スタジオ・ゼロ(1963年 - 1971年)は、トキワ荘出身の漫画家らが設立したアニメーション、漫画の制作会社。1971年の事実上の解散以降は、アニメーション作家・鈴木伸一が法人格を継承して個人事務所の名称として使用。鈴木の自主作品、アニメCM制作、過去のゼロ作品の版権業務をメインとしている。鈴木伸一、石森章太郎、つのだじろう、角田喜代一(つのだじろうの兄。電通勤務)、藤子不二雄(安孫子素雄、藤本弘)と一人の社員により設立、のちに赤塚不二夫も参加。「トキワ荘時代よもう一度」という触れ込みで、手塚治虫が設立したアニメ会社の虫プロダクションの様なアニメを作る会社を、すでにアニメ制作にたずさわっていた鈴木伸一を中心として1963年(昭和38年)に設立された。当初の社屋は、中野の旧ボクシングジムを借りていた。余りにも傷みの酷い建物だったため、「スタジオ・ボロ」と仲間内から揶揄されていたという。当初は役員5名、社員1名という体制で、任期2年の社長の順番はあみだくじで決定した。初代社長の鈴木から第2代社長のつのだじろうを経て、第3代の藤本のときに最盛期を迎え、第4代社長石森のときに解散した。やがて漫画家たちが雑誌部の立ち上げで多忙になるにつれて鈴木以外はアニメには関われなくなり、アニメ専業の社員を増やしていく。その最盛期には100人近くの社員が在籍していた。しかし、アニメ制作部門がスポンサー降板などの理由のため仕事が減り、その社員も次第に他社へ引き抜かれてしまい、1971年(昭和46年)に実質的に解散。その際にされた清算は奇しくも0円だったという。その後は鈴木伸一の個人事務所として、法人格と名称のみが引き継がれている。新宿・十二社の市川ビル時代にはスタジオゼロだけでなく藤子不二雄(藤子スタジオ)、赤塚不二夫(フジオプロ)、つのだじろう(つのだじろうプロ。現 秦企画)のそれぞれのプロダクションも入居していた。この時期のエピソードとして、藤子スタジオは常に真面目に原稿作業をしているのと対照的に、隣のフジオプロでは赤塚が銀玉鉄砲でアシスタントらと撃ち合って遊んでいるのに対して、温厚で知られる藤子・F・不二雄が「うるさい!」と怒ったことがあるという。スタジオ・ゼロが解散し、各プロダクションが引っ越した後も市川ビルにはそのまま「スタジオ・ゼロ」の看板が掲げられていたが、2003年9月に解体された。『オバケのQ太郎』ではパイロット版のみを制作しただけで、実際の現場では「能力不足」とされて関われなかったが、『パーマン』以降は何とか仕事を半分取ることが出来たという。そして他の会社と交代で制作というスタイルが多くなっていった。『おそ松くん』は東映動画退社組が立ち上げたアニメ会社チルドレンズ・コーナーと交代で制作、『パーマン』、『怪物くん』、『ウメ星デンカ』は東京ムービー(Aプロダクション)と交代で制作、『佐武と市捕物控』は虫プロダクション、東映動画と3社交代で制作。交代で制作する事によって互いの腕を競い合い、作品の質を向上させるというメリットがあったという。また、東宝製作の怪獣映画の名場面を編集する企画の番組を制作するという話があった模様。初期ゼロ解散後の作品には、『忍者ハットリくん』などの各シンエイ動画作品の監修(鈴木伸一名義)、劇場短編『パーマン バードマンがやって来た!!』の実制作にも参加。その他、テレビCMのアニメにも係わっていた。「発見」の前半までは、石ノ森章太郎の『時ヲすべる』第1巻でも言及されている。なお、作中では「スタジオ・ボロ」、「スタジオ・ドロ(雨で足元がドロドロだったので)」というセリフも登場している。アニメではなかなか儲からないため雑誌部を設立し漫画を制作した。藤子不二雄がアイデアを考え、その他のメンバーが絵を描くのを手伝い収益をスタジオ・ゼロへ入れるということで制作されたのが『オバケのQ太郎』である。また『レインボー戦隊ロビン』の原案もスタジオ・ゼロで手がけた。藤子・F・不二雄による自伝的短編漫画。「別冊少年ジャンプ」1973年9月号に掲載された。作中の藤子両人の顔立ちは、『まんが道』の満賀道雄(安孫子)と才野茂(藤本)に酷似している。近年の出版物としては、2011年5月25日に発売された「藤子・F・不二雄大全集」の『オバケのQ太郎』第11集に収録されている。なお、「スタジオ・ボロ」という名前は、本作以前に『オバケのQ太郎』にて「小池さんが勤める動画スタジオ」として登場している。同書には会社登記簿が掲載されている。それによれば、正式社名は「スタジオゼロ」で、「・」は入らない。1971年に解散せず、法人として存続している。
出典:wikipedia
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