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アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)

アルフォンソ10世(アルフォンソじゅっせい、, 1221年11月23日 - 1284年4月4日)は、カスティーリャ王国の国王(在位:1252年 - 1284年)。一時はドイツ王(在位:1257年 - 1275年)でもあった。フェルナンド3世と最初の王妃ベアトリス・デ・スアビアの長男である。母のベアトリスは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の従姉妹であり、ボヘミア王オタカル2世は母方の従兄にあたる。学芸の振興に努めたため「賢王」「賢者」「学者」を意味する"el Sabio"の別名で知られている。アルフォンソ自身は権力の基盤は英知にあると考えており、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教を統べる「三宗教の王」と称されることを好んだ。また、現在のスペイン語の母語となったカスティーリャ語の確立者の一人とみなされており、「カスティーリャ語散文の創始者」と呼ばれている。彼の治世にカスティーリャの文化・宗教双方の中心地はコルドバから首都のトレドに移り、アラビア文化を学ぼうとするヨーロッパ各地の研究者がトレドに集まった。学術面の功績とは逆に、政治の実績には否定的な評価が下されることが多い。1221年11月23日にフェルナンド3世とベアトリスの長子として、トレドで誕生する。幼少期の事績については不明な点が多い。幼時から統治と軍事についての教育を受け、1236年からコルドバ地方のイスラム教徒の居住地を征服した。1243年にサンティアゴ騎士団とともにムルシアのイスラームの領主アブー・バクルを降伏させ、ムルシア地方を支配下に置いた。1248年に父フェルナンドが敷いていたセビリア包囲に参加し、翌1249年にアラゴン王ハイメ1世の娘ビオランテと結婚した。1252年にカスティーリャ王位を継ぎ、カスティーリャ、レオンを相続する。イベリア半島南部のアルガルヴェ地方の国境部の領有を巡ってポルトガル王国と争い、1254年にはガスコーニュに軍を進めた。ガスコーニュ攻撃の直後にナバラ王国の王位の継承権を主張したためアラゴンと対立するが、1256年のソリア条約で和解した。1260年にモロッコのサレでマリーン朝に対する反乱が起きると、アルフォンソは艦隊を派遣して反乱を助けた。カスティーリャ軍はサレを略奪するが、ムワッヒド朝の残党の包囲を受けて退却し、モロッコにアフリカ進出の拠点を築くことはできなかった。1262年にカスティーリャがカディス、を占領したため、グラナダのナスル朝との関係が悪化する。ナスル朝はアル=アンダルスのムデハル(ムスリム)の反乱を扇動し、ヘレス、アルコスなどで蜂起が発生した。カスティーリャはマラガの有力貴族アシキールーラ家の反乱を支援してナスル朝に対抗し、ナスル朝はアシキールーラ家の反乱鎮圧に専念するため、1266年に和約を締結した。1250年代初頭からの神聖ローマ帝国の大空位時代には、母のベアトリスの出自を根拠に神聖ローマ皇帝位を請求し、アル=アンダルスへの進出を図るピサのギベリンからの支持を受けた。1257年にアルフォンソは同じく神聖ローマ皇帝候補に挙げられていたコーンウォール伯リチャードとともにドイツ王に選出された。義父であるハイメ1世は反対し、ローマ教皇も破門を示して即位に反対した。1272年にリチャードが没すると教皇グレゴリウス10世はドイツ諸侯からのドイツ王の選出を要請し、1273年にハプスブルク家のルドルフ1世がドイツ王に選出された。アルフォンソの試みは失敗に終わり、工作に注ぎ込まれた多額の資金と労力は王国に損失をもたらした。アルフォンソは神聖ローマ皇帝位を獲得する運動に際して国を空けることが多く、王の留守は反乱の温床となった。貴族の一部はアルフォンソの弟フェリペを擁して反乱を起こした。1275年にアルフォンソが教皇庁に赴いた隙をついて、マリーン朝の君主アブー・ユースフ・ヤアクーブがイベリア半島に上陸した。1275年9月にマリーン朝とナスル朝の連合軍はエシハでカスティーリャ軍を破り、アルフォンソの義兄弟であるトレド大司教サンチョが戦死する。翌1276年にアブー・ユースフが退却するまでの間、王子サンチョがイスラム教徒への抗戦を指導した。