貴ノ浪貞博(たかのなみ さだひろ、1971年10月27日 - 2015年6月20日)は、青森県三沢市出身で二子山部屋(入門時は藤島部屋、引退時は貴乃花部屋)所属の元大相撲力士。最高位は東大関。本名は浪岡貞博(なみおか ただひろ)。現役時代の体格は身長196cm、体重175kg、血液型はO型、愛称は「貴にょ浪」(由来はやくみつるの4コマ漫画から)。角界では「浪大関」「浪関」と呼ばれていた。趣味は釣り。三沢第二中学時代に年寄藤島(のち二子山、元大関貴ノ花)に勧誘され、初めは高校進学を考えていたが両親が貴ノ花を贔屓にしていたため入門が決定、1987年(昭和62年)3月場所、本名の浪岡で初土俵。1991年(平成3年)3月場所十両に昇進。中卒入門で4年での十両昇進は十分に早い出世ではあるが、大器を期待する師匠からは「遅い」と叱責を受けたエピソードがある。新十両昇進を機に四股名をつける際、師匠の現役名であった貴ノ花と本名の浪岡を組み合わせて『貴ノ浪』と命名された。なお、師匠の元夫人(藤島部屋女将)であった藤田紀子によれば「部屋の弟子の四股名は部屋の女将だった自分が命名していた」が、「貴ノ浪だけは師匠(初代貴ノ花)が自ら命名した」と語っている。なお四股名の下の読みは「さだひろ」であるが、本名は「ただひろ」と読む。1991年9月場所では大善と12勝3敗で十両優勝を争い、優勝決定戦を戦った。翌11月場所はその大善と、高田川三人衆の一人鬼雷砲、そして終生の好敵手となる武蔵丸らと同期で新入幕。この場所は初日から7連勝し、すわ新入幕初優勝かと話題となった。中日には水戸泉に負けたが翌日優勝争いの筆頭だった琴錦を倒して勝ち越し、残りは全部負けて8勝7敗だったが周囲は驚き、「未完の大器」と注目を浴び始める。その後約1年間は前頭中位辺りに留まりやや低迷したが、1993年(平成5年)3月場所、前頭筆頭の地位で9勝6敗と勝ち越し。翌5月場所に新三役(小結)に昇進。その同5月場所で10勝5敗を挙げ、自身初の三賞(敢闘賞)を獲得。7月場所に新関脇で9勝6敗、9月場所は10勝5敗。11月場所は12勝3敗の好成績を挙げながら「土俵際に下がりながら勝つ相撲が多過ぎて内容が悪過ぎる」という理由で、三賞獲得はならなかった。翌1994年(平成6年)1月場所は自身初の大関獲りの場所となった。しかし、同部屋に貴ノ花と若ノ花の2大関がいるため、同じく大関獲りだった武蔵丸よりも好成績が求められた。7日目、それまで1度も勝てなかった横綱曙との対戦で斜めに仕切る(本人いわく「突っ張りの威力をそらす狙いだった」)という奇策に出る。これが効いたのか、珍手の河津掛けで曙を倒し、ようやく横綱戦初勝利をおさめる。結果13勝2敗の成績を残し、2回目の敢闘賞を受賞。同年1月場所後、ライバル武蔵丸と同時に大関昇進が決まった。大関同時昇進は1977年(昭和52年)1月場所後の若三杉・魁傑(再昇進)以来、17年ぶりのことだった。なお大関昇進伝達式での貴ノ浪の口上は、若貴兄弟と同様に四字熟語の「勇往邁進」という言葉を用いていた。新大関の3月場所では12勝3敗となり、千秋楽では同じく12勝3敗の曙と貴闘力との優勝決定戦に進出、勝てば清國以来となる新大関優勝のチャンスだった。優勝決定・巴戦で貴ノ浪は、同部屋の貴闘力には勝ったものの、次の曙には負けてしまい、曙は続けて貴闘力も破ったため、結果、幕内優勝は曙にさらわれた。その後も、大関としては安定した成績を重ねた。特に1996年(平成8年)1月場所は14勝1敗の好成績を挙げ、横綱貴乃花との同部屋対決・優勝決定戦では、初めて横綱曙を下した決まり手の河津掛けで再び制して、念願の幕内初優勝を達成。さらに翌1997年(平成9年)11月場所も14勝1敗で、再度貴乃花との同部屋決定戦に上手投げで勝って、11場所ぶり2度目の幕内優勝を果たした。