猪瀬 直樹(いのせ なおき、1946年11月20日 - )は、日本の作家、元政治家。長野県出身。地方分権改革推進委員会委員、日本文明研究所所長、大阪市特別顧問、大阪府特別顧問。東京都知事(第18代、1期)、東京工業大学世界文明センター特任教授、東京大学大学院人文社会系研究科客員教授、国際日本文化研究センター客員教授を歴任。長野県下水内郡飯山町(現・飯山市)生まれ。2歳半から長野市に移る。父が飯山出身で母は松本の出身、両親共に小学校教師。諏訪市の高島小で知り合って結婚し、飯山に異動になってそこで生まれる。育ったのは長野市。往生寺のすぐ下に住んでいた。1950年5月、3歳半のとき父親が狭心症で急死した。信州大学教育学部附属長野小学校、信州大学教育学部附属長野中学校、長野県長野高等学校を経て、信州大学人文学部経済学科卒業。大学在学中は新左翼学生運動の指導者であり、通称「白ヘル」(中核派)に属した。1967年の羽田事件を皮切りに新左翼学生運動が高揚しており、1969年に信州大学全共闘議長を務めている。大学構内のバリケード封鎖を行ったり、学生運動の主力部隊を率いて上京し、反米・反イスラエルの10.21国際反戦デー闘争や佐藤首相訪米阻止闘争に参加したりした。猪瀬は、自身も参加したこの1969年の佐藤訪米阻止闘争でもって、60年代後半の学生運動は終わったと述べている。その後の運動は、いわゆる全共闘運動ではないと主張している。大学卒業後、上京し結婚。出版社勤務などを経て、1972年、明治大学大学院政治経済学研究科政治学専攻博士前期課程にて政治学者の橋川文三に師事し、日本政治思想史を研究。ナショナリズム研究の橋川文三に教えを請うたのは、学生運動を離れた後、「日常性の連続がふつうの生活」「そうした日常性から日本の近代やナショナリズムをもう一度とらえ直さないといけないと思った」からだという。その後、ビル清掃等を経て、作家活動に転じる。1987年、西武グループと堤義明について皇族との関係を絡めながら著した『ミカドの肖像』により、第18回大宅壮一ノンフィクション賞、ジャポニスム学会特別賞受賞。1996年、『日本国の研究』により、文藝春秋読者賞を受賞。2001年、小泉内閣の行革断行評議会(行政改革担当大臣の諮問機関)に名を連ねる。2002年、道路関係四公団民営化推進委員会委員に就任。2007年、地方分権改革推進委員会委員に就任。2001年から2009年まで東京大学大学院人文社会系研究科客員教授、2001年から2003年まで国際日本文化研究センター客員教授、2006年から東京工業大学世界文明センター特任教授。2012年3月26日、マラソン初挑戦にして東京マラソンを完走。走破タイムは6時間40分。2007年から、石原慎太郎知事の下で東京都副知事を務めていたが、石原知事の退任に伴い後継指名を受け、2012年(平成24年)12月16日の東京都知事選挙に立候補の届出。そして選挙で433万8936票を獲得し、日本の選挙史上では個人としては最多得票記録で当選した。青島幸男、石原慎太郎に続き、東京都知事は3人連続で作家出身となった。また、初の戦後生まれの都知事となった。猪瀬は石原前知事の五輪招致方針を引き継ぎ、2020年オリンピックの東京招致を成功させたが、その後徳洲会グループからの不透明な借入金問題を追及されて任期1年余りで辞任した(#徳洲会グループからの資金提供問題)。なお五輪招致活動中の2013年7月に、妻が死去している。都知事の職を辞してから約10ヶ月、メールマガジンの発行だけを続けた。2014年10月末に新刊発行をもって執筆活動を再開したが、政治活動は行わないことを表明している。なお徳洲会資金問題で罰金刑が確定し5年間の公民権停止となったため、解除まで選挙には一切出馬できない。井尻千男、入江隆則らと共に、小室直樹も名を連ねていた憂国忌の発起人として活動している。