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チベット自治区

チベット自治区(チベットじちく、チベット語: プー・ランキョン・ジョン, )、或いは西蔵自治区(せいぞうじちく)は、中華人民共和国(以下、「中国」)の西南部を占める区域自治区である。中国の公認された少数民族としてのチベット族(蔵族)の居住領域に設けられた民族自治区とされるが、チベット自治区の領域は歴史的・文化的なチベット地域のうちの、中国領に内包される部分の一部で、歴史的に西蔵と呼ばれてきた地方を占めるのみであり、中国語による名称は「西蔵自治区」という。一方、日本語では戦前から長く西蔵とチベットはほとんど同義であるかのようにして用いられてきており、「チベット自治区」と「西蔵自治区(チベットじちく、シーツァンじちく、などの読みが見られる)」という二つの呼称が平行して使用されてきた。もっとも、近年の日本政府関係資料や日本のマスコミの用法では「チベット自治区」の呼称がより多く見られる。政治的単位としてのチベットが、歴史的・文化的なチベットの全体ではなく、中国によって設定された行政区域であるチベット自治区(西蔵自治区)と同一視されることもしばしばある。こうした視点は、そもそも前述の日本語における戦前からの「チベット」の意味合いから逸脱したものではない。中国政府のチベット政策に反対する亡命政府や彼らに資金・物資・人材の支援を行う機関は、チベットとチベット(西蔵)自治区の同一視に対して異議を唱えている。チベット自治区は、チベットの伝統的な地域区分にいう、ガリー・ウー・ツァン・コンポ・タクポ・三十九族・チャンタン・カム地方の西部などに相当し、中国政府はこれをラサ市、山南地区、シガツェ市、ナクチュ地区、ガリ地区、ニンティ市、チャムド市に区画している。自治区の歴代の長官については西蔵自治区人民政府主席を参照。中国内地に成立した政権、中国内地を征服し中国内地に本拠を置いた歴代の政権で、チベットの内部にまで直接の軍事的・行政的支配の手を延ばした政権としては、フビライ政権以降のモンゴル帝国と、雍正帝以降の清朝が存在する。「西藏」と称する中国の行政単位の直接の起源は、1723年、雍正帝によるグシ・ハン一族の征服とそのチベット支配体制の解体に遡る(詳しくは「チベット」の項を参照)。雍正帝は、グシ・ハン一族がチベット各地に保有していた、各地の諸侯や直轄地に対する支配権を接収、グシ・ハン一族と麾下の青海モンゴルの各部族を青海(アムド)地方において30の「旗」に編成して理藩院の管轄下に置き、その属領を二分してタンラ山脈(唐古拉山脈)、ディチュ河(金沙江)を結ぶ線の南側をダライラマ領に加え、この線の北側には青海地方を設けたほか、残る部分を隣接する甘粛省・四川省・雲南省などの諸省に分配し、これらの土地のチベット人諸侯に各級の土司職の称号を与え、兵部を通じて支配下に置いた。グシ・ハンによって1642年に寄進されたヤルンツァンポ河流域と、この分割により新たにダライラマ領に加えられた地域を併せた領域が「西藏」地方である。雍正帝によるチベットの行政区画は、基本的には20世紀初頭まで維持されたが、1903年から1904年、ヤングハズバンド率いる英領インド軍の侵攻に驚いた清朝は、ダライラマや諸侯による自治に委ねてきた旧制を廃し、チベットを、中国に施行していた制度によって直接掌握することを決意、1905年、趙爾豊ひきいる四川軍を西方に向かって進発させた。趙爾豊軍はチベット人たちの抵抗を粉砕し、チベットを東方から次第に軍事的に制圧しながら1909年ラサに到達、四川省の西部とダライラマ領の東部(すなわちカム地方)に「西康」、ダライラマ領に「西藏」という2つの「省」の設置に取り組もうとした。しかし1910年に中国の共和化を目指す辛亥革命が勃発すると、趙爾豊は本務地の四川に帰還し、そこで共和派によって殺害された。チベットを占領していた清朝軍は動揺、インドに脱出していたダライ・ラマ13世は、1913年チベットに帰還し、チベットの独立を求めて清朝軍の残党に対する抵抗を指令、中国人の占領軍はディチュ河の線まで押し戻された。チベット政府がチベット全域の領有を目指したのに対し、中国側では青海・甘粛で清代以来の旧状を保持したほか、中央チベットを「西藏」、趙爾豊が「西康省」を設けようとした地方を「川辺特別地区」と称し、チベット全体が中国領であると主張し続けた。南京国民政府は、1931年、実際にはチベット政府の統治下にあるカム地方西部を含め、カム地方全域を管轄地域とする「西康省」を発足させた。中国共産党は、国民党との内戦に勝利し、チベットに対しても、1949年までにアムド(青海)地方、カム地方を制圧し、この年の10月に「中華人民共和国の建国」を宣言して「中国人民政府」を発足させた。そして1950年、「西藏和平解放」と称して人民解放軍を中央チベットに派兵、1951年にラサを占領し、チベット全土を制圧した。中国人民政府は、旧国民政府が「西康省」に帰属させながら実際には実効支配を確立できなかったカム西部(昌都地区)については、中国政府に忠誠を誓うチベット人によって組織された「昌都解放委員会」の下、引き続き「西藏地方」に帰属させ、カム地方東部のみを範囲として「西康省藏族自治区」を発足させた。