株式会社ハドソン()はかつて存在した北海道を発祥とするゲームソフト開発・販売会社。2012年3月1日をもって親会社であるコナミデジタルエンタテインメントに吸収され、2013年12月31日まで同社のブランドとなっていた。1973年5月18日、工藤裕司により札幌市豊平区にアマチュア無線ショップとして創業。1970年代後半にパソコンのソフトウェアの制作で頭角を現し、1980年代初頭には高い技術力でパソコンソフトメーカーの大手となる。シャープのパソコンX68000のOSであるHuman68kやそのグラフィカルなシェルであるビジュアルシェル、Hu-BASICと呼ばれるBASICインタープリタなどを開発していた。ゲームメーカー任天堂がファミリーコンピュータを発表した際、まだブームになっていない時点で接近を図り、任天堂初のサードパーティとなり、以降家庭用ゲーム機向けソフト開発がメインとなる。自由な社風の元、独自の企画を行っていた。特に「ハドソン全国キャラバン」や「高橋名人」は人気児童誌で積極的にタイアップされたことから、当時の子供世代にとっては抜群の知名度を誇る。また、自社でのハード開発にも乗り出しており、日本電気ホームエレクトロニクス株式会社と組み、1987年にはハドソンが独自に設計開発したCPU、サウンドチップ、画像処理チップなどC62システムと呼ばれるHuC62シリーズを搭載した家庭用ゲーム機『PCエンジン』を発表し、ソフトメーカーながら高い技術力の片鱗を見せた。1994年12月に発売した後継機種である次世代ゲーム機『PC-FX』の音源や動画処理などのチップセットもPCエンジンと同様にHuC62シリーズが採用された。1998年11月にメインバンクである北海道拓殖銀行が破綻して以降は資金繰りが難航して経営が悪化した。2001年にコナミ(後のコナミホールディングス)が筆頭株主になり、2005年には子会社化。コナミ主導となったこの時期から、ハドソンの特徴である「自由な社風」は事実上消滅してしまった。その後2011年にコナミの完全子会社になり、翌2012年にはコナミデジタルエンタテインメントに吸収合併され、法人としてのハドソンは解散した。その後はブランド名としてハドソンの名が残されていたが、2013年年末に同ブランドが名実共に消滅する事となり、2014年1月よりコナミブランドに統一されている。札幌市豊平区にアマチュア無線ショップCQハドソンとして創業。創業者の工藤裕司は北海道札幌市出身であり、日本大学理工学部卒業後、名古屋でサラリーマンをしていた。しかし在学中から行っていた、自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売するサイドビジネス「グループハドソンプロダクション」で、資金管理に関して無知だったために信頼していた人間に金を持ち逃げされるなどトラブルを多く抱え、本業も退社し、失意の内に帰郷していた。当初は喫茶店を開業するつもりだったが、同一建物内で別の借り主が喫茶店を開業したため、急遽無線ショップに変更したとも言われている。なお、上記のトラブルを踏まえ、信用できる人間を使うという意味で、当時北海学園大学法学部2年生だった実弟の工藤浩を中退させ、経営サイドに引き込んでいる。ただし、アマチュア無線販売時代のハドソンはほぼ毎月赤字だった。1970年代末、工藤裕司がアメリカでのホビーパソコンのブームを伝える雑誌記事を目にし、米国への視察旅行を行い、そこで高額なパソコンを購入し持ち帰った。その後パソコンの販売はもとより、アメリカ視察で購入したパソコンで組んだソフトウェアの制作・販売を手掛けるようになる。当時は、同じ電子機器を扱っているからという理由で多くのアマチュア無線ショップがパソコン販売会社に鞍替えしていた。ソフトウェアに関しては、当初はパソコンを購入した客が自力でプログラムを開発できない場合のおまけとしての存在だった。この時点のハドソンにはまだ開発用の機材がほとんど無く、顧客に販売するコンピュータを納品の前日にこっそり開梱しプログラムを打ち込み、当日朝には再度梱包して納品するという、ある種の自転車操業を行っていたこともある。なお、ソフトは店頭販売も行っていたが、ローカル都市の1ショップであり広告宣伝もさほど行っていなかったため、知る人ぞ知るという状況だった。一方で、ショップは次第に、北海道大学の学生などを主とした札幌市内のパソコンマニアの溜まり場となった。中本伸一など一部の学生はアルバイトとして自らソフトを開発し、それらのソフトも店頭で販売するようになった。パソコンに鞍替えしてからも「いつ潰れてもおかしくない資金繰り」だった。しかし1979年、ハドソンが扱っていたパソコンの販売元シャープの勧めで、「月刊マイコン」(電波新聞社)昭和54年7月号にオリジナルソフトウェアの通信販売広告を掲載すると一転、郵便局員が毎日のように現金書留の詰まった白い袋を担いで来る状況になり、莫大な利益を得ることになった。