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豊田佐吉

豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2月14日) - 1930年(昭和5年)10月30日)は、日本の発明家、実業家。豊田式木鉄混製力織機(豊田式汽力織機)、無停止杼換式自動織機(G型自動織機)をはじめとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件の発明をした。豊田紡織(現 トヨタ紡織)、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所(現 豊田自動織機)を創業、トヨタグループの創始者である。豊田佐吉は慶応3年(1867年)に遠江国、浜名湖の西にある敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市)で、父・伊吉、母・ゑいの長男として生まれた。豊田家は伊吉が百姓のかたわら大工で生計を立てていた。佐吉を頭に3男1女の子供と両親の6人が豊田家の家族であった。豊田家は裕福ではなかったが、とても貧しいということはなかった。佐吉は幼い頃、寺子屋へ通った。その寺子屋が下等小学校として開設されると、佐吉は4年間通学して卒業した。まだ学校に行けない子供の方が多い時代であった。佐吉の弟たちも小学校に通った。そして、豊田家では一人の子供も奉公に出なかった。当時の山口村の中では、少しは余裕のある家庭であった 。佐吉は小学校を卒業した後、父について大工の修業を始めた。だが18歳のころ、「教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう」と決心し、手近な手機織機の改良を始めた。佐吉は生涯、発明という夢を追い続けた。そして、青年時代は放浪と出奔を繰り返した。19歳の時、佐吉は同じ大工見習いの佐原五郎作を誘い、家出をした。2人は徒歩で東京まで行った。しかし観光ではなく、佐吉は工場ばかりを見て回った。23歳の時は上野で開催されていた第3回内国勧業博覧会を見るために上京した。目的は外国製の機械と臥雲辰致の発明品を見たかったからである。この2回の家出をはじめ、青年期の佐吉は一ヶ所に長く留まることがなかった。彼はひたすら各地を回り続けた。家を飛び出した若い佐吉が頼りにしたのが、豊橋の母方の叔父・森重治郎であった。その家には同年代の従弟・米治郎もいた。また、佐吉はふらっと尾張の企業地へ出掛けることもあった。木曽川町玉ノ井で1889年(明治22年)、佐吉が1年間ほど、艶嘉と田上の有力機屋に寄寓し、研究したことが町史に記載されている。また稲沢市下津においては野村織工場に滞在して、バッタン機の改良装置を試作したと伝えられている。また、東京浅草外千束に住んでいた時は、埼玉県の企業地の蕨まで足を伸ばし、高橋新五郎を訪ねた。知多郡乙川村の7代目石川藤八に巡り合うまでは、佐吉は発明のヒントを探すために全国各地どこへでも出かけていった。納屋へとじこもってもっぱら織機の改良に集中した佐吉の発明生活は、きわめてけわしいものであった。佐吉自身の語るところによると、それは次のようなものであった。日本では専売特許条例が1885年(明治18年)4月18日に公布、7月1日に施行された。それまでは発明されたものが保護されることはなかった。1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会において、臥雲辰致は手回し式紡機の発明で最高の賞である鳳紋賞牌を受けた。しかしその発明品は真似され、臥雲にはまったく利益がもたらされなかった。このことを機に、日本でも特許の必要性が認識された。佐吉に関する書物や研究で、この専売特許条例を説明する際に、ほとんどの本で登場するのが「佐田先生」である。