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ジャン・シベリウス

ジャン・シベリウス( 、1865年12月8日 - 1957年9月20日)は、フィンランドの作曲家である。スウェーデン系であり、出生時の洗礼名はヨハン・ユリウス・クリスチャン (Johan Julius Christian)。名前は「ヤン」と表記されることもあるが、フランス語固有の綴りの名前であるため「ジャン」とする。家族からはヤンネ (Janne) と呼ばれていたが、貿易商であった叔父がフランス語風に自称したジャンという名前を、学生時代に譲り受けている。青年期にはヴァイオリニストを目指したが、後に作曲に専念した。主要作品は、7曲の交響曲、多数の音詩及び交響詩、ヴァイオリン協奏曲などの他、劇音楽・歌曲・ピアノ曲等多岐に及ぶ。歌曲にはフィンランドの詩人で、スウェーデン語で詩を発表しているユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリの詩を用いているものが多い。1865年12月8日にヘルシンキの北方約100kmのハメーンリンナに生まれる。父クリスチャンは医師であったが、シベリウス2歳の時に他界。姉リンダ、弟クリスチャンはそれぞれピアノ、チェロの演奏をした。1875年、最初の作曲。ヴァイオリンとチェロのための『水滴』。1885年、ヘルシンキ音楽院で作曲などを学び始める。1889年、ベルリンに留学。留学中にリヒャルト・シュトラウスの『ドン・ファン』の初演、ハンス・フォン・ビューローの演奏するピアノソナタなどに直接触れる。さらに、ウィーン音楽院においてカール・ゴルトマルクに師事した。1891年にクレルヴォ交響曲作品7を手がける。翌年春に初演。これは管弦楽に、独唱・男声合唱の加わる大規模な曲である。初演は好評をもって受け入れられたが、その後はその一部が3度演奏されるにとどまり、生存中全曲が演奏されることはなかった。1892年にアイノ・ヤルネフェルトと結婚。後に六女をもうけるも、一人は2歳で他界。1899年に『愛国記念劇』の音楽を発表。この曲の7曲目が改作されて交響詩『フィンランディア』作品26として独立し、人気を博した。1904年にヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーに「アイノラ」を建てる。1908年に喉の腫瘍を摘出する手術を受ける。1915年、シベリウス50歳の誕生日。この記念行事のために、交響曲第5番が作曲された。1915年この頃には既にフリーメイソンのメンバーだった。1923年の交響曲第6番作品104、1924年の交響曲第7番作品105、1925年の交響詩『タピオラ』作品112を頂点にして、以後重要な作品はほとんど発表されなくなった。1957年にヤルヴェンパーで脳出血により没。91歳。ヘルシンキの大聖堂で国葬が営まれ、棺はアイノラの庭に葬られた。その後彼の肖像は、ユーロ導入までのフィンランド100マルッカ紙幣に使用された。クレルヴォ交響曲を除いて、7曲の交響曲が1900年から1924年の間に作られている。初期(第1番、第2番)は当時の流行に沿ってチャイコフスキーやワーグナーの影響の下、大規模で後期ロマン派的な傾向を持つ作品が多いが、中・後期(第3番以降)には古典派や印象派の様式を取り入れ、より内省的で簡潔なスタイルへと移行した。親しみやすい交響曲第2番作品43が有名であるが、交響曲第4番と交響曲第7番が最も洗練されており完成度が高い。また、交響曲第5番作品82は、作曲者の生誕50周年を記念して作曲された荘重なもの。1893年の音詩『エン・サガ』から、1925年の交響詩『タピオラ』まで、約30年にわたって作られている。1900年の音詩『フィンランディア』は、愛国的な感情を呼び覚ますとされ、当時支配を受けていたロシア当局の弾圧を受け、別名で演奏されたこともある。『レンミンカイネン組曲』、交響的幻想曲『ポホヨラの娘』(ポホヨラは伝説上の地名)、音詩『ルオンノタル』、交響詩『タピオラ』等、フィンランドの叙事詩文学である『カレワラ』に基づいている作品が多い。一方で、音詩『エン・サガ』や音詩『吟遊詩人』のように明確な筋書きを持たないものもある。なお、このジャンルにおけるシベリウスの作品は多くが「音詩」(Tondichtung)と題されており、明確に「交響詩」(Sinfonische Dichtung)と銘打ってあるものは最後の作品となった交響詩『タピオラ』のみである。全創作期間を通して、交響曲よりも長い期間にわたって、劇音楽の創作が続けられている。音詩『フィンランディア』の原曲が『愛国記念劇』の1曲として作曲されたほか、1898年の『クリスチャン2世』作品27に付随して作曲された「鬼蜘蛛の歌」、1903年の『クオレマ(死)』作品44に付随して作曲された「悲しきワルツ」などが有名。1893年に野外劇のため作曲された劇付随音楽『カレリア』(全9曲)はその後すぐに、『カレリア』序曲 作品10と、「間奏曲」「バラード」「行進曲風に」の3曲からなる『カレリア』組曲 作品11に改編された。青年期にヴァイオリニストを志望し、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団のオーディションも受けたこともあるシベリウスは1903年夏、最初で最後の協奏曲となるヴァイオリン協奏曲(作品47)を完成させている。1904年2月に行われた初演は成功したとはいえず、当時の批評は「美しい部分は多々あるものの、全体的に冗長である」というようなものが大半だった。その後シベリウスは作品を大幅に改訂し、より交響的で密度の凝縮したものとしている。