西暦(せいれき)とは、イエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした紀年法である。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」又は「AD」が使われる。A.D.又ADとは「アンノドミニ (Anno Domini) 」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」と言う意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。紀元より既に2000年余りが経過している西暦は、1800年頃からキリスト教国家を中心に広がり、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。今年は2016年(JST)である。西暦は6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスによって算出された。525年、ディオニュシウスはローマ教皇ヨハネス1世の委託を受けてキリスト教の移動祝日である復活祭の暦表(復活祭暦表)を改訂する際に、当時ローマで用いられていたディオクレティアヌス紀元(ローマ皇帝ディオクレティアヌスの即位を紀元とする)に替えて、イエス・キリストの受肉(生誕年)の翌年を元年とする新たな紀元を提案した。これはディオクレティアヌスがキリスト教の迫害者であり、その迫害者の名を残す事が疎まれたからである。聖書の記述によると、イエスが復活した日はユダヤ教の過越の祭り(春分の頃の最初の満月の日)の前日から三日目の日曜日(主日)であり、伝承では「ユダヤ暦でニサンの月の14日」(ユリウス暦の3月25日)とされていた。ディオニュシウスはイエスの生誕年を求めるにあたり、ディオクレティアヌス紀元279年が、伝えられるイエスの復活した日の状況と合致することを発見した。そこで、ここから過越の祭りと同日である復活祭の日付が532年で一巡するという当時の知識に基づき、一巡に要する532年にその時のイエスの年齢が「満30歳であった」とする当時の聖書研究者の見解を根拠として、31年を加えた。これにより「ディオクレティアヌス紀元279年=キリスト紀元563年」の等式が成り立ち、この年号を出発点として他の年号が求められた。ディオニシウスはこの年号を「主の体現より (ab incarnatione Domini)」と表した。また、紀元の始点を(イエス生誕の12月25日ではなく)1月1日までさかのぼらせた。西暦1年から531年までは概念上の存在であり、実際の紀年法として使用されたことはない。その後も長らくこの紀年法は受け入れられず、731年にベネディクト会士ベーダ・ヴェネラビリスが『イングランド教会史(イギリス教会史)』をキリスト紀元で著してから徐々に普及し、10世紀頃にようやく一部の国で使われ始め、西欧で一般化したのは15世紀以降のことであるという。西暦が国際社会でもっとも用いられる年号となったのは、キリスト教圏であるヨーロッパ各国の世界進出や植民地拡大により非キリスト教国でも西暦が普及したからである。東ローマ帝国などの正教会諸国では10世紀以降、世界創造紀元(『旧約聖書』の『創世記』にある天地創造が基準。西暦紀元前5508年を元年とする)が使用されていた。現在も正教会の幾つかの教会で使用されている。西暦がキリスト教圏すべてで用いられた訳ではないので、注意が必要である。また紀年法が異なるのみならず、正教圏では20世紀初頭に至るまで西欧とは異なり、グレゴリオ暦ではなくユリウス暦が用いられていた。現在でもアトス山、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会などがユリウス暦を使用している。他方、コンスタンディヌーポリ総主教庁、ギリシャ正教会などは修正ユリウス暦と呼ばれる、月日にグレゴリオ暦と同様の修正を施したユリウス暦を使用している。ディオニュシウスの求めた紀元は、今日推定されるイエスの生年から4年ほどずれている。現在では、イエスはヘロデ大王の治世の末期、紀元前4年頃に生まれたと考えられている。これは、新約聖書の2つの記述が根拠となっている。これらの記述自体に歴史的な裏づけはないが、ヘロデ大王在位中にイエスが誕生したことは明らかであり、ヘロデ大王の死は当時の文書などにより紀元前4年と確定しているので、イエスは少なくとも紀元前4年には誕生していたと考えられている(「ナザレのイエス#イエスの生年」も参照)。西暦1年以前を表現する場合、西暦1年の前年を0年ではなく紀元前1年とし、過去に遡る度に年数を増やす「西暦紀元前」を使う。これは17世紀フランスの神学者ドニ・プトによる案で、18世紀末になってようやく一般化した。