2010年の「東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案」に対しては、自身のブログにて「エロ規制はあったが、ロリ規制がなかった。不健全図書(成人向け図書の棚に置く)に指定されてきたのはエロ規制で、ロリ規制ではない。新たにロリ規制をもうけただけの話。その場合、近親相姦や強姦などを肯定的に繰り返すものに限定して不健全図書に指定され、書店の棚を18歳未満でないところにする。それだけのこと」として表現の規制ではない、との立場を取っている。その後、21世紀のコミック作家の著作権を考える会の理事を退任した。2010年2月3日より公式ブログ、同年3月にはTwitterをスタートした。2011年3月に発生した福島第一原子力発電所事故の影響で、関東地方でも一時水道水や母乳から放射線が検出され、乳児を持つ母親等の不安が高まっていたところ、2011年4月21日にTwitter上で、「仕事をしない専業主婦は、パートでもなんでも仕事をして社会人になってください。数値の意味がわかるようになるしかありませんから。不確かな気分で子どもを不安にさせてはいけません」と発言した。同21日、「乳児をもつ親の気持ちはわかります。放射線は見えない。でもいまは有事です。原発に近い住民、避難所の人たちは見通しがなく苦しい。東京は違う。浄水場の客観的な数値を行動指針にしてほしい。考えて行動している主婦や仕事に就きたくてもつけない主婦を非難したつもりはありません」と発信。しばしば戦後の日本を「ディズニーランド国家」と表現する。「日本人が長らく過ごしてきた戦後社会とは、『想定外』が許された社会だった。アメリカに防衛を委ねることで、戦争を国家の想定外としてきたのだ。沖縄をはじめ全国に米軍基地を置き、東京の空域も米軍によって使用が制限されている。アメリカまかせの現実を多くの日本人が知りながら、そのことに知らんぷりをしてきた。(中略)戦後の日本は一転して防衛を放棄し、いわば半主権国家となった。日本の戦後六六年間は、アメリカという門番に守られた、歴史上特異な『ディズニーランド国家』だったと言える。ディズニーランドは永遠なれ、と日本人は信じた。一抹の不安は抱きつつも、そう信じようとしてきた。『戦後』から『災後』への歴史的転換は、あらゆるリスクを「想定外」とする社会から、起こり得るリスクを『想定』する社会への転換点を意味する。福島第一原発事故を経た我われは、もはや『想定外』という言葉で言い逃れができないことに気づいている。東京電力は戦後社会の象徴だ。福島第一原発事故に際して、東電が口にした言い訳も『想定外』だった」。日本道路公団民営化(2004年6月道路関係四公団民営化関係四法成立、2005年10月1日分割民営化)の中心人物の一人として知られている。2012年12月8日に放送された新報道2001において、12月2日に発生した中央自動車道笹子トンネル天井板落下事故に関して「打音検査は2000年にやめている」とし、民営化と笹子トンネル崩落の因果関係の立証をまったくせずに、民営化によって打音検査がなくなったと主張した宇都宮健児候補を批判した。しかし、実際は詳細検査において打音検査が行われなかったのは民営化直前の2005年9月と2012年9月のものであり、2000年に行われた詳細点検では打音検査によって見つかった損傷が補修されている(ただしこのことが即、事故原因が民営化であるという因果関係を示すものではない)。副知事時代の2012年10月、猪瀬は過去に原作を手がけた漫画『ラストニュース』について「アホ脚本家が日テレで換骨奪胎し安っぽい報道ドラマにした」などとツイートした。この記述から批判されたドラマが『ストレートニュース』(2000年、日本テレビ)であると推測され、担当脚本家の伴一彦は、「盗作」であるかのような汚名を着せられたとして、2013年3月28日に東京地方裁判所に本件について550万円の損害賠償と謝罪ツイートを求める訴訟を起こした。