山岸 穣(やまぎし みのる、1982年8月17日 - )は、福井県鯖江市出身の元プロ野球選手(投手)。福井県鯖江市出身。片上小学校3年生の時に野球を始め、福井商高時代には2年春・3年夏の2回、ともにエースとして甲子園に出場した。特に、3年夏は県大会決勝で内海哲也や李景一らを擁する敦賀気比高と延長10回の末、3-2で勝利し甲子園出場を決めた。しかし甲子園では初戦で敗退した。福井商高でのチームメイトには1学年下に天谷宗一郎がいた。東都の青山学院大学時代、石川雅規の後を継いで2年生からエースとして活躍。大学通算72試合登板し32勝21敗、防御率1.97、388奪三振。3年生秋には最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインを受賞。通算30勝以上は青学大では史上初、東都大学野球リーグ全体でもの新井富夫以来17年ぶりで戦後9人目の快挙であった。に台湾で開かれた世界大学野球選手権に日本代表として選出され、3試合に登板した。同年のドラフト4巡目で西武ライオンズに入団。は開幕一軍を逃すが5月に昇格、横浜戦に即先発したが結果を残せず、リリーフで数試合登板した後に二軍落ちした。夏場に再昇格し、9月18日の対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)で、宮越徹の負傷降板を受けて緊急登板、プロ初勝利を挙げた(この試合は被安打0)。後半から安定した投球を披露し、防御率2.83の好成績を残した。開幕前の故障により開幕一軍の座を逃す。故障の快癒後も精彩を欠き、一軍と二軍を往復したが、夏場の昇格後は制球・キレが戻り、右の中継ぎとして活躍。特に優勝を争う9月頃には13試合連続無失点救援を続け、中継ぎ不足に悩むチームの大きな戦力となった。自己最多の31試合に登板し、主に中継ぎとしてながら10.30という高い奪三振率を誇った。はオープン戦で打球が直撃し、骨折するアクシデントでまたもや開幕に間に合わなかった。8月4日にやっと一軍登録されると、主にロングリリーフとして起用され、昇格後13イニング連続無失点と快投を見せた(防御率は20日間ずっと0.00のまま)。8月25日に1試合だけ先発登板。9月8日の対北海道日本ハムファイターズ戦でプロ初セーブを記録。その後も右の中継ぎとしてチームを支え、自己最高の防御率2.73を記録した。プロ入りから3年続けてこの年も夏場以降に一軍で活躍を見せた。は、中日から岡本慎也が加入し、小野寺力の成長もありほとんど出番がなかった。この頃から投球フォームが変わった。は開幕から中継ぎ陣を支えてきた星野智樹・大沼幸二などの抹消を受けて終盤に一軍登録。久しぶりの先発もあったが好成績は残せなかった。は開幕当初から一軍出場が無いまま、6月18日に米野智人との交換トレードで東京ヤクルトスワローズに移籍。背番号は米野が着けていた51。移籍後は二軍で調整していたが、8月15日の対阪神戦(京セラドーム大阪)で移籍後初登板。その後、中継ぎで2試合に登板。シーズン終盤の10月8日の対巨人戦(東京ドーム)で移籍後初先発。アレックス・ラミレスに本塁打を浴びるなど4回を5安打4失点の内容で降板するも、チームが逆転勝利した為、黒星は付かなかった。は6月14日の古巣西武戦で先発したが、3回5失点で降板。その後チームはサヨナラ勝ちしたため、勝敗はつかなかった。この年はこの1試合のみの登板に終わった。シーズンは一軍での登板は無く、10月2日に戦力外通告を受けた。10月31日に任意引退選手として公示された。2013年より古巣である埼玉西武ライオンズのチームスタッフ(一軍用具担当)に就任することが発表された。直球は140km/h前後と凄みはないものの、現代の右投手には珍しいカーブやチェンジアップを武器とする投球スタイルが特徴である。そのキレもあって奪三振が非常に多い。縦に落ちる変化球を軸に三振を狙う組み立てである。
出典:wikipedia
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