しかし、続く綱獲りだった翌場所は1回目が11勝4敗、2回目も10勝5敗と共に大関での2場所連続優勝を達成出来ず、惜しくも綱には届かなかった。1996年11月場所は、史上最多となる幕内5力士の優勝決定戦に進出、魁皇には勝利したが、巴戦で武蔵丸に敗れ優勝を逃している。また1995年(平成7年)5月場所・1997年1月場所・1999年(平成11年)1月場所を、3回共に6勝9敗と大関で皆勤負け越しを記録したり、1桁勝ち星が続いたりで低迷した時期もあった。特に剣晃を大の苦手(幕内対戦成績は9勝9敗)としており、剣晃戦の敗北をきっかけに優勝を逃してしまうケースも多かった。それでも角番を脱出した場所では、大体が終盤まで優勝争いに加わるなどの強さを発揮している。特に1999年3月場所は12勝3敗の優勝次点という好成績で角番脱出を果たした上に、11日目には通算5場所目にして入幕を果たした雅山と対戦して勝利したことで雅山がこの場所で2桁白星を挙げることを阻んだ。なお雅山との対戦を控えていた際には「ちょんまげの結えないやつに負けられない」と対抗心を燃やしていたという。1999年9月場所中に足を痛めて、入幕後から引退までで唯一の休場を経験する。次の11月場所、4度目の大関角番の場所で6勝9敗と、大関の地位で2場所連続負け越ししたため、35場所連続で保持していた大関の地位から関脇に陥落が決定。その直後の2000年(平成12年)1月場所では千秋楽で10勝に到達し、1場所で大関特例復帰が決定した。これは1969年(昭和44年)7月場所以降現行の大関特例復帰が施行してから、1976年(昭和51年)7月場所の元横綱三重ノ海以来、24年ぶり2度目の出来事だった。しかし、大関復活した3月場所は千秋楽に敗れて7勝8敗、通算5度目の角番で迎えた5月場所は10日目から6連敗で6勝9敗と、再び大関で2場所連続負越しにより、わずか2場所で大関から再び関脇に陥落となってしまった。直後の7月場所も7勝8敗と結局負け越し、2度目の大関特例復帰はならなかった。大関通算在位数37場所は、師匠の二子山(元貴ノ花)を初め、北天佑・小錦に続いて当時歴代4位だった(後に歴代1位タイの千代大海・魁皇の二人に抜かれ、琴欧洲にも抜かれた為に現在歴代7位)。一度陥落した後2場所だけ返り咲いたために、4代朝潮を1場所上回った。また大関として353勝は、当時歴代3位(後に千代大海・魁皇に抜かれ現在歴代5位)であるとともに、同時にのち横綱昇進した武蔵丸の大関時代と奇しくも全く同数だった。2000年9月場所は、1993年5月場所以来7年ぶりの小結で9勝6敗を挙げ、翌場所で関脇復帰。しかし11月場所は初日から8連敗で早々負越し決定、後半戦盛り返したが6勝9敗に終わり、2001年(平成13年)1月場所は1993年3月場所以来8年近くぶりの平幕に陥落となった。2001年1月場所以後も幾度か小結に復帰するものの勝ち越しならず、殆ど平幕の上位に定着していた。それでも貴ノ浪は「自分にしか取ることの出来ない(スケールの大きい)相撲で観客を沸かせたい」と魅せる相撲に徹し、大関時代にも勝る歓声を得た。しかし2003年(平成15年)は、年6場所で全て負け越しを喫してしまい、貴ノ浪の体力の衰えが目立ち始める。2004年(平成16年)1月場所、この場所の七日目に前場所十両で優勝し馬力相撲で幕内まで駆け上がってきたグルジア出身の黒海と対戦した。この日の出の勢いの新入幕の若手を、肩越しの上手から豪快に振り回して投げ飛ばし、元大関の貫禄を存分に示した。この相撲で勢いづいたか、8勝7敗と一年振りに勝ち越した。これが貴ノ浪自身、現役最後の勝ち越しとなった。同年3月場所は、上位陣との対戦が無い前頭8枚目で初日から6連敗を喫し、十両陥落の危機もあった中なんとか5勝10敗と踏み止まった。しかし、翌5月場所前には大関時代から悪かった心臓の不調で入院、重篤そのもので相撲を続けられる状態ではなくなってしまった。