日本では、通常「紀元前××××年」と言う。日本での欧文表記は、英語の“”の略であるB.C.又はBCである。日本では西暦年での表記が増えており、「年」、あるいは下2桁のみで「年」と表記する事が多い。元号と区別する為には、「西暦年」と、「西暦」を年の前に付ける。「西暦+下2桁」(例えば、西暦13年)とは書かない(詳細は後節の「#西暦と各国の紀年法の関係」を参照)。キリスト教由来の紀年法として明示する場合は「キリスト紀元」と表記する。「紀元」と紀年法を明示せずに表記する場合、現在ではキリスト紀元(西暦)を指しているが、明治期から太平洋戦争終了までは神武天皇即位紀元(皇紀)を指していた。英語では、またはと書くのが普通だが、まれに西暦である事を明示するためには、"AD " と書く。紀元前ならば "123 BC" と書く。英語のADは、ラテン語の (主(イエス・キリスト)の年に)に由来するが、他の多くのヨーロッパ諸語ではラテン語表現を使わない。たとえばフランス語ならば、フランス語で「キリスト前/後」を意味する / (を略したもの)を使う。キリスト教に基づく表現である、を、より中立的に、たとえば英語では、 と言い換える動きも見られる。あえて日本語に訳せば「共通年代前」などとなる。背景には、19世紀から20世紀初期にかけて、西洋のシステムがグローバルスタンダードになって行く中で、非キリスト教圏にも西暦が浸透して行き、特に欧米の非キリスト教徒には強い抵抗感があったことがある。たとえば、Unicode Standard ではとを使っている。日本には、16世紀にカトリックの宣教師によって西暦がもたらされた。しかし、江戸時代になると禁教令が出されると、西暦はキリスト教と結びついていた紀年法であったため、使用が禁じられた。実際、1641年における、平戸のオランダ商館の出島への移転は、西暦が使われたことを、長崎奉行が問題視したために実行された。西暦が使われるようになったのは、西洋に合わせる形で明治5年(1872年)に天保暦(太陰太陽暦)からグレゴリオ暦(太陽暦)への移行が決まってから("改暦の詳細については「グレゴリオ暦#日本におけるグレゴリオ暦導入」を参照")のことであり、日常生活に普及し始めたのは第二次世界大戦後のことである。日本の公の機関が作成する公文書における年の表記は基本的に元号が用いられている。気象測器検定規則(平成14年3月26日国土交通省令第25号)に定められた気象機器の検定証印の年表示や、乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和26年12月27日厚生省令第52号)に定められた食品の賞味期限表示の一部のように、西暦を使用する法令も存在する。また一部の白書は、西暦主体の表記となっている。今日の日常生活では、「嘉永3年(1850年)」「明治23年(1890年)」「大正9年(1920年)」「昭和15年(1940年)」「平成12年(2000年)」のように西暦と併記する場合がある。主要なマスメディア(新聞・テレビ等)の多くは、主に西暦を使用しており、法令番号や判例など、元号で記される公文書を示す場合は、西暦に換算するか西暦を併記している。西暦と同様の紀年法として、日本には神武天皇即位紀元(皇紀、神武紀元)が存在する。明治期から太平洋戦争終了までは元号と共に皇紀も用いられた。現在でも有効である閏年の置き方に関する勅令(、明治31年5月11日勅令第90号)で神武天皇即位紀元が使われている。西暦に対して、元号を用いた日本独自の紀年法のことを和暦、あるいは邦暦と呼ぶことがある。中華民国では、辛亥革命勃発(1911年)の翌年に当たる1912年に元号を廃止し、中華民国が樹立された1912年を元年とする民国紀元(中華民国暦)を採用した。中華民国では宣統の次の元号のように「民国」という表記で扱われている。中華民国が台湾に逃れた1949年10月以降も、政府機関が公式に使用している紀年法であり、民間では西暦と共に使用されている。1949年10月に成立した中華人民共和国では、民国紀元も廃止され、政府機関も民間も西暦(公元)に統一されている。歴史に関する話題で元号を使用(あるいは併用)していても、1912年以降は元号が廃止されているので西暦のみを使用する(中華民国時代についても民国紀元を使わない)。この方式の紀年法の日本での呼び名は、今日では「西暦」と呼ばれる事が圧倒的に多いが、キリスト紀元(基督紀元)や西洋紀元ともいい、また西洋紀元を略して西紀(せいき)とも呼ばれる。『西洋聞見録 後編』(1871年) では、「西暦」は西洋の暦法であるグレゴリオ暦(あるいはユリウス暦)を指している。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。