この訴訟は2014年3月26日、猪瀬が伴に対し100万円の賠償金を支払うことと、謝罪ツイートを掲載することで和解が成立した。猪瀬は著名な愛煙家である。猪瀬は、『税収に貢献する喫煙者のどこが悪い!』というコラムで、禁煙運動をヒステリックな禁煙ファシズムとして批判した。また、猪瀬は2000年頃に大学の禁煙の教室で喫煙しながら教鞭を取ることもあった。ある学生が諫めたところ、猪瀬は「私の講義ではこの教室は分煙だ。君らの席は禁煙でも教壇は喫煙席。文句があるなら受講していただかなくて結構」とはね付けたという。2010年3月、コラム「眼からウロコ」にて『全面禁煙化は中小企業や飲食店には厳しい。たばこ税は国と地方をあわせ2兆円規模で安定した財源でもある』と著した。2010年9月、喫煙について「安易な全面禁煙には賛成しない」「黒煙を上げて走るディーゼル車の方がよっぽど問題」「文化の問題に介入されると社会にストレスがたまる」と産経新聞に語った。2012年11月、前神奈川県知事の松沢成文が、11月8日の2012年東京都知事選挙立候補表明で、「公的施設では吸わない人の健康を守る。禁煙か完全分煙」と神奈川県公共的施設における受動喫煙防止条例を持ち出し、喫煙規制強化を述べたことに、猪瀬は、神奈川県は神奈川県議会では吸えていることを指摘し、受動喫煙の防止を問題視した。これに対して、松沢は、県議会は分煙しているとし、さらに猪瀬がパーティ会場で分煙せずに喫煙することを問題視した。1996年に『文芸春秋』誌上に連載された「日本国の研究」にて、虎ノ門周辺に集結する特殊法人を巡る天下りや税金の還流の実態を描いた。政界での特殊法人改革の萌芽ともなったが、猪瀬自らも日本道路公団の道路公団民営化問題などに携わることになった。2001年、道路関係四公団民営化推進委員会に就任。委員7人中5人が利害関係者に切り崩されて委員を去る中で、民営化案の閣議決定を達成した。2005年に行われた政府税制調査会における所得控除議論のなかで、何もせず、子供も産まない専業主婦が多くなっているとし、そのような人を「ごろごろしている主婦」「パラサイトワイフ」「変な生命力のない人たち」などと評した。また、そのような人が淘汰され、前向きな人が支援されるような「政策誘導的なもの」が必要になっているとの意見を展開した。一連の発言を女性蔑視発言と見做した日本共産党都議団から公開質問状を受けたが、猪瀬側は、女性蔑視発言はしていない旨回答している。AERA の取材には、『育児をするわけでもなく、仕事をするわけでもない主婦、「ニート主婦」、「趣味も子育ても仕事も何もしない主婦」を問題とし、税制優遇をするとしたら、むしろ働きながら子育てする人や子育てが終わってから働く人たちをきちんと対象にしなくてはいけない。言いたかったのは、働く女性が子どもを産み、育てるような環境を税制の面からも整えるべきだということ。』とインタビューの中で答えている。「第二名神の一部区間は不必要」という発言をして、工事を差し止めしている。東日本大震災の際、気仙沼市中央公民館で孤立した446人を、東京消防庁に命じて救出させた。きっかけは気仙沼市社会福祉協議会マザーズホーム園長から「火の海 ダメかも がんばる」という携帯電話からの電子メールを受け取った息子(イギリス在住)が、地上からの接近は難しいと言って空からの救出を求めることを、Twitterにてツイートをしたことから。それが猪瀬宛にメンションで届き、救助が必要と判断すると直ちに東京消防庁の防災部長を呼び出し、直接ヘリ出動を命じた。防災部長も即座に出動を決断した。ヘリコプターが到着して現場を確認するまで、公民館に取り残されたのは十数名と見られていた。地元からの出動要請がない中でのヘリ出動は極めて異例。この時の様子のほか、東日本大震災後、東京都副知事としてどのような陣頭指揮を取ったかを、翌2012年3月に刊行した『決断する力』(PHP新書)にまとめている。