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相澤英之

相澤 英之(あいざわ ひでゆき、大正8年(1919年)7月4日 - )は、日本の大蔵官僚、政治家、弁護士(相沢法律事務所、登録番号:32425)。東京福祉大学元学長。大蔵事務次官、衆議院議員(9期)、経済企画庁長官、金融再生委員会委員長などを歴任した。妻は女優の司葉子。現在の大分県宇佐市に父・相澤次郎、母・クメの三番目の子供として生まれた。父は宇佐中学の先生をしていた。相澤家は鎌倉時代からつづく横浜の旧家である。父の転任に従って新潟県高田、群馬県桐生、愛媛県大洲と転々とし、小学校に入る頃、一家は郷里の横浜に戻り、父が校長をしていた根岸小学校に入学する神奈川県立横浜第一中学校(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を経て、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1942年9月25日大蔵省に入省したが、10月1日には召集され、陸軍東部第十七部隊(近衛軽輺重兵連隊)に初年兵として入営した。1943年11月陸軍経理学校卒業。陸軍主計少尉。軍務に従事する。戦後、ソ連タタール自治共和国エラブガでの抑留生活を経て、1948年に復員。大蔵省に復職して下京税務署長を務めるが、程なく主計局主査(逓信担当)として本省に戻った。以後1973年に事務次官となるまで、近畿財務局長、理財局長、経企庁官房長を計3年間務めた他は全て主計局勤務であり、これほど主計局が長い例は、後にも先にも例がないという。2人の息子を残して妻が死去し男やもめであったが、経済企画庁官房長だった1969年、女優の司葉子と結婚し話題となった(司は初婚)。1974年6月に退官。赤沢正道に乞われ、1976年の第34回衆議院議員総選挙に、妻の出身地である旧鳥取全県区から自民党公認で出馬し、初当選。奥出雲の山林大地主23代目田部長右衛門の全面的な支援があったとされる。以後9回連続当選。官僚時代の田中角栄との関係から、当選後は木曜クラブに所属すると思われていたが、田中金脈問題やロッキード事件が世間を賑わせたことで派閥入りを見合わせ、無派閥を選択する。1984年、宏池会入りし、以降、自民党調査局長、経理局長、衆議院法務委員長などの役職を務めた。1988年2月に株売買による2億円の申告漏れ(証券会社の手続きミスによる)により、衆議院法務委員長を引責辞任した。1990年、第2次海部内閣の経済企画庁長官として初入閣。1998年12月には河野洋平、麻生太郎らと宏池会を離脱し、大勇会(河野グループ)に参加、会長代行を務めた。金融危機にあたり、1998年8月に衆議院金融問題特別委員長に就任。2000年、自民党金融問題調査会会長を務め、同年7月には更迭された久世公堯の後任として、第2次森内閣の金融再生委員会委員長に就任。2001年には自民党税制調査会(税調)会長に就任し、事業税についての外形標準課税、証券売買についての特定口座制の創設など税制改正を実現したが、税調が「インナー」と呼ばれる高齢の議員で構成される幹部会によって壟断されていると批判の声が強まる。2003年、第43回衆議院議員総選挙まで9期連続当選。第43回衆議院議員総選挙に鳥取2区から立候補するが、川上義博に敗れ落選した。所属する大勇会の座長は2006年末の同グループ解散まで務め、現在は為公会(麻生派)の顧問を続けている。大蔵週報に連載していたコラムを著書「読者諸賢いかに思われるか」として断続的に出版している。2005年に84歳で弁護士登録。2009年4月1日~2010年12月3日、東京福祉大学学長。現在の主な役職は、亡き先妻・周子は鳥取県倉吉市出身であり、妻・葉子は鳥取県境港市渡町出身であることから、鳥取県にゆかりがある。相沢によると、「昭和四十九年の六月二十八日、ちょうどまる一年務めた事務次官を退官した時は、当初六年間の軍隊生活はあったものの、三十二年間勤めてきた大蔵省をいよいよ去るのかと思うと、無量の感慨が沸く思いであった。…(中略)…私は葉子の縁で、結婚以来とくに鳥取県の方々とは以前にもまして交流があるようになったし、山陰の人情、風光もすきだった。…(中略)…その年の十月末、私は葉子ともども米子市に住居を移すとともに、本籍を境港市に移した。鳥取県に骨を埋める覚悟を決めた」という

出典:wikipedia

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