幕尻近くの前頭13枚目だった5月場所は初日から良い所無く2連敗、3日目の不戦敗で遂に現役引退を表明。年寄音羽山を襲名した。大関から陥落してから合計25場所(直後に大関復帰した2000年1月場所の関脇1場所も含む)も相撲を取り続けたが、これは当時小錦を超える最長記録であった。この場所2日目には幕内出場回数が1118回となり、小錦を抜いて史上単独7位(当時)となったことに触れて「ハッハハハ。まぁ、長く取っているだけのことですから。でも、勝たなくては長く取れない。いいことじゃないですか」と笑い飛ばして引き返したが、翌日の引退会見では場所前から引退を決意しておりどこまで取れるか確かめるために出場したと涙ながらに明かし、前日との変わりように驚く報道陣に対してさらに「全然悲しくない。やれるだけのことはやりましたから。悲しくはないんだけど、なぜか、涙が出るんです」と気持ちを表した。2005年(平成17年)1月30日、両国国技館で断髪式が行われた。引退相撲の歴史を見ても屈指の数と言える400人以上もの来訪者が鋏を入れた。この式には当時入退院を繰り返していた師匠の二子山親方も、病院から訪れて髷に鋏を入れると、貴ノ浪は堪えきれずに涙を流し、来場者の感動を呼んだ(その4か月後の5月30日に二子山親方は口腔底癌で死去、貴ノ浪の引退相撲が最後の公の姿となった)。なお最後の留めバサミを入れたのは、一代年寄の貴乃花親方だった(貴ノ浪の引退直前に貴乃花が二子山部屋を継承、貴乃花部屋となっていたため)。引退時から年寄音羽山を名乗り、貴乃花部屋付きの親方として指導に当たった。協会の業務など外回りで多忙な貴乃花に代わって部屋の稽古指導にあたることが多かった。2006年1月末に体調を崩し、心房細動、敗血症、重症肺炎などを併発し緊急入院。一時心停止に陥るほど生命の危機を彷徨ったが、その後回復し3月30日に無事退院した。5月7日からの5月場所で現場復帰。同年9月場所からNHK大相撲中継の解説にも復帰し、影の広報部長ぶりを発揮した。先述の通り、これまで影の広報部長と言われることが多かったが、2012年2月には記者クラブ担当として広報部へ異動になった為、本物の広報部員になった。2014年5月場所は体調不良により初日から全休。当初は胃潰瘍と公表されていたが、実際は胃癌と診断されて手術を受けての休養であったことが後に判明している。2015年1月29日の理事会を受けて審判部へ異動となった。2015年6月20日午前、仕事滞在先の大阪市内のホテルで倒れているのが発見され、救命処置を受けたが急性心不全のため死去。。取り口は、長身で長い手足からなる深い懐と、強い足腰を生かし、相手を引っ張り込むというものであり、他には真似のできないものである。簡単に相手力士の二本差しを許し、しかも自ら棒立ちの不利な姿勢を取るため悪癖と見られたが、実はこれこそが貴ノ浪十分の型であった。そのまま肘を張って両差し手を抱え込むと、長身に引っ張り上げられた相手は上体が伸びきってしまい、寄りも投げも力が十分でなくなってしまう。そこから左右に振られ極め出されると最早なす術もなく土俵を割る他ないのである。しかし、基本を外れた特異な取り口であったため、上を狙える相撲ではないと苦言を呈された。師匠も改善を指導したことがあったが、かえって負けがこみ負傷までしたので、無理に改善することはやめた。本人いわく、これは小学生の頃から変わらぬ取り口だという。しかしその性質上、曙や武蔵丸と言った突き押しを得意とする長身の力士が苦手だった。また晩年は足首の負傷にも苦しまされた。自身の取り口は足腰が弱いと成立しないので、大関時代には相手を引っ張り込んだり投げ飛ばしたりしたような場面でも足腰の衰えが目に見えるようになってからはあっけなく後退して土俵を割ることが増えた。大関陥落後は復帰を目指すよりもいわゆる「見せる相撲」に徹し、「自分にしかできない相撲を取る」と、全盛時代の特有の取り口を見せることに価値をおいた。