2011年5月、「川崎天然ガス発電所」を視察し、比較的狭い敷地で建設できることや同発電所が採用する、ガスタービンと蒸気タービンを組み合わせて発電効率を高めた「コンバインドサイクル方式」を高く評価した。2011年8月、「東京天然ガス発電所プロジェクトチーム (PT)」を発足。「東京モデル」を打ち出すべく、建設候補地や事業スキーム、国への規制緩和提案について検討している。同PTには環境局、交通局、下水道局など都庁の縦割りを超えて9局が横断的に加わった。原発1基分に相当する100万キロワット規模の発電所建設を目指して、9月には5箇所の適地を発表、電力市場の改革。さらに2012年5月には、葛西水再生センター用地(江戸川区)、砂町水再生センター用地(江東区)、中央防波堤外側埋立地(帰属区未定)の3カ所に絞り込み、電力の卸供給事業者 (IPP) としての東電への長期契約による売電と新電力・特定規模電気事業者 (PPS) としての事業の組み合わせれば、採算性があると確認した報告書を公表している。東京都は3カ所についてアセスメントの手続きを2012年6月に開始した。福島第一原発以降の電力不足を補うとともに需要家が東京電力以外の選択肢を選べるような弾力的な市場に改革していくため、2012年5月16日、経済産業省に枝野幸男大臣と面会した。東京電力の老朽火力のリプレースを進める際に新規参入を促すように規制を緩和したり新電力への資金面での支援策をもうけ、「(現在は3.5%に過ぎない)新電力のシェアを30%にまで伸ばすような政策展開をすべきだ」と提案した。さらに7月18日には古川元久国家戦略大臣と面会して要望書を提出、老朽化した火力発電所の更新期間を短縮するために環境アセスメントの手続きの簡素化を求めた。福島第一原発事故で経営難に陥った東京電力は2011年12月、社長の西沢俊夫が会見して企業向け大口料金の値上げ方針を発表。翌2012年1月17日に一律2.6円値上げが明らかにされた。大口需要家であり、中小企業を所管する行政主体であり、筆頭株主である東京都を代表して、猪瀬直樹は1月26日に会見、東電、原子力損害賠償支援機構、経済産業相に対し、「燃料費等負担増、経営合理化の具体的内容について明確な情報開示を求める」と石原慎太郎の知事名での緊急アピールを明らかにし「待った」をかけた。アピールのなかで、都内の東電ファミリー企業の本社を整理するだけで1年で100億円を捻出できるとの独自分析を発表。値上げの根拠にしている燃料費増加の内訳を示さなければ値上げに応じられない、と指摘した。中小企業に対しても「愛がない」と配慮を求めた。これを受け東電は3月、値上げ緩和策を発表した。3月には経済産業大臣の枝野幸男を訪ね、東京電力のさらなる合理化策としてファミリー企業などとの随意契約の割合を3割削減することを提案。11年11月に公表されていた緊急特別事業計画では10年間で2.6兆円とされていたリストラ額をさらに5000億円上乗せできると述べた。枝野はこれを受け入れ、総合特別事業計画に反映させるように原子力損害賠償支援機構と東京電力に指示すると明言。5月に公表された総合特別事業計画では合理化額は3.3兆円に増額されることに繋がった。東京電力に対しては2012年4月27日に東京都としての5つの株主提案を発表。法人株主に呼びかけ文を送付したほか、個人株主にも賛同を呼びかけた。この第一項目として社外取締役に公認会計士の樫谷隆夫を推薦、東京電力は5月14日に発表した新役員体制のなかで7人の社外取締役のうちの一人として樫谷を内定した。また東電は「顧客サービス第一を使命とする」という経営理念を定款に書き込むよう求めるなどした東京都の他の株主提案について、「定款になじまない」としたものの、内容的にはほぼこれを経営方針の中で受容することを明らかにしている。