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源希義

源 希義(みなもと の まれよし)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源義朝の五男。源頼朝の同母弟で、同母姉妹に一条能保室の坊門姫がいる。平治元年(1159年)の平治の乱で父兄が死亡した後、駿河国香貫(現 静岡県沼津市香貫町)にて母方の伯父の藤原範忠によって朝廷に差し出され、兄頼朝が伊豆へ配流になった日と同日の永暦元年(1160年)3月11日土佐国介良荘(現 高知県高知市介良)に流罪となる。以降「土佐冠者」と号し、そのまま流刑地にて成人した。治承4年(1180年)8月の兄頼朝の挙兵を受けて、希義に合力の疑いがあるとして平家により希義の追討令が出された。希義は土豪の夜須行宗を頼ろうとするが、平重盛の家人である蓮池家綱・平田俊遠に事前に察知され、奇襲を受けて年越山(現 高知県南国市か)で討ち取られた。希義の師僧であった土佐国の琳猷上人は、平家の目を恐れて葬儀もされずうち捨てられていた希義の死体を引き取って供養したという。文治元年(1185年)3月27日、上人は希義の鬢髪を首にかけて鎌倉を訪れ、頼朝と対面した。頼朝は「上人がおいでになった事は、亡き希義の魂が再び訪ねてきた事のようです」と賛辞を尽くしたと伝えられる。『平治物語』における死没記事は『吾妻鏡』とは多少異なり、治承4年頼朝の挙兵の報を受けた平家方勢力によって包囲された希義が父義朝の為の仏事を行ってから自害した、となっている。また、治承4年頃に希義は熊野などの海上勢力と提携して南海に独自の反平家勢力圏を構築する動きを取っていたと見る説もある。同母兄である頼朝はその死をいたく悲しみ、大軍を派遣して蓮池・平田らを殲滅した後、希義の墓所として介良荘に西養寺を建立して菩提を弔った。寺名は希義の法名「西養寺殿円照大禅定門」に由来する。希義の没年に関する記載は、文献によって次のように異なる。墓所として建立された西養寺は近世には寺運が衰え、明治時代の廃仏毀釈で廃寺となって現在は跡地(高知県高知市介良、)として残っている。西養寺跡地には無縫塔(高知市指定文化財)が立つが、地元ではこれを希義の墓として伝えている。この墓では、1995年に鎌倉の源頼朝の墓と土と石を交換して兄弟の再会を果たす催しが行われた。また、墓の上には希義を祀る希義神社が建っている。このほか、高知県高知市横浜東町には希義を祀った聖神社がある。

出典:wikipedia

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