田上 秀則(たのうえ ひでのり、1980年3月20日 - )は、大阪市住之江区出身の元プロ野球選手(捕手、内野手)。敷津浦小学校時代に野球を始め、住之江中学校進学後は黒田一博が監督を務めていたボーイズリーグ・オール住之江に入団。大阪産業大学附属高校を経て入学した九州共立大学では、山村路直・新垣渚ら大学球界を代表する投手の球を受けてきた。大学2年時には明治神宮野球大会で優勝。打者としても大学最後のシーズンでリーグ新となる9本塁打を打ち、その年のドラフトで中日ドラゴンズに3巡目で指名され入団。背番号9を与えられ、大型捕手と期待された。入団2年目のに、ウエスタン・リーグで13本塁打を放って本塁打王を獲得。には監督に就任したばかりの落合博満から「右の4番候補」の一人として期待された。しかし、4年間で1軍出場13試合、2安打と結果を残せず、オフに戦力外通告を受けた。通告後には、福岡ソフトバンクホークスの入団テストを受験。城島健司がFA宣言したため捕手の補強を目指していたチーム事情を背景に、合格へ至った。移籍1年目のには、得点力不足に喘ぐチーム事情を背景に、5月末に移籍後初の一軍昇格。6月1日の横浜戦でスタメン出場し、三浦大輔からプロ初本塁打を放つ。その後は1軍での守備経験の少なさから、主に打力を買われての指名打者や代打での出場となった。捕手6試合、一塁手1試合、三塁手2試合を守ったが、それ以外は全て指名打者での出場。1番大村直之、2番川崎宗則、4番松中信彦ら左打者が上位打線に固定されていたため、スタメンの際は主に3番を打った。一時期、三塁手への転向も検討されたが、小久保裕紀の復帰や田上本人の希望もあり、引き続き捕手で登録されている。、自己最多の9本塁打を放ち、捕手として78試合に出場するなど出場機会が増加。盗塁阻止率はリーグ6位の.250を記録。シーズン中に行われた、監督の王貞治の提案によるチーム内でのホームラン競争で、50スイング中22本の柵越を放ち優勝を飾った。、前年に続いて開幕1軍入り。3月24日のロッテ戦では生涯初のサヨナラヒットを放った。この日は開幕初スタメンで、先制打、同点打、サヨナラ打を一人で放ち、チームの開幕5連勝に貢献した。しかし、4月30日の西武戦での守備中に、本塁に突入した中島裕之と交錯した際、左足首を捻挫し、戦線離脱。9月2日に一軍復帰を果たすが、ホークス移籍後最少の出場試合数に終わった。、5月から正捕手に定着。5月14日のロッテ戦で荻野忠寛からプロ入り初のサヨナラ本塁打を放った。この時、前の打者長谷川勇也も本塁打を放っており、同点本塁打、サヨナラ本塁打の2者連続本塁打となった。6月6日の広島戦でマツダスタジアムの新幹線防護ネットに突き刺さる球場初の場外本塁打を放った(推定140m)。7月、監督推薦によりオールスター戦に初出場。主に下位打線での起用ながら本塁打を量産し、9月3日のオリックス戦で第20号の本塁打を放った。10月11日のシーズン最終戦で球団通算7500本目となる第26号の本塁打を放った。ホークスの捕手で20本塁打・80打点を記録したのは城島以来5年ぶり。初めて規定打席に到達し、チーム最多、パ・リーグ4位の26本塁打、同じホークスの小久保に次いで、松中と並ぶリーグ9位の80打点を記録。盗塁阻止率もリーグ5位の.262を記録し、パ・リーグのベストナインに選出された。この年には3歳年上の女性と結婚。は開幕から故障などのために極度の不振で、4月には山崎勝己に正捕手の座を奪われ二軍落ちも経験した。その後、6月20日に山崎が半月板損傷の怪我を負ったことからスタメンに復帰し、打撃面では復調の兆しも見られたが、守備面では故障の影響でキャッチング、スローイングのまずさなどを露呈する結果となった。8月下旬に山崎が復帰すると再びスタメン出場は激減。杉内俊哉とのコンビで最優秀バッテリー賞は獲得したものの、前年を下回る84試合の出場にとどまり、盗塁阻止率は規定出場数(シーズン試合数の半数)を満たした捕手としては2000年の礒部公一が記録した.109を下回りプロ野球史上ワーストとなる.069を記録し、前年に記録した.262から大幅に落ち込んでしまっている。打率、本塁打、打点も前年より落ち込んだ。は開幕二軍スタートとなる。この年、西武からFA移籍してきた細川亨が正捕手として起用された。5月21日に一軍へ昇格するが、7月14日の楽天戦で左肩を負傷。左肩亜脱臼と診断され、7月15日に出場選手登録を抹消された。10月中旬に関節腱板縫合の手術を受けるほど、左肩の状態が思わしくなかったこともあって、一軍公式戦には14試合の出場にとどまった。には、前年手術した左肩の影響もあって、一軍公式戦への出場機会が1試合(2打席)に激減。ウエスタン・リーグの公式戦では、守備に就かない指名打者として主軸を打つことが多かった。には、移籍1年目から付けていた背番号70を31に変更。二軍では打線の主軸として、ウエスタン・リーグでのチーム2連覇に貢献した。さらに、10月6日にサンマリンスタジアム宮崎で開かれた東京ヤクルトスワローズとのファーム日本選手権では、8回表に勝ち越し本塁打を放ってMVPに選ばれた(チームは5年振り2度目の優勝)。一軍の公式戦にも15試合(捕手としては7試合)に出場したが、ファーム日本選手権から4日後の10月9日には、手術した左肩の不調や守備・走塁への不安を理由に現役引退を発表。最後は一軍に昇格できなかったが、二軍最後の打席ではこれが最後だと思って本塁打を放ち、「いい状態で終わらせたかった」ということで球団との相談の末決定した。退団後は2014年7月に仲澤忠厚と共に大阪市内にT-CREWというバーを開業した。広角に長打の打てる打撃が持ち味で、広い福岡ドームでも逆方向へのホームランをしばしば放つ。左投手に滅法強く、特に2007年は対左投手で打率.405、本塁打6本の成績を記録した。代打起用でも好成績を残している。三振は多いが、バントは得意と繊細な面も併せ持つ。中日時代には、打撃を生かすために、一塁手にコンバートする案がたびたび浮上。指名打者制度を採用するパシフィック・リーグの福岡ソフトバンクへ移籍してからも、指名打者として出場することが多かった。捕手としてはキャッチングに難がありパスボールやエラーを頻繁に記録。リードとスローイングは平均的でリードは年々向上していたが、スローイングについては盗塁阻止率リーグ5位の.262を記録していたこともあったが、故障の影響からか歴代ワースト記録となる盗塁阻止率.069を記録するなど選手時代後半は難があった。ホークスへのテスト入団に際して、同じ強打の捕手である清水清人との争いだったが、「年齢が若い」という理由で田上が合格となった。しかし田上は早生まれであるため清水とは同学年である。プロ野球人生の中でこの入団テストが一番印象深いといい、「僕の場合これがプロ野球の人生の原点と言っても過言じゃないですよ」と語っている。2006年の田上の部屋には、当時入院していた王貞治監督からファックスで送られたホセ・フェルナンデスのフォロースルーの写真が貼ってあり、打撃の参考にしていたという。ソフトバンク入団後に付けた背番号70には非常に強い思い入れがあるらしく、本人曰く「(背番号を)変える気は全くありません」と語っていたが、2013年からは背番号31へ変更することが発表された。
出典:wikipedia
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