2010年4月、プロジェクトチームを立ち上げ、多重行政の象徴である「東京の地下鉄一元化」の検討を開始。6月29日、東京メトロ(旧帝都高速度交通営団)の株主総会に東京都代表として出席し、東京メトロの株をほぼ半分ずつ保有する日本国政府と東京都に同社を加えた3者での協議機関の設置を提案し、合意を得た。その結果、8月3日、国土交通省にて「第1回東京の地下鉄の一元化等に関する協議会」が開かれ、続く第2回は9月8日に東京都庁舎にて開催。東京メトロの子会社12社の役員報酬などの実体を明らかにした。さらに並行して交通政策や企業経営の専門家らによる有識者会議「東京の地下鉄を考える懇談会」を開催している。2011年2月3日の第4回の協議会で、合意文書を取りまとめ、国土交通省が東京メトロ株売却を強行しようにも、東京都と協議しなければならなくなり、早期一元化に反対して、株式公開を進めようとする、国土交通省および日本国政府のくびきから逃れたい東京メトロの意図に、歯止めがかけられた。協議の結果として、一元化を阻む「壁の象徴」とされてきた、九段下駅の東京メトロ半蔵門線と都営新宿線のホームを隔てる壁の撤去工事が始まり、2012年6月の東京メトロの株主総会を前に、その壁撤去の模様が報道陣に対して公開された。「一元化は都営地下鉄の借金をメトロに押し付ける」という批判については、「都営も2006年に黒字化しており、経常利益の上昇トレンドもメトロと同じ水準にある」として一蹴している。ただし、経常利益(営業キャッシュフローの一部)だけでは設備投資(投資キャッシュフロー)や債務返済(財務キャッシュフロー)の関係性が説明できず、また都営地下鉄の借金の返済に直接補助金が投入されている事象などを考えると、東京メトロに借金を押し付けないという根拠としては不十分との指摘もある。このような民間企業としての会計や、大手私鉄のビジネスモデルで理解しようとする見解に対し、猪瀬は「東京の地下鉄は私鉄のビジネスモデルではなく、公的な性格を帯びている」と反論する。理由の一つとして、70年代以降、国と東京都は営団地下鉄(メトロの前身)に対し、5400億円の補助金を折半して支出、また都営地下鉄に対しても両者が折半して8600億円を支出していることを挙げる。沿線開発をしながら資産形成するビジネスモデルの大手私鉄とは異なり、都心の地下鉄経営は沿線開発が出来無い代わりに公的資金が投下され、一方で金城湯池での営業を続けることで、巨額の借金を返済するモデルである、と述べている。なお、地下鉄一元化については、審議会等における計画呼称をはじめとして、都心部の地下鉄建設当初から想定は成されていた(例:九段下駅の構造・設計)。2010年4月、「海外事業調査研究会」を立ち上げ、東京都水道局の海外展開を目指している。海外事業調査研究会は商社など60社におよぶヒアリングを経て、6月、東京水道国際貢献ミッション団の派遣国をインド、インドネシア、ベトナム、マレーシア、モルジブの5ヶ国に決めた。8月、その第一弾としてマレーシアを訪問。政府要人に東京水道のシステムの優位性をPRした。9月には来日したマレーシアのピーター・チン大臣と共に東京都水道局水運用センターを視察した。2010年4月、若者の活字離れの問題を解決するために、横断的なプロジェクトチーム「『言葉の力』再生プロジェクト」を立ち上げた。「日本人に足りないのは論理的に考え、議論する『言語技術』」として、三森ゆりか・つくば言語技術教育研究所長など「言語」の専門家を招いて若手職員向けの講演会を開催したほか、新規採用職員を対象に言葉の表現力を高める研修を行った。今後は職員の研修を継続すると共に、東京都民を対象に11月3日には「読書」と「言葉」をテーマにしたイベント「すてきな言葉と出会う祭典-『言葉の力』を東京から-」(於:東京国際フォーラム)を開催した。副知事に就任してすぐに、清水谷公園(東京都千代田区紀尾井町)に隣接した緑地(東京都の風致地区)に建設が予定されていた参議院議員宿舎の建設中止を提案し、石原慎太郎知事を現地に案内した。