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関所

関所(せきしょ)とは、近世までの日本において、交通の要所に設置された、徴税や検問のための施設である。単に関(せき)とも。陸路(街道)上に設置された関所は「道路関」、海路に設置された関所は「海路関」とも呼ばれる。陸路では、峠や河岸に設置されることが多い。飛鳥時代の646年(大化2年)、改新の詔に「関塞」(せきそこ)を置くことが記されており、これが日本における関所の始まりと考えられている。もっとも改新の詔の内容には疑問も持たれており、確実に存在したと言えるのは天智天皇の時代のこととされ、壬申の乱の時に鈴鹿関を守る関司が大海人皇子(後の天武天皇)方についていたことが知られている(『日本書紀』天武天皇元年6月壬申条)。東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関が畿内を防御するために特に重視され、これを三関という。鈴鹿関から東は東国または関東と呼ばれた。平安時代中期以後は、愛発関に代わり、逢坂関が三関になった。三関のほか、東海道の駿河・相模両国境には足柄関、同じく東海道の常陸・陸奥両国境には勿来関、東山道の信濃・上野両国境には碓氷関、同じく東山道の下野・陸奥両国境には白河関、北陸道の越後・出羽両国境には念珠関がそれぞれ設置された。このうち、念珠関・白河関・勿来関を「奥羽三関」という。更に衛禁律には摂津関と長門関の規定があり、それぞれ難波津と関門海峡に設置されていたと考えられている。律令制における関は全ての公民を本貫地の戸籍に登録して勝手な移動を規制する「本貫地主義」を維持するために必要な浮浪の阻止、中央で発生した謀反の関係者の逃亡の阻止、政府に不都合な情報(謀反の計画・実行者による地方への命令を含む)が関所の外に漏れないように阻止する情報統制の役割を果たしたと考えられている。官民が私用上の必要があって関所を越える際には、所属する官司・国司・郡司に対して過所の交付を受けて関に提出する必要があった。中世には、朝廷や武家政権、荘園領主・有力寺社などの権門勢家がおのおの独自に関所を設置し、関銭(通行税)を徴収した。室町時代には京都七口関が設置され、京都に入るにはいずれかの関所を通行せざるを得ない状況が生まれた。関所は中世の交通における最大の障害であったが、同時に関所を設置した勢力は関銭を納めた通行者に対して通行の安全を保護する義務を負った。関銭は設置した側にとっては金儲けの手段としての側面と通行の安全保証に対する礼銭としての側面の両面があった。これは水上における海賊衆の警固料と同様の意味を有していた。実際に支出する関銭の総額については、関所の数や地理的状況により多寡はあった考えられるが、15世紀末の伊勢神宮の近辺の例では、松阪市から内宮までの50kmに満たない距離の間に、100文以上の支出を要したとする分析例がある。戦国時代には、各地の戦国大名が領国の一円支配を強めた結果、多様な主体が銘々に設置する関所は否定され、次第に減少していった。天下統一事業を遂行した織田信長・豊臣秀吉は、関所の廃止を徹底して実施した。江戸時代には、江戸幕府や諸藩が、軍事・警察上の必要から再び関所を設置した。主な関所には、東海道の箱根関所や新居関所、中山道の碓氷関所や木曽福島関所、甲州街道の小仏関所、日光街道の房川渡中田関所(栗橋関所)などがある。これらの関所は幕府直営では無く近隣の大名や旗本などに業務委託されていた 。近世の関所は、「入鉄砲と出女」の検問する所とされ、32か所あったものとされている。また、人馬・物資を検閲するものでもあった。幕府により、元和2年に、関所に条目が発布され、寛永2年に、諸国の主要な関札が定められた。そして、寛永8年に、関所破りの罰則と関所破りを捉えたものへの褒賞規定が出された。道中奉行支配下の街道に設置された新居関所(今切関所)、気賀、碓氷、木曽福島等の比較的往来の多い関所に共通して、江戸から関西方面に向かう婦女子の通行には留守居の証文、夜間通行には老中証文や宿場問屋の断書が必要だった。宝暦14年(1764年)、留守居により手形の発行される関所は、上州の新郷、川俣、五料、杢橋、碓氷、横川、大戸、大笹、猿ヶ京、相州の箱根、根府川、総州の小岩、市川、関宿、越後の関川、遠州の今切、荒井、信州の福島(木曽福島)、武州の房川渡(栗橋・中田)、小仏(駒木根)の17ヵ所が指定された。近世の関所は、幕末には46あったという。1869年(明治2年)に明治政府によって完全に廃止された。

出典:wikipedia

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