しかし、この「佐田先生」は與良松三郎が「発明物語豊田織機王」の中で特許条例の説明のために作り出した人物である。このフィクションが巧みであったため、その後、研究者までが実在の人物のように扱うようになった。「佐田先生」はまったくの架空の人物である。そのため、重要であるにもかかわらずフルネームではなく、下の名前がない。特許の恩恵を最も受けた発明家が、豊田佐吉だと言われる。それまでの日本では、技術や知識は門外不出、一子相伝であった。佐吉はそのような古い考え方を改めなければならないと考えた。彼は発明した技術を広く知らせて、誰でも使うことができるようにするのが特許であると理解したのである。息子・喜一郎に語ったとされる「障子を開けてみよ、外は広いぞ」の格言もこの考えによるものである。佐吉の甥・豊田英二の『私の履歴書』によるとという。佐吉と喜一郎の研究スタイルはかなり違っていた。佐吉は職人的な勘と努力で、喜一郎は科学的な分析から発明にたどり着こうとした。だが、この親子は発明という目的の前では、全く他のことは目に入らず、モノを作り出すことに最上の喜びを感じる人間であった。研究スタイルは違っていても、息子喜一郎は佐吉の遺伝子を色濃く受け継いだのである。喜一郎の小学生時代は全く目立たない子供であった。成績も良くなかった。佐吉はそのような息子を心配したり、将来を考えることもなく、妻の浅子に任せていた。実際、佐吉は息子が学校を下りたら、家の工場の仕事でもすれば良いと思っていた。喜一郎自身は父の佐吉をどのように思っていたかはわからないが、表面的には互いに無関心な親子のように見えたことは間違いないであろう。佐吉は数多くの織機を発明した。最後の最大の発明となったのが無停止杼換式自動織機である。通常G型織機と呼ばれているものである。この織機の最後の研究をし、完成させたのは喜一郎であった。また特許の申請も喜一郎が行った。それでは自動織機の発明者は喜一郎であるかというと、それは違う。佐吉が職人的な勘と努力で造り上げてきた自動織機の最後の問題点を、喜一郎が科学的な知識を使い完成させたのである。自動織機の発明者はやはり父の佐吉であろう。大きな研究はチームで行わなければ進まない。喜一郎は佐吉と違いチームで研究する知識と才能を持っていた。佐吉が喜一郎に「俺は織機をやったから、お前は自動車をやれ」と言ったという話を聞くことがある。しかし、そのようなことを言ったという確かな資料はどこにも見当たらない。これは多額の資金とリスクを持つ自動車部門への進出において、社内を押さえるための喜一郎の智恵であろう。豊田佐吉は2度結婚をしている。1度目は佐原豊作の三女・たみ、2度目が林政吉の長女・浅子である。2人とも、佐吉の生家からわずかの距離にある集落に実家があった。最初のたみとの結婚は、1893年(明治26年)3月であった。たみは佐吉と一緒に大工の修行をしていた佐原五郎作の妹でもあった。たみの実家の佐原家は、佐吉の家よりは裕福であったようである。たみの姉たちはそれぞれ、地元の有力な家へ嫁いでいた。佐吉とたみとの実質的な結婚生活は非常に短かった。一緒に住んだのは、東京でのわずか10ヶ月にも満たない期間であった。たみは1894年(明治27年)6月11日に豊田家で、長男・喜一郎を産んだ。佐吉はその半年も前に出奔し、たみが出産した時は家には居なかった。佐吉はどこからかともなく戻って来たが、生まれた子供の名前をつけると、再びどこへともなく家を出て行った。たみは2ヵ月後の8月に、乳飲み子の喜一郎を置いて豊田家を去った。育児放棄をした悪い母親のように言われることもあるが、豊田家と佐原家双方の話し合いの結果であったと思われる。その後、たみは地元の有力な家である土屋家の高吉と再婚した。高吉とは何年かの結婚生活を過ごした後に別れている。