石原はその場で「私は(森を潰して宿舎を建設することには)反対」と語った。猪瀬は建設予定地の周辺住民による反対運動について、日経BPの自身のコラムにて、「新議員宿舎の建設予定地は、紀州徳川藩邸跡であり、1500坪の美しい自然林が残る。そのなかには、樹齢100年以上の樹木も含まれている。衆議院は豪華な赤坂議員宿舎で国民の厳しい批判を浴びたばかり。地上16階建て(高さ56m)。総戸数80戸はすべて3LDK(79平方メートル)の豪華な新議員宿舎を造ることよりも、環境を保全すべきという声があがるのは当然だ」と述べた。2008年11月、都内で重症妊婦の受け入れ拒否が相次いだことを受けて、「医師や行政ではなく患者側の視点で問題を検証する必要がある」として、「周産期医療体制整備プロジェクトチーム (PT)」を発足。墨東病院など4回の現場視察を行うとともに、NICU(新生児集中治療室)1床あたりの収支分析を行い、運営コスト(約4000万)が診療報酬と補助金の合計(約3300万)を上回っている現状では、病院が NICU を増やすことが難しいと分析した。そのため、2009年3月、猪瀬は舛添要一厚生労働大臣のもとを訪れ、NICU(新生児集中治療室)の整備促進についての緊急要望書を提出。さらに4月には、セミオープンシステムのさらなる普及など10項目の提言を含めた周産期医療体制整備PT報告書をとりまとめた。「東京都の職員が夕張に行き、財政破綻がどういうものなのか体で感じることが必要。また、東京の持っているノウハウ、高い水準を首都政府として他の自治体に役立てたい」として、夕張市に2008年1月より都職員2名を2年間の予定で派遣した。また、タイムリー研修と銘打ち、短期の職員派遣も行っている。10月に廃校の備品清掃、整理などの手伝いとして6名を派遣、さらに2009年1月には「雪かき隊」としてさらに都職員10名を派遣し、福祉施設の除雪を行った。なお、「雪かき隊」には猪瀬の呼びかけに応じ、大阪府、広島市からも2名ずつ職員が派遣された。他にも、2009年6月にメロン農家での収穫手伝いのため6名を派遣した。なお、当初派遣した都職員の一人に後の夕張市長・鈴木直道がいた。2010年12月に、東京都青少年の健全な育成に関する条例の反対派に対し、Twitterで「夕張市に行って雪かきすればインタビューに応じる」旨のジョーク発言を行い、その発言に乗っかったアダルト漫画家の浦嶋嶺至は、2011年1月に夕張市を訪れ、実際に雪かきを行った。その後、猪瀬副知事と浦嶋の面会・対談が実現し、その模様はニコニコ動画で生放送され、メル友にもなったという。2009年6月、東京都の高齢者人口の増加、高齢者施設やバリアフリー住宅の不足に対応した、「少子高齢化時代にふさわしい新たな『すまい』PT」を立ち上げ、座長に就任した。発足にあたり、猪瀬は「首都政府・首都公務員として霞が関の縦割りを東京から直していく、東京都が内閣府の役割を担うくらいの気概をもってほしい」と述べている。都の『すまい』PTは住宅施策を所管する都市整備局と高齢者福祉を担当する福祉保健局などからメンバーが部局横断的に集められている。2007年に副知事室にトイレが設置された。この設置費用に450万円を費やしたことについて、都議会において日本共産党の清水秀子都議から質問を受けるも答弁を拒否し、議会終了後「こういう問題を取り上げて時間を浪費することの方が税金の無駄遣いではないか」と述べた。2012年12月16日執行の東京都知事選挙で史上最多の433万8936票を獲得し、当選。同月18日に公職選挙法第101条の3第2項に基づき当選人告示が行われ、同日に第18代東京都知事に就任、初登庁し公務を開始した(任期の起算日は選挙の日の16日)。