1275年に反乱の鎮圧に奔走した王太子フェルナンドが病死すると、王位の継承権を巡って国内は分裂する。フランスを後ろ盾としてフェルナンドの遺児アルフォンソを擁立する勢力と、王子サンチョを支持する勢力に分かれ、1282年にサンチョはアルフォンソの廃位と自らの即位を宣言した。サンチョは国内の貴族、都市、聖職者、騎士修道会とポルトガル、アラゴン両王国からの支持を受け、アルフォンソはセビリアに追われた。セビリアに逃れたアルフォンソはサンチョを廃嫡し、マリーン朝に援軍を求めた。アルフォンソとアブー・ユースフはコルドバでサンチョを包囲し、マドリードに攻撃をかけた。しかし、マリーン朝からの援軍も状況の打開には結びつかなかった。アルフォンソはいくつかの都市にしか支持されず、1284年にセビリアで没した。死後、セビリア大聖堂に埋葬された。アルフォンソは国内の安定に向けて、アル=アンダルスへの再殖民、王国の法・政治制度の統合を重視した。アル=アンダルスの建築物は破壊されずに残され、イスラム統治時代の農場や村の境界線はカスティーリャの支配下でも存続した。カスティーリャはイスラム教徒が支配した痕跡を払拭するためにアル=アンダルスの地名をすべて改称したが、改称後の名前は定着せず、イスラム時代以前の地名が使われることが多かった。アルフォンソの治下では王権強化のため、国王裁判所の権限強化、コルテスの定期開催、貴族・廷臣の奢侈の取り締まり、宮廷儀礼の整備が実施された。王権強化策の根底には古代ローマ法の理念があり、アルフォンソは王である自身を神と地上の臣民の仲介者と考えていた。国王裁判所での使用を目的に作成された『七部法典(シエテ・パルティーダス)』は、地方ごとに異なる慣習を統一する役割を持っていた。『七部法典』は他のイベリア諸国、さらには近代のスペインとその海外植民地の法律にも反映された。法令としての役割以外に、『七部法典』は歴史・社会・文学的価値も評価されている。同じローマ法に基づく法令であり、都市法の上位に置かれる『フエロ・レアル』も編纂された。しかし、こうした王権強化策に貴族と都市は反発した。アルフォンソは経済政策、貨幣制度の改革にも取り組んだが、成功とは言い難かった。税を引き上げたものの徴収は難航し、レコンキスタで獲得した戦利品から得られる利益も減少した。さらに悪貨の発行によって物価と賃金の高騰を招いた。アルフォンソが志した王権の強化は、14世紀のアルフォンソ11世の時代に実現する。『七部法典』が初めて公布されたのは、1348年になってからである。アルフォンソの宮廷では、著述活動とともにアラビア語文献の翻訳が推進された。1085年から続いていたトレド翻訳学派(トレド翻訳学校)は国の後援を受け、翻訳学派にはイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒の学者の集団が属していた。学術書以外に、図説書『』、説話集『ムハンマドの梯子の書』が翻訳された。翻訳事業には即位前から着手しており、1250年に『宝石の書(宝石名鑑)』、1251年に寓話『カリーラとディムナ』のアラビア語からカスティーリャ語への翻訳を後援している。ただし、『カリーラとディムナ』については、彼が翻訳を命じたかは定かではない。アルフォンソの即位より前のトレド翻訳学派はカスティーリャ語に翻訳した書籍をラテン語に重訳していたが、アルフォンソの時代に重訳は行われなくなる。カスティーリャ語で記述された文献が参照された地域は、カスティーリャ内にとどまった。アルフォンソは13世紀当時のカスティーリャで支配的言語の地位にあったラテン語からの脱却を目指し、歴史学、宗教、文学の分野でもラテン語に代えてカスティーリャ語の使用を推進した。そして、カスティーリャ語は著述活動以外に、司法の場でも公用語として用いられるようになった。しかし、国外に発せられる公文書では、依然としてラテン語が使用されていた。アルフォンソが後援したカスティーリャ語による著述活動においては、書き言葉として必要な語彙がラテン語・ギリシャ語からカスティーリャ語に輸入され、既存の単語から多くの派生語が生まれた。新しい語彙の輸入に際して、編纂者には単語の出所の明示と定義付けが厳しく要求された。綴り字には一定の原則が設けられ、アルフォンソの時代の文献に表れた綴り字の体系は「アルフォンソ正書体」と総称される。アルフォンソ正書体は不完全なものだったが、基盤となる部分は後世に継承された。アルフォンソが行ったカスティーリャ語の推進活動は政治・文化的な意図が含まれていた。