ちなみに土屋高吉の息子・高次郎は1945年(昭和20年)12月から1947年(昭和22年)3月まで、鷲津町長を務めている。たみは土屋高吉との離婚後は、横浜や神戸の外国人家庭の家政婦として働いた。晩年は湖西市へ戻ってきた。佐吉と浅子は1897年(明治30年)7月9日に、故郷で結婚式を挙げた。だが、この結婚の経緯には不明な点が多い。どの資料にも、佐吉と林政吉の長女浅子が見合いをして結婚したと書かれている。しかし、浅子はこれ以前に名古屋市宝町の豊田商店ですでに働いていたし、すでに一緒に住み始めていた。豊田家、林家双方に、正式に見合いという手順を踏んだ後に祝言を挙げたいという思いがあったと推測される。浅子は働き者で、また経理も得意であった。一方、佐吉は発明しか頭にない男であった。だが、浅子はそんな佐吉の足らない面を充分に補った。彼女は小さな工場の奥さんとして振舞うことも出来たし、大会社の社長夫人としても振舞うこともできた聡明な女性であった。浅子は佐吉没後、夫の偉大さを伝えることに心血を注いだ。現在、各所に残る佐吉の胸像やレリーフの多くが、浅子の手づくりである。また、浅子は佐吉の事績をまとめた「豊田佐吉傳」を與良松三郎の協力を得て、社内の田中忠治に執筆させて出版をした。愛知県 知多郡乙川村の石川藤八家は代々続く庄屋であった。藤八家は年貢米だけではなく、海産物や綿織物も扱っていた。7代目石川藤八は数え年15歳で藤八家に養子に入り、直ちに家督を継いだ。同時に石川藤八を名乗ったが、本名の松本市松は終生変えなかった。佐吉が乙川村の藤八家を訪れたのはこの7代目が当主であった1895年(明治28年)であった。佐吉と藤八の最初の出会いは、知多郡岡田村であった。1889年(明治22年)春、佐吉は先進の織機と竹内虎王の技術を知ろうと岡田までやって来た。佐吉は大工見習いとして、地元の大工の元締めである岡田屋に住み込んだ。岡田屋から派遣されたのが、買継問屋とともに織布工場を営む中島七右衛門家であった。彼の真の目的は技術を盗むことであった。この時代、技術を真似して盗むことは決して悪いことではなかったのである。一方、藤八は出機織布によって織られた布を岡田の買継問屋竹之内源助家まで納めに来ていた。2人の出会いを証明する確かな資料は見つかっていないが、可能性は大きいと言える。また、藤八は佐吉が発明した糸繰返機のお得意様でもあった。藤八が商用で名古屋宝町の豊田商店を訪れることもあった。藤八は佐吉だけではなく、従業員の利喜松とも顔なじみであった。佐吉は気風の良い藤八を、頼りがいのある旦那さんだと見込んだ。一方、藤八は佐吉の熱意を気に入った。藤八は屋敷の2階の6畳間に佐吉を居候させ、研究の援助をした。佐吉はすでに力織機の設計は完成させていた。だが、力織機の試作、動力の購入、そして試運転をするための資金がなかった。藤八邸と試験工場は少し離れていた。昼夜を問わず佐吉は、研究室として使っていた佐吉の部屋と試験工場を日に何度も往復した。佐吉は、藤八家の家族や使用人のいる部屋を通らなければならなかった。そこで、藤八は2階の佐吉の部屋へ、玄関横から直接行くことができる専用階段を作った。藤八は佐吉が家族や使用人に遠慮することなく、昼夜出入りできるようにと配慮したのである。藤八は力織機の発明が完成するための資金と土地、建物を提供した。豊田式木鉄混製力織機は1896年(明治29年)11月15日に完成した。この木鉄混製の力織機を使った工場をつくることになった。翌1897年(明治30年)秋、藤八の全面的な援助の元、資本金6000円、織機60台分2400円を投じて、佐吉と共同で乙川綿布合資会社が設立された。この工場から、その翌年の春、綿布が出荷された。乙川綿布で織られた製品を検査した三井物産東京本社の検査係はその優秀さを認めた。この時から、豊田と三井が強く結びついた。三井は豊田をパートナーとして支援し、補完する関係が始まった。藤八はこの後も、佐吉を側面から援助し続けた。