2013年4月27日付けニューヨーク・タイムズ (NYT)に Ken Belson 及び Hiroko Tabuchi 記者の猪瀬知事へのインタビューが載り、その中で彼らは「イスタンブールは若い人が多いが、東京は高齢化している」として、イスタンブールとの比較で東京を揶揄するかのような質問を浴びせた。それを受け同知事は、「イスラム国家が共有するのはアラー(神)だけで、互いに喧嘩しており、階級がある」と発言したと、五輪誘致に批判的な朝日新聞を含む国内メディアに大きく報じられた。その報道に対して、4月29日に猪瀬知事は「五輪の誘致全体について発言したが、インタビューの一部だけが抜き取られて見出しにされた。真意が伝わってない」との趣旨の発言をした。翌4月30日には、東京都庁で「イスラム圏の方に誤解を招く表現で申し訳なかった。甘かったと言えば甘かった」「不適切な発言があったことはお詫びしたい」などと謝罪・釈明した。国際オリンピック委員会の五輪招致にまつわる行動規範は14項「都市間の関係」で、「それぞれの都市は、いつ、いかなる状況のもとでも、IOC委員やIOCそれ自体に対するのと同じ敬意を、他都市に払うべきものとする」 と定めており、これは招致レース最大のタブーとされている。その後、2013年5月9日に、猪瀬自ら駐日本国トルコ共和国大使館を訪問し、セルダル・クルチ駐日本国特命全権大使と約1時間にわたって会談し、「不快の念を与えたことをお詫びする」と述べた。2013年11月に明らかになった報道によれば、2012年の都知事選前の2012年11月に、医療法人徳洲会グループ創設者の徳田虎雄に「都知事選に出ます」と挨拶し、徳田毅衆院議員を通じて「余ったら返すのでまずは1億円をお願いしたい」と電話し、1億円の資金提供を要求していた。徳田虎雄は「5000万円で対応しろ」「足がつかないよう議員会館で渡せ」と徳田毅議員に指示し、議員会館の事務所で猪瀬に直接、現金で5000万円を手渡し、選挙運動費用収支報告書・都知事資産報告書・政治資金報告書に記載していなかった(徳洲会事件)。猪瀬知事は受け取った資金について、「借入金」であるなどと説明し、「徳洲会側から申し出があり、厚意を断るのは失礼だと考えて借りた。5000万円という額になった理由は分からない」と説明している。その後、借用書をマスコミに提示した。「そもそも猪瀬が徳洲会からお金を借りたのは、都知事選挙に際して自民党都連は協力しないと通告されたため、ポスター貼りなどを誰かにお願いしたらいいかわからないことだらけの状態だったんです。結局、連合が協力してくれたので、5000万円は使わなくて済んだ。それが収賄だと追及されたのですから全くの冤罪です。医療法人徳洲会グループは東京都内にも病院・保険施設を抱えており、グループの老人保健施設に都が約7億5千万円の補助金を支出していた。また徳洲会は都知事の認可で老人保健施設を開設し、武蔵野徳洲苑の工期は2010年〜2011年度の2年間で、沖縄徳洲会が西東京市に設立を申請し、都が近隣に所在する施設数などを考慮して150床を認可した。150床規模の施設の場合、都は最大で9億6千万円の工事費を補助しているため、今回の5000万円はその見返りではないか、と各新聞社が報じた。選挙運動費用収支報告書に記載されておらず、公職選挙法違反の疑いで東京都民に告発された。また弁護士グループは、5000万円が政治活動のための借入金と認定された場合、政治資金規正法に基づいて政治資金収支報告書への記載が必要となるため政治資金規正法違反にも該当すると指摘した。さらに徳洲会が東京都の許認可が必要な事業も行っていることから、5000万円の授受が当時の副知事の職務や将来、知事になったときの職務と関連しているとみなされると収賄となる。2013年11月29日の定例都議会で、医療法人「徳洲会」グループから5000万円を受け取った経緯などを説明したのに対し、各会派や傍聴席から「不十分」「納得できない」と批判の声が相次いだ。