その活動は政治と文化の大衆化、支配者から民衆への意思伝達の改善による、国内の統一の強化を目的としていたと思われる。アルフォンソの時代にカスティーリャ語に文章語としての規則と文化的権威が付加され、イベリア半島の一方言だったカスティーリャ語の使用範囲は拡大した。様々なアラビア語文献の中でもアルフォンソが興味を持っていた天文学、占星術の書籍が、多く訳された。『天文学の書』ではプトレマイオスの天動説に基づく天体の動きが体系的に説明され、随所に道徳・宗教的な説話が挿入されている。他に天体の動きと宝石の関連性について述べた『宝石の書』が訳された。トレドではアストロラーベや時計などを用いて天体観測が行われ、その結果を元にアッ=ザルカーリーが作成した天文表を修正した。天文表は彼の名前をとってアルフォンソ天文表と呼ばれるが、実際にアルフォンソの元で作成されたかを疑う意見もある。アルフォンソ在位中のカスティーリャ王国ではイベリア史と世界史の編纂事業が行われ、『スペイン史』()と『世界史』()、の2冊の年代記が完成した。史書の編纂に際してはアルフォンソ自らが編者を選定し、校閲にあたった。『スペイン史』の編纂にあたっては国王年代記、古典史料以外にイスラームの史料、叙情詩も用いられた。叙情詩は散文化された状態で『スペイン史』に収録されており、その中には元の詩が散逸したものも含まれている。いずれの年代記の記述も史実と虚構が混在しているが、こうした傾向には中世ヨーロッパ人の歴史観が現れているとも見なせる。『スペイン史』では1252年までのイベリア史が扱われているが後の時代に何度も増補・改訂され、アラゴンやポルトガルでも参照された。1906年、メネンデス・ピダルは『スペイン史』を『第一総合年代記』と題して出版した。当初『世界史』は天地創造からアルフォンソの治世までを記述することが予定されていたが、天地創造から聖母マリアの家譜を記述するところで終わっている。『世界史』にはギリシャ神話の英雄が多く登場する点が特徴として挙げられる。アルフォンソは詩作を好んだほか、作曲も手がけている。1257年から1279年にかけての時期に詩人、楽士、ムーア人の踊り手の協力を受けて400超のカンティーガ(叙情的な歌謡)から構成される『聖母マリアのカンティーガ集(Cantigas de Santa María、「聖母マリア頌歌集」、「カンティーガス・デ・サンタ・マリーア」とも)』を完成させた。『聖母マリアのカンティーガ集』はガリシア語で書かれており、西ゴート王国時代の典礼歌と民衆の歌謡曲、東方起源の賛歌、中世の舞踊の影響を受け、トルバドゥールとトルヴェールの技法を取り入れている。『聖母マリアのカンティーガ集』の挿絵にはアルフォンソとともに当時使用されていた楽器や衣服が描かれており、貴重な史料となっている。また、挿絵にはキリスト教徒とイスラム教徒(ムーア人)の奏者が描かれており、アルフォンソのカンティーガの多文化性を確認できる。1943年にはによって、アルフォンソのカンティーガが復刻された。1254年にサラマンカ大学に特権を付与し、大学には食住の付与と一定の自治権が認められた。また、アルフォンソはセビリアに学者、詩人を集め、セビリア大学の母体となる学校を創設した。13世紀後半のセビリアは首都トレドと並ぶ学術研究の拠点となった。このうちサラマンカ大学では、ポリフォニーの教育が実施されていた。ムルシアにもキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒が共存する学校が開設されたが、イスラム教徒の学生がカスティーリャから追放されると、教師を務めていたアブー=バクルはナスル朝に亡命した。ビオランテ(ヨランダ)・デ・アラゴン(アラゴン王ハイメ1世と王妃ビオランテ・デ・ウングリアの娘)と1246年に結婚した。実際に嫁いだのは1249年であるが、それは結婚時に彼女がまだ10歳だったからである。夭逝した2人を除いて10人の子供をもうけている。アルフォンソ10世には他にも多くの非嫡出子がいた。その一人ベアトリスはポルトガル王アフォンソ3世に嫁ぎ、ディニス1世の母になった。またマルティンはバリャドリッドの大修道院長になった。他にアルフォンソ・フェルナンデス(1281年死去)という息子とウラカという娘がいた。

出典:wikipedia

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