相手に攻めさせておいて手玉に取るという意味で、真の横綱相撲の取れる唯一の力士と言ってもよかったが、同部屋にすでに上が二人いた事情などもあってか、横綱として横綱相撲を見せることはなく終わった。このほか仏壇返しを決めてみたいとコメントしたこともあり、その後完璧な形ではなかったものの呼び戻しを決めている。少なくともマスコミの前では寡黙な力士の多かった二子山部屋勢の中では明るく物怖じしない性格であった。付き人を務めた際には「俺とお前は友達じゃないんだぞ」と安芸ノ島が呆れ、また痔の薬をおかみさんの面前で挿入しようとして叱られるなどしたエピソードが伝わる。現役時もバラエティ番組に出演して「自分が三段目のころ貴闘力関が幕下で、一番上だったんですけど、自分が何でもこなすスーパー付け人だったので…」などと面白おかしく語り、当の貴闘力自身を含む出演者の笑いをとっていた。「日本相撲協会のスポークスマン・影の広報部長」と自称し、自身の取組について勝っても負けても、ユーモアたっぷりに回答したり、力士の裏話を公表したりと、報道関係からの人気が高かった。第67代横綱・武蔵丸とは幕内で58回も対戦し(貴ノ浪の21勝37敗。他十両と1996年11月場所の優勝決定戦でも武蔵丸と戦ったが、共に貴ノ浪が2敗)、互いに良きライバルと認めていた。また、この幕内対戦回数の58回は、2016年3月場所に琴奨菊 - 稀勢の里(対戦59回)に塗り替えられるまで、大相撲史上1位の記録だった。その取り口とライバル関係が似ていたことから、かつての名力士だった元関脇同士の二人、栃赤城と巨砲にもなぞらえられていた。対照的に武蔵丸と同じハワイ出身の曙とは分が悪く、幕内成績は5勝34敗と横綱と大関の取組とは思えないほど一方的なものだった。また、武蔵丸とは生年が同じ1971年(昭和46年)で、1991年11月場所の新入幕、そして1994年3月場所の新大関と、奇しくも二人は全く同時に昇進を果たしていた。1999年3月場所は、場所終盤の11日目から3横綱(貴乃花・若乃花・曙)・1大関(千代大海)らが休場するという異常事態(3横綱が全員休場は1950年1月場所以来49年ぶりの珍事)により、上位陣は貴ノ浪と武蔵丸の2大関だけという展開になった。しかしその後の両者は連勝を続けて、14日目では共に12勝2敗の成績を挙げ、千秋楽結びの一番で大関同士の相星決戦となった。結果貴ノ浪は武蔵丸に寄り切りで敗れ、惜しくも12勝3敗の優勝次点だった。貴ノ浪が前頭筆頭の地位に下がっていた2002年(平成14年)11月場所には、横綱へ昇進していた武蔵丸に平幕力士として勝利、大関昇進以前にも取っていなかった初の金星を獲得(その翌日から武蔵丸は左手首のケガ悪化の為休場となる)。また同場所で貴ノ浪は10勝5敗の好成績をおさめ、大関昇進直前の1994年1月場所以来、8年10ヶ月ぶり3回目の敢闘賞も受賞した。なおその後も2003年7月場所では、前頭3枚目の地位で再び横綱武蔵丸に勝利、2つ目の金星獲得となったが、この場所が武蔵丸との現役最後の対戦となった。貴ノ浪が急死した翌日の2015年6月21日、都内で取材に応じた武蔵川親方こと武蔵丸は「気持ちの整理がつかない」と驚きを隠せなかった。2003年11月場所で自らが引退した際、貴ノ浪が当時さほど自身と親しくないのにもかかわらず支度部屋で泣いたと聞いた時「なんて心の広い人なんだと思った」と懐かしみ、その後も現役を続けた貴ノ浪に対して武蔵丸は「けがをしないように思いながら見ていた」という。引退後は戦友仲間として打ち解け合い、「相撲の話はしないが、酒や食べ物の話で冗談ばかり言っていた。友達が1人、居なくなってしまった」と、早過ぎる別れを惜しんでいた。 (太字は2015年現在、現役力士)
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