1905年10月19日にR・シュトラウスの指揮でドイツで行われた改訂版での初演は成功し(それでもソリストを務めたヨーゼフ・ヨアヒムはとてもつまらなかったと評したという)、以後時が経つとともにこの曲を評価する声が高まっていった。現在では交響曲第2番や音詩『フィンランディア』と併せ、シベリウスの代表曲の一つとなっている。他に「セレナード」2曲、「ユモレスク」6曲など、ヴァイオリン独奏とオーケストラのための小品が多数書かれている。あまり大規模なものはないが、青年期の習作から1929年の『5つのスケッチ』作品114まで、ほぼ絶え間なく作曲されている。また、オーケストラ作品からのピアノ編曲も多い。この中ではとりわけ『悲しきワルツ』の編曲が有名である。弦楽四重奏曲の他に、ヴォイオリンやチェロのための作品がある。ピアノ伴奏の歌曲も、ほぼ全創作期間に作曲されている。管弦楽伴奏による作品もある。当時のフィンランドの言語事情を反映して、歌曲はスウェーデン語の作品が多く、合唱曲はフィンランド語の作品が多い。ドイツ語詩による歌曲も多い。歌曲以外の声楽曲は、管弦楽伴奏の独唱曲、「メロドラマ」と称される詠唱の入るもの、愛国的なカンタータ、合唱曲など多種多様である。とりわけ、1893年に作曲された無伴奏男声合唱曲『ラカスタヴァ』(恋する人) 作品14は、翌年に弦楽合奏つきのヴァージョンができた他、混声合唱曲、弦楽合奏曲にも編曲され、これらによっても親しまれている。ヘルシンキ大学合唱団はシベリウスの多くの男声合唱曲の初演にたずさわり、2種類の「無伴奏男声合唱曲全集」を録音した。オペラは『塔の乙女』という短い作品がある。1925年に交響詩『タピオラ』を発表後も、創作をやめることはなかった。しかし、自己批判的性向が年を追って高まり、なかなか作品を発表することができなくなっていった。世間では、交響曲第7番以後、いやでも交響曲第8番への期待が高まった。シベリウスの手紙に「交響曲第8番は括弧つきでの話だが何度も“完成”した。燃やしたことも1度ある」と記されている。2011年に、交響曲第8番のスケッチがヘルシンキ大学図書館で発見された。シベリウスは、クレルヴォ交響曲以来、全7曲の交響曲、主要な管弦楽作品を自ら指揮して初演している。しかしながら、彼による録音はほとんど残っていない。1939年に『祝祭アンダンテ(アンダンテ・フェスティーヴォ)』をフィンランド放送交響楽団と演奏したものが残っているが、それは別の指揮者(不明)のものとすり替わってしまった(そして、長らくの間後者の音源が自作自演だとみなされていた。ONDINEの『Sibelius Favourites』ライナーノーツによる)。シベリウス存命中は、ロベルト・カヤヌス、タウノ・ハンニカイネン、アルマス・ヤルネフェルト(妻の兄)、ユッシ・ヤラス(娘婿)などのフィンランドの指揮者が作品を取り上げた他、イギリスのエイドリアン・ボールト、アンソニー・コリンズ、ビーチャム、ハンガリー系アメリカ人のユージン・オーマンディらが録音を残している。この他、現在に至るまで、北欧系・イギリス系の指揮者による演奏・録音がほとんどであり、ドイツ・オーストリア系の指揮者は、カラヤン、クルト・ザンデルリングなど少数である。パーヴォ・ベルグルンドは、3つの管弦楽団による交響曲全曲の録音を手がけたほか、シベリウスの自筆譜を詳細に検討し、出版された楽譜の校訂を行っている。彼はシベリウスの晩年に暗い自宅を訪問していて、いきなり聞かれたのが「シェーンベルクをどう思うか?」という質問だった。彼は今まで新ウィーン楽派に対立していたので、指揮者が答えに困っていると本人は「彼をやっぱり支持するよ。」と言ったという逸話がある。オスモ・ヴァンスカは、小都市にあるラハティ交響楽団の演奏技術を飛躍的に高め、これまで演奏不可能とされていた交響曲第5番の初稿版・ヴァイオリン協奏曲の初稿版・交響詩『森の精』(作品15)などの録音を行っている。日本では、母親がフィンランド人である渡邉暁雄がシベリウス作品を得意とし、ステレオによる交響曲全曲の初録音、デジタル録音による全曲の初録音を残している。シベリウス自身は、本格的にピアノを練習したことはなく、人前で演奏したことはなかったが、自作の演奏は「作曲家として普通のレベル」であったと伝えられる。シベリウスのピアノ作品(作品番号付きのもの)を全曲録音したピアニストは、がいる。日本人では、舘野泉が1960年代よりフィンランドで活躍し、数々の演奏会・録音を行っている。シベリウスが実際に作曲に用いたアイノラのピアノによる演奏のCDもリリースしている。また渡邉規久雄(渡邉暁雄の次男)も、最近演奏会のCDを発表した。フィンランドでは、エーリク・タヴァッシェルナによる(原典では3巻からなる)評伝があり、ロバート・レイトンにより英訳もされている。この評伝では、特にピアノ作品の詳細な研究が有名である。フィンランド以外では、イギリスにおける評価が高く、イギリスの音楽評論家、セシル・グレイは、シベリウスを「ベートーヴェン以後最大のシンフォニスト」であると呼び、交響曲第4番について「無駄な音符が一つもない」と最大の賛辞を寄せた。日本においては、菅野浩和が1977年に『シベリウス -生涯と作品-』(音楽之友社刊)を上梓している(現在は絶版)。1986年には、H.I.ランピラ(稲垣美晴訳)『シベリウスの生涯』(筑摩書房)が訳出されている(現在は絶版)。その他、現在入手できる資料は、下記に記したものである。日本では1984年に日本シベリウス協会が発足し、初代会長は渡邉暁雄が務めた。現会長(3代目)は、新田ユリである。

出典:wikipedia

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