佐吉と藤八の2人の友情は深まり、やがて義兄弟の契りを結ぶ。そしてもう一人、佐吉に惚れ込み支援し続ける人物が現れた。後に興和紡績となる服部商店の服部兼三郎である。この3人の仲の良さを称して、立派な床の間に並んで飾られる三幅の掛軸のように「三幅対の仲」と譬えられた。名古屋の料亭「花月」で毎晩のように飲み明かす3人の姿があったという話が伝わっている。佐吉は藤八が亡くなった後もその恩を忘れず、藤八家との親交は続いた。佐吉夫婦は藤八の法要には必ず出席をした。その際には、乗って来た人力車を一丁ほど前で降りて、歩いて藤八邸の門まで来たと言い伝えられている。トヨタ(豊田)は大番頭というべき優秀な人物を多く輩出した。岡本藤次郎、石田退三、神谷正太郎そして奥田碩らである。だが、彼らより以前に佐吉を支え、佐吉の夢の実現に努力した大番頭と呼ぶにふさわしい人物がいた。それが西川秋次である。西川は1881年(明治14年)12月2日、愛知県渥美郡二川町三ツ家で西川重吉の二男として生まれた。浅子とは縁戚であった。秋次は師範学校卒業後2年間、奉公の教師生活を務めた。その後、佐吉の要望で蔵前にあった東京工業学校(現 東京工業大学)紡織科へ入学した。卒業後、佐吉に仕えた。だが、その直後から佐吉におとずれた大きなに試練に、秋次も一緒に巻き込まれた。佐吉は豊田式織機株式会社(現 豊和工業)の常務取締役を、事実上解任された。失意の中、佐吉はアメリカで永住する意思を持って渡米することになった。この渡米に唯一同行したのが秋次であった。佐吉はアメリカ滞在中、アメリカの織機より自分のつくった織機の方が優れていると確信した。また、ニューヨークで高峰譲吉博士に会い、アドバイスを貰うとより自信を深めた。彼は翻意し、帰国することにした。佐吉は帰路ヨーロッパを回り、8ヶ月程の外国滞在で下関へ船で帰ってきた。しかし、秋次はアメリカに残った。佐吉に特許や織機そして経済環境を調査するように言われ、2年5ヶ月にも及ぶアメリカ滞在となった。秋次が帰国するや、佐吉と藤八で結婚話を決めた。相手は藤八の隣家、石川又四郎の娘・田津であった。秋次と田津の新婚生活は、佐吉の家族と同じ工場の中であった。佐吉は田津を呼ぶ時、親しみを込めて「おたつさ」と呼んだ。その後、佐吉と秋次の活躍の舞台は上海へと移って行く。秋次は国内での仕事が中心である佐吉に代わり、上海の豊田紡織廠での実質的な経営者として佐吉を支え続けた。1930年(昭和5年)に佐吉が亡くなった後は、佐吉の夢の実現を成功させようと、ひたすら頑張った。秋次は喜一郎が自動車製造に乗り出した時、「喜一郎さん、上海から出来る限りの支援をします」と言ったと伝えられている。彼は大大将・佐吉の夢、息子・喜一郎の夢を支え続けた。 1918年(大正7年)に佐吉は上海へ渡った。海外への進出は彼の長年の夢であった。すでに上海紡績、内外綿という大手の会社は上海で工場を操業させていた。しかし、社内からは強い反対があった。この年の1月に豊田紡織を株式会社に改組したばかりで、海外へ力を注ぐことを心配したのである。だが、佐吉は三井物産の支援もあり、進出を決断した。翌1919年(大正8年)には秋次を伴い再び中国に渡航し、上海に滞在した。三井物産の古市勉の尽力もあり、上海での工場建設にこぎ着けた。1921年(大正10年)には豊田紡織廠として本格的に稼動を始めた。ようやく日本から進出した企業群、在華紡の一員となった。佐吉は中国での私邸として、ドイツ人の住宅を購入した。個人の家というより、城のような威容を誇る大邸宅であった。それは従業員を住まわせるという目的もあったが、立派な企業の社長であることを示す必要もあったからでもある。しかし、順調な豊田紡織廠の操業に反し、上海では1924年(大正13年)に入ると反日運動や日貨排斥運動が激しくなった。一部、暴動にまで発展する工場も出てきた。