猪瀬知事には、「職員なら懲戒免職なんだよ」などと、容赦なく野次が浴びせられ傍聴者の1人が守衛によって議場の外に出された。都議会総務委員会で追及を受けていた際、テレビカメラを意識した公明党の都議から、5000万円を借り受けた際に使った鞄に、5000万円分の札束に見立てた発泡スチロールのブロックを入れるように要請され、無理やり紙袋をかばんに押し込んだが、完全には入り切らなかったことが話題になった。この点について猪瀬はのちに著作のなかで「(実際に借り受けた際は5000万円が入った)紙袋を折り曲げて持参した鞄に入れた。(略、都議が用意した)発泡スチロールのブロックは折ることも曲げることも分割することもできない。それでは鞄に入るはずがない」と述べている。この総務委員会について猪瀬は「人民裁判」と呼び「あれは完全なつるし上げです」「僕のときは10時間も立ちっぱなしで答弁させられた血祭りにあげて、都議がポイント稼ぐことだけが目的なので真相解明は二の次。当時、僕の額から汗が流れる様子まで放送されましたが、あれは追い詰められて冷や汗をかいていたのではなく、単に体力の限界だったからです」と証言している。共産党は、地方自治法に基づき、議会が直接、調査を行う「百条委員会」を設置し、疑惑の徹底解明を求める方針を示した。徳洲会グループは都内に介護老人保健施設と病院の2施設を持ち、都は2008年度以降で計約9億6000万円の補助金と委託料を出している。15年には西東京市に新たな病院がオープンする予定。都は開設を許可しており、利害関係者となる。東京都では2002年、主税局の主事が都税事務所の電気工事で知り合った企業の担当者から99万円を無利子で借り、返済したものの懲戒免職となったケースがある。この点について、猪瀬は都知事辞任後に出版した回顧録の中で、以下のように記している。猪瀬知事は「賄賂」ではなく「借入金」である証明として「借用証」を公表し、郵送されてきたものと説明していた。しかし折り目がなく、押印などもない不自然な体裁だったため、封筒の公開を求める声が上がり、2013年12月6日の東京都議会一般質問で、提示した郵送されてきたとされる「借用証」について「封筒は保管していない」と答弁した。記録の残る宅配便や書留郵便、特定記録ではなく配達記録は無かった。封筒があれば切手の消印から、問題発覚前から借用書が存在し郵送されたことを証明できるが不可能になった。このような後付けで作られたのではないか、という借用証に関する疑念について、徳田毅議員は問題が発覚して以降沈黙を守っていたが、衆議院議員辞職願を提出した直後の2014年2月24日の記者会見で「私の事務所で作成し、目の前で署名もしてもらった」と述べ、本物であることを明らかにした。猪瀬は2013年12月19日に辞意を表明し、同月24日付で都知事を辞任した。2014年3月28日、東京地検特捜部は公職選挙法違反の罪で猪瀬を略式起訴した。資金の性質について特捜部は、5000万円が選挙費用として使われた形跡がないこと、知事選後の2013年2月の時点で返却に向けた動きがあった事実が認められ、また実際に同年9月に返済されていることなどから借入金と認定し、借入金が選挙資金収支報告書に記載されていない公職選挙法違反とした。東京簡易裁判所は罰金50万円の略式命令を出した。猪瀬は即日納付し、罰金刑が確定したことにより、政治資金規正法の規定に基づき、5年間公民権が停止されることになった。これにより、猪瀬に対する捜査は終結した。猪瀬はこの一連の騒動を「副知事になったときに清水谷公園横に建設予定だった参議院議員宿舎を白紙撤回したことで、千代田区選出の”都議会自民党のドン”都連幹事長(当時)の内田茂に恨まれていた。そのため、総務委員会が復讐の舞台になったのです」と述べている。猪瀬は内田に対して「東京のガン」と述べている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。