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雄山神社

雄山神社(おやまじんじゃ)は、富山県中新川郡立山町にある神社。旧称は立山権現・雄山権現。式内社、越中国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。霊峰立山を神体とし、立山の神として伊邪那岐神(立山権現雄山神・本地阿弥陀如来)・天手力雄神(太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の二神を祀る。神仏習合の時代には仏教色の強い神社であり、立山修験の源であった。また、元明天皇や後醍醐天皇の勅願所でもあった。峰本社(みねほんしゃ)、中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)、前立社壇(まえだてしゃだん)の三社をもって雄山神社とする。所在は富山県中新川郡立山町芦峅寺(あしくらじ)から岩峅寺(いわくらじ)にかけた一帯、広くは地獄谷や弥陀ケ原を含む立山連峰全域である。岩峅寺及び芦峅寺の「峅」と言う文字には「神様の降り立つ場所」の意味がある。峰本社、祈願殿、前立社壇の三社は三位一体の性格を持っているため、どの社殿に参拝してもご利益は同じとされている。これは山頂の峰本社には旧暦の7月~9月までしか参拝できない点及び、祈願殿は主峰雄山を正面に頂き開祖が晩年を過ごした点、前立社壇から立山開山の話が始まるなど、三社が各々独自に立山信仰に深く位置付けられている点、加えて古くは岩峅寺の前立社壇より山頂の峰本社まで宮司が歩いて通ったと伝えられることや今でも前立社壇の宮司が峰本社の宮司である事にも由来される。現在の祭神は以下の2柱。創建の年代は不詳である。社伝では、大宝元年(701年)に景行天皇の後裔であると伝承される越中国の国司佐伯宿祢有若の子、佐伯有頼(後の慈興上人)が白鷹に導かれて岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがためこの山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山であると言われている。また、大宝3年(703年)に釈教興が勧請したとも伝える。『万葉集』の巻17には、越中国国司であった大伴家持によって天平18年(746年)4月27日詠まれた「立山の賦」が収録されている。正史の記事によれば以下の2度、神階の昇叙を受けている。延長5年(927年)には『延喜式神名帳』により小社に列格された。『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』では、南北朝時代の安居院『神道集』や『日本鹿子』において越中国一宮とされていると紹介している。明治6年(1873年)に県社、昭和15年(1940年)に国幣小社に列せられた。戦後は、神社本庁が包括する別表神社となっている。立山は古来より、富士山、白山と並ぶ三霊山として全国各地から信仰されてきた。今では観光やスポーツ感覚の「立山登山」と言われるが、本来は立山に参拝するのが目的の「立山登拝」である。神殿は萬延元年(1860年)まで歴代の加賀藩主前田氏によって造営が行われていた。明治以降しばらく造営は途絶えていたが、平成8年(1996年)7月、136年ぶりに神殿の建て替えが行われている。峰本社は雄山(3,003m)山頂にあって冬期の参拝は不可能なため、山麓の岩峅寺に前立社壇を建てて年中の諸祭礼を行なうようにしている。『富山県史 民俗編』によれば、概して戦前までの村落共同体において、新川郡を中心とした在地の子弟は、早ければ15才の若者入り、遅くとも18才の名替(元服)までに一種の通過儀礼として立山登拝をすべきであると言う風潮が成立していた。登拝しなかった者は、仲間内において何かと、その事に関して攻撃の対象にされる雰囲気があったと言われる。