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紀藤真琴

紀藤 真琴(きとう まこと、1965年5月12日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。中京高校時代は控え投手兼任外野手として、1982年の第54回選抜、第64回全国選手権、1983年の第65回全国選手権に出場。主戦投手の野中徹博との2枚看板、Wエースと言われ、球威は野中が一番だが、球速は紀藤が一番とも言われた。甲子園では3試合に野中をリリーフして登板。その後、1983年ドラフト会議で広島東洋カープから3位指名を受け入団。プロ入り1年目の1984年から3年間は二軍生活が続き、一軍登板はなかった。1987年に初登板を果たす。この年は勝利投手にはなれなかったものの18試合に登板し、頭角を現す。1988年は中継ぎ中心ながら10試合で先発で投げ、4勝3敗、防御率3.66の成績を残した。1989年は中継ぎとしてリーグトップの61試合登板を果たした。この年は先発での登板はなかったが4勝1敗7セーブ、防御率2.68と好成績を残した。1990年は前年より登板数が減り、36試合の登板にとどまったが、防御率2.58とこの年も安定感があった。1991年も36試合に登板し、安定感は欠いたがセントラル・リーグ優勝に貢献。しかし、西武ライオンズとの日本シリーズでは第1戦、第6戦に登板したもの、2回とも満塁弾を打たれKOされた。1992年は21試合に登板。1993年も20試合の登板で前年とそれほど変わらなかった。1994年からは先発へ転向、自身最高となる16勝5敗の成績を残し、4試合連続2ケタ奪三振、最高勝率を記録する。1995年10月8日の巨人戦では、この試合が引退試合となった原辰徳に引退の花道を飾るホームランを打たれた(ただし紀藤は勝利投手になり10勝目を挙げている)。1996年もシーズンでは12勝を挙げ3年連続2桁勝利をあげたが後半戦6連続先発失敗し優勝を逃す要因になってしまった、この年以降は衰えが顕著になる。1997年はわずか1勝しか挙げられなかった。1998年も勝ち星を伸ばせず、3勝8敗の成績で終わった。1999年は24試合のうち14試合に先発として登板したが5勝6敗という成績で終わった。防御率は3点台後半だったがこれまで程の不振ではなかった。2000年は先発で結果を残せず、抑えとして登板し、5セーブを挙げたものの登板数を増やすまでには至らなかった。オフに鶴田泰との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。2001年は21試合に登板したが全て中継ぎだった。防御率は3.20と悪くはなかった。2002年は30試合のうち7試合に先発として登板。4勝4敗1セーブで防御率は2.85と安定感があった。2003年には主に先発で登板、防御率4.78と安定感を欠いたが、7勝8敗の成績をあげた。2004年は12試合の登板に終わった。シーズンオフに球団から戦力外通告を受け、その後無償トレードで楽天イーグルスへ移籍。2005年は創設一年目で全盛期を過ぎたベテラン選手が多く、その選手を多く起用せざるを得なくなったチーム事情において自身は先発投手を任されるが、打ち込まれることが多くかつての安定感を取り戻すことはできなかった。わずか8試合で0勝5敗、防御率6.25という不本意な成績で終わり、この年の楽天のオフはベテラン選手や新外国人選手などを大量に戦力外を通告したが、自身も戦力外通告を受け、現役を引退。満塁本塁打の記録をもつ中村剛也から初めて満塁本塁打を打たれた投手である(6月26日西武戦、出典週刊ベースボール2015年8月31日号、P57)。2006年から楽天の二軍投手コーチに就任、2007年からは一軍投手コーチに昇格。2008年まで務め、田中将大・岩隈久志を育てた。2008年は楽天球団初のチーム防御率3点台だった。2009年、水戸市にあるパーソナル電電株式会社の執行役員となり、市内の少年野球チームの監督を務めた。2010年、興農ブルズの投手コーチを1年間務め、2011年から2013年まで統一セブンイレブン・ライオンズの投手コーチを務めた。2014年からは、再び先述の会社へ戻り、同時に野球教室「紀藤塾」を開校。小学生から社会人まで幅広く指導をしている。また、同社には同じく元プロ野球選手の一場靖弘がいる。

出典:wikipedia

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