安政江戸地震(あんせいえどじしん)は、安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時ごろ、関東地方南部で発生したM7クラスの地震である。世にいう安政の大地震(あんせいのおおじしん)は、特に本地震を指すことが多く、単に江戸地震(えどじしん)とも呼ばれる。南関東直下地震の一つと考えられている。特に強い揺れを示したのは隅田川東側(江東区)であった。隅田川と江戸川に挟まれた沖積地が揺れを増幅したものと考えられる。震度6以上の揺れと推定されるのは江戸付近に限られる一方で、震度4以上の領域は東北地方南部から東海地方まで及ぶ。近代的な観測がなされる前(明治17年以前)に発生した歴史地震であるため、その震源やメカニズムについては諸説があり、各地の地震被害資料や前兆現象の記録などから、北アメリカプレート内部の内陸地殻内地震(大陸プレート内地震)、北米プレートに沈み込むフィリピン海プレートによるプレート境界地震、フィリピン海プレート内部のスラブ内地震、北米プレートに沈み込む太平洋プレートによるプレート境界地震などと推定されている。震源は東京湾北部・荒川河口付近、または千葉北西部と考えられている。震源の深さについても諸説あり、深さ約40km以下の浅い場所で発生したM6.9の地震とするもの、フィリピン海プレート上面で発生したプレート境界型地震、古記録から初期微動の継続時間が約10秒と読み取れることから深さ100km程度、などである。中村亮一(2007)らの研究では、東京湾北部の市川市付近で深さ70kmのフィリピン海プレートに関係するものだとされた。佐藤智美(清水建設技術研究所)の研究(2016)によると、震度分布を東北や北信越まで広げて分析した結果、フィリピン海プレート内部地震である2005年の千葉県北西部地震(深度74キロメートル、M6)と類似点が大きく、同地震での深度を約60キロメートルでM7と設定してシミュレーションした時、隅田川河口付近の活断層を震源とした場合では生じてしまう関東各地の震度分布の不整合が克服され、文献等の記録とほぼ一致することが分かった。河角廣は現・足立区付近(北緯35.8°、東経139.8°)に震央を仮定し"M" = 4としてマグニチュード "M" = 6.9を与えていた。宇佐美(2003)は "M" = 7.0-7.1としている。引田(2001)は強震動のシミュレーションから "M" = 7.4が妥当としている。この地震に関する古記録は江戸時代末期であったため歴史地震としては非常に多く残されている。被災したのは江戸を中心とする関東平野南部の狭い地域に限られたが、大都市江戸の被害は甚大であった。被害は軟弱地盤である沖積層の厚みに明確に比例するもので、武蔵野台地上の山手地区や、埋没した洪積台地が地表面のすぐ下に伏在する日本橋地区の大半や銀座などでは、大名屋敷が半壊にとどまることなどから震度5強程度とみられ、被害は少なかったが、下町地区、とりわけ埋立ての歴史の浅い隅田川東岸の深川などでは、震度6弱以上と推定され、甚大な被害を生じた。また、日比谷から西の丸下、大手町、神田神保町といった谷地を埋め立てた地域でも、大名屋敷が全壊した記録が残っているなど、被害が大きく、震度6弱以上と推定されている。死者は町方において10月6日の初回の幕府による公式調査では4,394人、10月中旬の2回目の調査では4741人であり、倒壊家屋14346戸とされている。またこれに寺社領、より広い居住地を有し特に被害が甚大であった武家屋敷を含めると死者は1万人くらいであろうとされる。『破窓の記』には「今度の地震、山川高低の間、高地は緩く、低地は急なり。その体、青山、麻布、四谷、本郷、駒込辺の高地は緩にて、御曲輪内、小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川辺は急なり。その謂れ、自然の理有るべし。」とあり、当時から特に揺れの激しい地域の存在が認識されていた。地震直後に30余箇所から出火、朝から小雨で微風であったため大規模な延焼は起きず翌日の午前10時頃には鎮火したが 1.5kmを焼失した、古い資料では焼失面積は2.2kmとされている資料も存在するが、 1.5kmと再計算された。旗本・御家人らの屋敷は約80%が焼失、全潰、半潰または破損の被害を受けた。亀有では田畑に小山や沼が出来、その損害は約3万石に上った。小石川の水戸藩藩邸が倒壊して、水戸藩主の徳川斉昭の腹心で、水戸の両田と言われた戸田忠太夫、藤田東湖らが死亡した。また斉昭の婿である盛岡藩藩主南部利剛も負傷した。指導者を失った水戸藩は内部抗争が激化、安政7年(1860年)の桜田門外の変へとつながった。江戸城や幕閣らの屋敷が大被害を受け、将軍家定は一時的に吹上御庭に避難した。江戸幕府は前年の安政東海・南海地震で被災した各藩に対する復興資金の貸付、復旧事業の出費に加えて、この地震による旗本・御家人、さらに被災者への支援、江戸市中の復興に多額の出費を強いられ、幕末の多難な時局における財政悪化を深刻化させた。津波が起きたとする記録は無いが、地震動によって誘発されたと思われる川や溝の水が揺れ、はね上がる現象は生じていたと思われる。『安政見聞誌』や『破窓の記』などには江戸各所の被害が詳細に記録され、地震当日から10月中の約一か月間の余震がその強さに応じて黒丸(夜)および白丸(昼)の大きさで表示され、余震回数が日時の経過とともに減少していく様子が窺える。『なゐの日並』には日記形式で11月中頃まで余震が記録されている。被害情報を伝える瓦版が発行され、風刺画の鯰絵なども刊行された。復旧事業が一時的な経済効果になったとも言われる。地震後には夥しい数の瓦版や鯰絵が巷に出回り、よく売れたとする記録が少なくない(『武江地動之記』『なゐの日並』など)。瓦版には市民の情報獲得に対する欲求を満たす役割があり、中には国元の縁者に親子兄弟の安否を刷り込み知らせるもの、地震の発生を歓迎するような詞書が添えられているものもあり、災害が世の乱れを糺すべく天が凶兆を以て警告するのだとする思想が当時は依然として根強く残っていた。『安政見聞誌』には、地震当日の夜五つ時頃(20時頃)、「浅草御蔵前通大墨」という眼鏡屋が所有する3尺余(約1m)の磁石に吸付いていた古釘、古錠など金物が悉く落下し、地震後に再び鉄を吸付ける力を回復したとある。この現象を元に、佐久間象山が大地震を予知する地震予知器を開発している。地震の予兆について人々から聞いた話を元に作成され、原理としては磁石の先端に火薬が付けられ、大地震が来る前にはその火薬が下に落ちるとするものであったという。死者の無料埋葬、米の配給、物価抑制のための公定上限価格の設定なども行われた。安政年間は日本で多くの大地震が発生した時代である。安政江戸地震発生の前年である安政元年11月4日(1854年12月23日)には安政東海地震(M8.4)、その約32時間後に安政南海地震(M8.4)が発生しており、安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」と呼ばれる。また、安政南海地震の二日後には豊予海峡地震(M7.4)も起きている。この他にも安政年間には安政元年6月15日(1854年7月9日)に伊賀上野地震(M7.4)、安政2年2月1日(1855年3月18日)に飛騨地震(M6.8)、安政5年2月26日(1858年4月9日)に飛越地震(M6.7)が発生している。ただし、伊賀上野地震(安政伊賀地震)・安政東海地震・安政南海地震・豊予海峡地震は「安政」への改元前に発生した地震である。これらの地震や黒船来航、内裏炎上などの災異が相次いだため、「嘉永」から「安政」に改元された。
出典:wikipedia
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