但し、かつては登拝前に1ヶ月間殺生を慎み、忌服があればその年の参詣を見合わせるというような精進潔斎の段階が存在したので、登拝を行わない事例も存在した。また、登拝者は全て新調した白装束を用意し、弟であっても兄の使い古しは使用せず、杖一本に至るまで新調したと言われる。明治40年(1907年)頃から、服装の色や形式が自由になって行ったとされるが、それまでは登拝者の服装と言えば白装束であった。この習わしは学校登山の形で受け継がれ、富山県下には平成21年(2009年)現在でも、年間行事の一つとして立山登山を行う小学校がある。登拝者は、途中の河原で石を1~3個拾って行き、峰本社の傍らに供え、その前庭に敷いたが、『富山県史 民俗編』では、この習俗は立山と加賀の白山が背比べをしたとき、立山が馬のクツ(馬わらじ)の厚さだけ低かったので、立山を高くするために石を持って行くのだとする里人の伝承を紹介している。しかし同書では、伊勢神宮の「白石持ち」神事を神領民が行うこと、芦峅寺若宮(中宮祈願殿)の斎庭にきれいな川原石が敷き詰められていること、朝日町でお盆に清浄な浜辺の石3個を「オケソク」と言って墓に供える事などを例にあげ、神と祖霊の違いはあるものの、丸石に神が宿るとか、もっと別の呪力があるものとして、立山の神に捧げた物ではないかと考察している。『富山県史 民俗編』によれば、登拝者が下山する際には赤い長旗をみやげとして買ったり、あるいは赤い長旗を立てて下山したと言う。平成21年(2009年)現在、峰本社神殿前で登山安全のご祈祷を受けると「立山頂上雄山神社」の赤札が授与されるので、これを白木の金剛杖やトレッキングポール、リュックサックに付けて下山する姿が見られる。中宮祈願殿は、かつて中宮寺(芦峅寺)と呼ばれた神仏習合の施設。芦峅寺における立山信仰の拠点である。立山の主峰「雄山」を正面に頂く位置にあり、開祖佐伯有頼は、この地で晩年を過ごした。古来より武将や公家の信仰も篤く「お姥様」への献上品が奉納された。周辺に宿坊や、女人救済のための行事を行なう布橋などがある。女人禁制の立山信仰において、立ち入る事が出来た最終地でもある。芦峅寺の信徒は、「一山会」と呼ばれる独自の組織をなしていた。彼らは16世紀以降、諸国配札檀那廻りを行い、立山の縁起図や立山牛王紙、そして薬草や薬紛などを配置し、翌年に代金を受け取っていた。越中売薬の起源とも呼ばれる組織である。境内奥に西本殿(立山大宮)と東本殿(立山若宮)がある。「祈願殿」は江戸時代までは大講堂と呼ばれていた建物で、雄山大神を始めとする立山山中36社の神が合祀されている。立山信仰に関するテーマパーク「県立立山博物館」が隣接している。前立社壇は、平安初期に建てられた立山寺(岩峅寺)を前身とする神仏習合の施設。岩峅寺における立山信仰の拠点であった。開祖佐伯有頼が、立山権現の化身である白鷹によって導かれた岩窟の正面に位置し、この地より立山開山の伝説が始まった。武将や公家からの信仰も篤く古来より「立山権現」への献上品はこちらに奉納された。立山に入山する者の身の穢れや罪を湯立ての神事にて祓い、道中の無事を祈願した。現在も周辺には宿坊や旧登山道、石仏などが点在する。宿坊には立山曼陀羅が現在でも残されており、全国の門徒に立山信仰を広めた。また、脇を日本一の暴れ川と称される常願寺川が流れ、たびたび水害をもたらした事から、現存の規模になっているが、この施設から流されたものが、御神体になって作られた神社が、下流地域にいくつもあることから、昔は今よりも大規模な施設であったと推測される。佐伯有頼が建立した当時の建物はすでに古文書の中にしか無く、現在残っているものは源頼朝が修復・再建し、足利義材が修復したものが受け継がれている。その為か神社の建物に菊の紋章が入っていない珍しい神社でもある。立山信仰の入り口に位置している特性上、本殿を挟んで両脇に鳥居(表鳥居・東鳥居)と神門(表神門・東神門)が存在する作りもこの前立社壇の特徴の一つでもある。ほか多数

出典:wikipedia

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