ストライキを主導するグループと警察の間で衝突が起こり、死傷者も出た。在華紡最大の内外綿をはじめ、ほとんどの工場が休業に追い込まれた。唯一正常な操業を続けていた豊田紡織廠にも暴動が起こり、1名の死者と多数の負傷者を出した。この時、日本国内で軽い中風発作で静養していた佐吉は周囲の反対を押し切り、上海へ駆けつけた。佐吉は1930年(昭和5年)に亡くなるが、中国での事業はその後も、利三郎、喜一郎の手により発展し、豊田紡織廠の第2工場、青島工場の建設をして増産を図った。また、国内で生産するようになった自動車の販売のために華中豊田自動車を設立した。海外への進出という佐吉の夢は、後継者によって着実に受け継がれた。二宮尊徳が実践したことを、継承者が広めたものが報徳思想である。報徳思想は明治期になり、報徳社が各地に組織されて大きく広まった。特に静岡県では岡田良一郎により、報徳社が県下に多く開設された。佐吉が生まれた湖西地区や湖北地区おいても、石原貞藏や袴田孫兵衛という有力者によって報徳社がつくられた。報徳思想では、至誠・勤労・分度・推譲を行うことが重要とされた。これは経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説く考え方であった。豊田家においても父の伊吉は熱心に報徳思想を信じて実践した。佐吉自身も自らの規範として報徳思想を行動の原点としていた。佐吉がもうひとつの心の拠り所としたのが日蓮宗である。代々の豊田家の菩提寺は日蓮宗日什門流八別格本山のひとつである妙立寺であった。そのため、小さい頃から日蓮宗は身近な存在であった。妙立寺には父の伊吉が寄附したことを記した大きな寄進板が掲げられている。日蓮宗の持っている現世救済の精神、あるいは国家主義的な教えを佐吉は常に心の中に持っていたと考えられる。豊田利三郎、豊田喜一郎らが佐吉の遺訓としてまとめ、没後6年目の命日に発表されたのが「豊田綱領」である。1992年に「豊田綱領」に替わって「トヨタ基本理念」が発表された。これは現代に合った言葉に改められたものであるが、「豊田綱領」の精神を受け継いだものである。豊田家は皇室や有力政治家と結びつくような閨閥づくりはしてこなかった。佐吉は兄弟、子供たちの結婚はすべて妻の浅子にまかせていた。そのため、初めの頃は佐吉と浅子の故郷の湖西地区から結婚相手が選ばれることが多かった。次第に会社が大きくなるにしたがい、企業同士の付き合いの中から決まることが多くなった。佐吉の長女・愛子の夫の利三郎は、伊藤忠商事マニラ支店に勤めていたエリートサラリーマンであった。兄児玉一造と佐吉の個人的な親交から結婚話が決まった。当初、利三郎は乗り気でなかったが、愛子と見合いした際にその美貌に魅せられて成立したといわれる。佐吉の長男・喜一郎の妻は、京都高島屋4代目飯田新七の三女・二十子である。この縁談をまとめたのも、自ら見合いが趣味と言う児玉一造である。両家とも企業家として発展途上にあり、縁談話としては釣り合っていた。ちなみに、二十子という名前は20世紀に入った1901年1月に生まれたので、父の新七が新しい時代にちなみ名付けた。佐吉の孫・章一郎の妻の博子は三井財閥三井十一家のひとつ、伊皿子家の三井高長の三女である。財閥と結び付くというより、トヨタと三井物産、三井銀行との強い関係から考えられた婚姻と思われる。もう一人の佐吉の孫・達郎の妻の絢子は清水組(現 清水建設)社長の清水康雄の娘である。現社長、章男の妻の裕子の父は元三井物産副社長の田淵守である。その他、豊田英二の妻・寿子や佐助の子供たちも鈴木商店、安藤証券、INAXという企業間の付き合いの中で決まった結婚が目立つ。トヨタの社風と同じく、あまり目立った派手な閨閥づくりは避けているようである。

出典:wikipedia

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