清水 将海(しみず まさうみ、1975年1月9日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロ野球選手(捕手)。現在は、福岡ソフトバンクホークスの一軍バッテリーコーチを務めている。東農大二高から東都の青山学院大学に進学。高校では3年の時、第64回選抜高等学校野球大会に出場したが、初戦で佐賀商の前に敗退した。大学では同期の井口忠仁、澤崎俊和、倉野信次、1学年下の高須洋介らと共に黄金時代を築く。ベストナイン受賞2回。1996年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから1位指名を受けて入団。当時の背番号は8(当初、大学時代と同じ背番号22となる予定であったが、定詰雅彦の阪神タイガースへの移籍で空き番となった8へ変更された)。ルーキーイヤーであったの開幕戦で小宮山悟とバッテリーを組み完封勝利を挙げる。また、この試合でプロ初ホームランを打つ。以降は前年中日から移籍してきた、打撃の良い吉鶴憲治と併用され、打撃の弱さを守備面でカバーして現在活躍する投手陣の発展期を支えた。には、吉鶴、橋本将、椎木匠等との争いに勝利し、正捕手に定着した。の日米野球に小林雅英と共に出場、3打数3安打と活躍した。シーズンは里崎智也の台頭でレギュラーを奪われてしまう。シーズンオフにはボビー・バレンタインが9年ぶりに監督就任。彼の構想は里崎と、里崎同様に打撃の良い橋本を相手チームの先発投手に合わせて起用するものであり、事実上の「構想外」となってしまった。オフに、山北茂利との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。背番号は50。移籍初年度のはプロ入り初の一軍出場なしに終わった。翌に背番号を39へ変更。移籍後初の一軍出場を果たし、日本シリーズの出場資格者にも選ばれた。は開幕一軍入りを果たし、移籍後初スタメンを果たすなど力は戻ってきており、谷繁元信、小田幸平に次ぐ第三の捕手としてではあるものの一軍に留まった。シーズン終盤には一軍登録を抹消されたが、前年同様日本シリーズの出場資格者にも選ばれ、同年のアジアシリーズにも出場した。は開幕直前に右手親指を骨折する怪我により出遅れる。その後復帰し、第一捕手の谷繁、第二捕手の小田の相次いだ怪我により出場機会を増やし、立浪和義の代走としても起用されたが、8月終盤に登録抹消され前年よりも出場試合数は減少。同年、国内FA権を獲得。は春季キャンプ、オープン戦も一軍に帯同するも開幕は二軍スタート。その後、谷繁が故障したため一軍登録されるが、小田、北海道日本ハムファイターズから移籍してきた小山桂司がマスクを被ることが多く、小川将俊に代わるように再び二軍に降格し、結局4月9日の1試合のみの出場に終わった。6月25日、三瀬幸司との交換トレードで福岡ソフトバンクホークスへ移籍。背番号はロッテ在籍以来のひと桁である4に決定。同年は中日、ソフトバンクで1試合ずつの出場に終わった。は山崎勝己と、FAで埼玉西武ライオンズから移籍してきた細川亨らの存在もあり、わずか3試合の出場に終わった。10月7日に当シーズン限りでの現役引退を発表。2012年からはソフトバンクの二軍バッテリーコーチ、2014年からは三軍バッテリーコーチ、2016年からは一軍バッテリーコーチを務めている。中日在籍時代のから群馬県観光特使を務めている。芸能界では社会貢献活動が縁で知り合った俳優の柳葉敏郎と親交がある。また、同郷の歌舞伎俳優市川喜猿や、同じく歌舞伎俳優の市川裕喜の依頼で、ふたりが所属する市川猿之助一座の野球チームであるモンキーズの名誉バッテリーコーチを務めている。
出典:wikipedia
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