ヨハン・ホイジンガ、またはホイジンハ(、1872年12月7日 - 1945年2月1日)はオランダの歴史家。サンスクリット文献研究から歴史研究に転じた。『中世の秋』『ホモ・ルーデンス』などの著作で知られる。フローニンゲンに生まれる。フローニンゲン大学で文学を学び、卒業後ハールレムで中等教育の教鞭(きょうべん)をとったが歴史学への転身を図り、論文「ハールレム市の成立」を作成し、1905年フローニンゲン大学外国史・国史学教授に就任。1915年ライデン大学外国史・歴史地理学教授に転任してライデンに住んだ。1940年ナチス・ドイツ軍のオランダ占領によって事実上閉鎖されるまで、同大学教授職にあった。1942年占領軍によって居住地域を限定され、アルンヘム近郊デ・ステークに住み、1945年2月同所で死去。主著『中世の秋』は、1919年に出版された。19世紀後半に出版されたブルクハルトの『イタリアにおけるルネサンスの文化』が、15・16世紀のイタリアに観察の視線を限定しているのに対し、ホイジンガは、14・15世紀のフランスとネーデルラントに実証的調査と史的想像力の翼を広げる。同時代人の記録に固着、帯びただしく広まっているものの考え方、感じ方のある一定の調子から推測判定するに、この歴史空間では濃密に一つの文化の終末の気配を漂わせている。すなわち「中世の秋」である。『中世の秋』出版後、ルネサンス問題に関する論考、エラスムスやグロティウス、あるいはアベラールをはじめ、12世紀の精神を訪ねる著書・論文など業績は幅広いが、『朝の影のなかに』の出版(1935)の前後からナチズムに対する批判、ひいては現代文明批評の方向へ彼の関心は収斂(しゅうれん)する。『ホモ・ルーデンス』(1938)は「遊戯の相の下に」ヨーロッパ文明の成立と展開と衰亡の過程をみる試みで、デ・ステークの配所で綴(つづ)った『わが歴史への道』(1947)は現代へ残した自伝的遺書である。ホイジンガはブルクハルトのルネサンス観には、疑問を持っていた。彼は『中世の秋』で14-15世紀のブルゴーニュ公国の文化について考察を行っているが、第8章で遊びと真面目が截然としていない文化たるキリスト教社会にあって、卑猥な言葉も隠し言葉もこれらは全て民族的背景を基盤とし、貴族文化の成熟の象徴であると称えている。これを発展させ、人間の本質を「遊戯」に見出したのが『ホモ・ルーデンス』(1938年)である。『中世の秋』の訳者で、ホイジンガ研究の第一人者である堀越孝一は、ホイジンガのシンボリック的暗示のもつ偉大なる魅力にとりつかれたと述べている。神話学者のカール・ケレーニイとも交流があった。伝記に、里見元一郎『ヨハン・ホイジンガ その歴史観と文明論』(新書判:近代文芸社、2001年)がある。〔遊戯人の意〕 オランダの歴史学者ホイジンガの用語。遊戯が人間活動の本質であり,文化を生み出す根源だとする人間観。遊戯は生活維持を求める生物学的活動を超え,生活に意味を与えるものであると主張される。
出典:wikipedia
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