ピッチプロペラながら、より迅速なプロペラ制御が可能となった。また通常着岸時に船長が立つ操舵室左舷端から、右舷船尾を押す補助汽船の動向、ならびに船尾と可動橋との状況が監視できるよう、工業用テレビカメラが、船尾から約40mの船楼甲板右舷側とポンプ操縦室頂部に試験的に設置され、モニターテレビ2台が操舵室左舷後面に設置された。機関部では機械室中段への監視室設置などの近代化工事も行われたが、機関出力に変化はなく、青森―函館(有川)間 下り4時間30分 上り4時間35分のままであった。塗装は乳白色(7.5Y9/0.5)と藍色(2.5PB2.5/7)に変更され、塗り分け線も約1.2m上がり檜山丸型や津軽丸型とほぼ同じ高さとなった。ファンネルマークは改造当初は十和田丸時代と変わらず「工」であったが、最後の蒸気タービン船が引退した1970年(昭和45年)、「JNR」に変更された。再就航後は、航海速力、車両積載数が同一の檜山丸型2隻と共通運用されたが、渡島丸型第6船の3代目石狩丸就航を前に、1977年(昭和52年)3月18日に終航し、1977年(昭和52年)7月21日 共和商会に売却され、その後、大韓民国で解体された。

出典:wikipedia

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