この時、チベット人の比率が低く、国民政府が「西康」地方に帰属させていた南昌地区は、雲南地方に移管された。この「自治区」は1955年に廃止され、カム地方東部は四川省に組み込まれ、中国によるチベットの行政区分は、雍正期以来の状況に回帰することとなった。チベット政府が「西藏和平解放」によって締結を強要された「十七ヶ条協定」は、チベットを「中華人民共和国祖国大家庭」に「復帰」するものと規定するものであったが、ダライラマを初めとするチベット政府の各級職員が引き続き「西藏」部分の統治を担い「改革は強要されない」という規定もあった。しかしながらこの協定の適用範囲はあくまでも「西藏」地方に限定され、その他のチベット各地では中国内地で何年もかけて徐々に展開された「民主改革」「社会主義改造」が、1950年代半ばから強行されることとなった。「改革」が諸侯・俗人貴族の政治的地位や特権の廃止に留まっている間は、反発も少なく歓迎する民衆も少なく無かったが、対象が寺院や僧侶に向うと、チベット人の反発は大きくなり、1956年からアムド・カムの各地で中国支配に反発する蜂起が始まった。1959年に頂点を迎える「チベット動乱」の勃発である。蜂起の当初は、中国の統治機構をアムド・カムのほとんどから一時的に一掃する勢いであったが、鎮圧の為に中国軍が組織されると、各地の蜂起軍は西藏地方へ逃れ、難民も発生した。蜂起軍は西藏に於いて、統一抗中組織「チュシ・ガンドゥク」を結成、中国政府に対する組織的なゲリラ活動に踏み出した。争乱は1959年にラサに波及、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命しチベット亡命政府を樹立した。中国政府は「チベット政府の廃止」を宣言、西藏地方を「西藏自治区籌備委員会」の管轄下に置き、1966年、西藏自治区が発足する。以降、ダライ・ラマ14世のチベット亡命政府と中華人民共和国は、自治権・独立性・領域などについて、度々主張が衝突している。中国政府は、中国に批判的なチベット人を徹底して弾圧している。自治区は北西部で新疆ウイグル自治区、北東部で青海省、東は四川省、東南部で雲南省と接し、南はミャンマー、インドアッサム州、ブータン、ネパール、カシミール地区と国境を接する。青藏高原の中心をなすチベット高原は海抜 4,000 メートル以上の大高原であり、「世界の屋根」と称される。高原南部のヒマラヤ山脈は急峻な山々が峰を連ね、ネパール国境にあるチョモランマ峰は海抜 8,848 メートルに達する世界最高峰である。また、三大聖湖であるナムツォ(納木錯)、ヤムドク湖(羊卓雍措}、マーナサローヴァル湖(瑪旁雍措)を含む湖が沢山あり、特にチベット高原北部は地球上で最も湖が多い地方の1つである。チベットの気候は標高の高さから冬が長く夏が無い為、チベット高原北部では水源の乏しい地区には広大な無人の荒地が広がっている、また日照は十分にある。空気が希薄なため、外来者は高山病にかかりやすい。高山病の対策は身体を徐々に慣らして行くことである(高度馴化)。日本の約4倍の面積。2002年の人口267万人のうち、チベット族が93%を占め、漢族が6%でこれに次ぐ。残りは回族0.3%、モンパ族0.3%などわずかに過ぎない。首府ラサとシガツェ地区のシガツェ、ギャンツェは国務院により国家歴史文化名城に指定されている。ラサ市内のダライラマの冬宮であったポタラ宮は1994年にユネスコの世界遺産に登録され、チベットで最も神聖な寺院であるジョカン(大昭寺)も2000年には拡大登録、更にはダライラマの夏宮であったノルブリンガも2001年拡大登録された。チベット自治区は5地級市及び2地区からなる。2002年の全区生産総額は161億人民元で、全国32省区市のうち32番目であった。ただ、一人当たり生産額は 6,046 元で、全国22番目である。チベット族の 80% は農牧に従事しており、貧困地域が多いが、開放政策によりラサやシガツェ、ギャンツェなどに観光客が入るようになり、観光業の伸びが著しい。また、自治区内の農民や遊牧民はあらゆる税が免除される。さらに2000年からチベット自治区でも国務院の西部大開発政策が実施され、青蔵鉄道や道路の建設などが加速している。2004年の全区輸出額は対前年比 6.9% の 13,008 万米ドル、輸入は対前年比 136% 増の 9,345 万米ドルであった。また個人が辺境で行う零細な貿易も対前年比 31% 増の2億人民元に達したと報告されている。ただ、中国全省の政府工作報告は2005年1月に行われた「2005年政府工作報告」までインターネットで閲覧できるのに、チベット自治区の政府工作報告は2003年までしか公表されておらず、極めて異例な事態となっている。大量の石油、天然ガスや鉱物資源(希土類元素)の存在も確認されている。西部のガリ地区を除く自治区全域は成都軍区(王建民司令員)の管轄下にあり、下級のチベット軍区には 第52山地旅団、第53山地旅団の存在が確認されている。新疆との関係が強いガリ地区は蘭州軍区が管轄する。また公安部(警察)に所属する武装警察部隊数十万が駐屯するとも言われる。

出典:wikipedia

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