寧波市(ねいはし、ニンポーし、、、)は、中華人民共和国浙江省に位置する副省級市、計画単列市に指定されている。沿海部の港湾都市として商工業が発達しているが、同時に古い歴史を誇り国務院から国家歴史文化名城に指定されている。市域は杭州湾南岸から三門湾に至る沿海部を占める。寧波旧市街は甬江河口から少し遡行した場所にある。河口部右岸の北侖は深水良港となっている。沖合いには舟山列島(舟山市)が浮かび、外洋は東シナ海(中国語では東海)である。西方は紹興市や台州市と接する。温暖湿潤気候(Cfa)に属し、年間平均気温は17.2℃。7000年前の稲作文化として名高い河姆渡遺跡を有し、春秋時代には越の地であった。戦国時代中期に楚に併合され、紀元前222年秦に統一されて会稽郡が設置された。唐代の開元年間に明州と呼ばれ、南宋では慶元府、元代には慶元路と称された。2度目の元寇、1281年の弘安の役では、江南軍10万、約3500隻が日本へ向け出港したが、帰ってきた者はわずか1割から2割ほどだった。ただ古くから日本と交流のあった旧南宋人は日本で捕虜となった後も処刑されず助命され、九州などの宋人街などに住んでいた。明建国間近の1367年、再び明州の呼称に戻り、清代に寧波府と称されるようになった。この呼称が現在でも受け継がれている。唐代から日本、新羅、東南アジアの船が往来し、宋・元の時代にも日本の仏僧が遊学した。宋代より市舶司が設置された。外国船の入港地が国ごとに決められていた明代には寧波が日本の指定港となり、日明貿易(勘合貿易)が行われるが、1523年の寧波の乱ののちに日本船の入港が禁止されると、倭寇や海賊の横行が激しくなり、16世紀には朝廷から朝貢を拒絶されたポルトガル船が沖合いの双嶼島で密貿易を行った。1842年の南京条約で対外開港した。また、日中戦争時には日本の731部隊によるペスト菌攻撃の標的となった場所としても知られている。1940年10月27日早朝の攻撃では、低空飛行の飛行機から細菌をまく方法で行われ、この時使われたノミは、ペスト菌を持つネズミの血を吸い「ペストノミ」となったものだった。ノミだけではうまく目的地点に到達しない恐れがあり、また着地のショックを和らげる必要もあって、穀物や綿にまぶして投下した。11月3日までに37人が死亡し、華美病院の丁立成院長が、犠牲者の症状をペスト菌であると宣言している。6市轄区・2県級市・2県を管轄する。2003年の経済実力は全国第12位にあり、私営経済が極めて発達している。また外国からの投資も活発で、2003年の輸出額は188億米ドルに達した。2008年、杭州湾を横断して寧波と上海を結ぶ杭州湾海上大橋が完成した。海上橋としては世界一の全長を誇る。寧波市は広東省東莞市と並ぶ中国最大の射出成形機生産地であり、関連の部品メーカーを含め多くの企業がこの地域に集積している。中国本土製射出成形機の50%以上がこの地で生産されていると推定され、世界生産の3分の1を占める。寧波市北侖区にはデマーグや住友重機械工業ほか韓国、台湾系やイタリア等のプラスチック機械メーカーが進出。世界最大の生産販売台数を誇る寧波海天集団もここに生産拠点を構える。空港鉄道船道路バス
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