当時のハドソン社内では郵便局員を「サンタクロース」と呼んでいた。以降、パソコンソフト開発で高い技術力を発揮し精力的に作品を発表し、一躍ハドソンは日本を代表するパソコンソフトメーカーとしての認知を得る。ただし、当初は主にシャープのMZシリーズ、X1シリーズ用のBASIC(Hu-BASIC)などを手掛けており、日本で圧倒的な人気があったNECのPC-8000シリーズ用のソフトを開発していなかった。そのため、ハドソンの名前は当時のパソコンのライトユーザーには浸透していなかった。1981年には孫正義率いるパソコンソフトの流通会社である日本ソフトバンクと独占契約を結び、上新電機を始めとする全国の主なパソコン販売店の店頭でソフトウェアが販売される体制を確立した。なおソフトバンクの歴史でハドソンの存在は必要不可欠と言われており、現在も孫は工藤兄弟を「恩人」と呼び、事ある毎に礼を欠かしていない。なお、日本ソフトバンクのソフトウェア流通部門はその後紆余曲折を経て、2013年現在はソフトバンク・テクノロジーの一部となっている。1983年に任天堂が家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータを発売。ハドソンはこの時期にファミコン向けBASIC言語「ファミリーベーシック」を共同開発した。これを契機にファミリーコンピュータ用ゲームソフト開発に乗り出す。主にパソコンソフトの開発者をそのままファミコンソフトの開発を担当させたため、ハドソンのパソコン事業は徐々に規模を縮小していくことになったが、この方針転換は、当時専務だった工藤浩がデパートの丸井今井札幌店(当時はハドソン支店も置かれていた)にてファミコンのドンキーコングを遊んでいる子供たちを見て、このゲーム機はいずれパソコンでのゲームを追い抜くと判断したことによるもので、創業者の工藤裕司もその判断を支持したためである。事実上、初のサードパーティーとなったことで、初期参入会社と同様に、任天堂からソフトの年間発売制限数の緩和やロイヤリティのなど優遇措置を受けることになり、ハドソンはファミコン黎明期にヒット作を連発しファミコンのソフトメーカーとして一躍名を馳せる。他会社と決定的に違ったのは、社内に自由な空気があり、積極的に独自の企画を生み出したことである。全国各地を巡業するゲーム大会「ハドソン全国キャラバン」や、16連打でスイカを割る「高橋名人」は小学館のコロコロコミックを筆頭に児童誌でも大々的に取り上げられ、高橋を題材にした『高橋名人の冒険島』の他にも『忍者ハットリくん』や『ドラえもん』『ロードランナー』『桃太郎伝説』などが100万本以上のミリオンセラーを記録するなど、ファミコン人気を決定的なものにした。その後もコナミの傘下に入る2011年まで任天堂ハード向けソフトの供給を続け、全世界累計ではWii用ゲームソフト『DECA SPORTA』の約277万本や、他にも『ボンバーマン』『スーパー桃太郎電鉄III』『ボンバーマン64』などが販売本数100万本を突破したほか、PCエンジンには『PC原人』『天外魔境』シリーズといった代表作以外にも『R-TYPE』『イースI・II』など極めて完成度の高い移植も手掛けており、任天堂以外のハードでは『桃太郎電鉄7』がミリオンを達成するなど、様々なプラットフォームでゲームソフトを供給するソフトメーカーの雄として存在を示した。ハドソンは本来、技術者の集団ということもあり、任天堂のサードパーティーとして、ファミコンブームの立役者としての立場に甘んじる事無く、独自のハード作りにも乗り出した。1987年に日本電気ホームエレクトロニクス(NEC HE)と共同開発した家庭用ゲーム機PCエンジンは、ハドソンが独自に設計開発したCPU、サウンドチップ、画像処理チップなどC62システムと呼ばれるHuC62シリーズを搭載しており、実質ハドソンが開発したゲーム機であり、当時のライバル機である任天堂のスーパーファミコンやセガのメガドライブと日本を含め世界市場で覇権争いを展開した。全世界累計の販売台数は1,000万台を記録している。1994年12月に発売した後継機種である次世代ゲーム機『PC-FX』の音源や動画処理などのチップセットもPCエンジンと同様にHuC62シリーズが採用されたが、当時次々と発表された競合ハードであるPlayStation、セガサターン、NINTENDO64の3D性能に対抗すべく急遽PC-FXに搭載する予定だった3Dポリゴン用チップの開発が間に合わず、結果としてPCエンジンの延長線上である従来型の2Dゲーム路線のソフト開発がメインになってしまうなど急速に発展する3Dゲーム市場からは後塵を拝してしまい、本機を最後にハード開発から撤退する事になったものの、長年NEC HE系列のファーストパーティー的な存在であり続けた。1990年代末、メインバンクだった北海道拓殖銀行の破綻により資金繰りが悪化。携帯電話向けの事業に乗り出すが、経営状態は好転せず、2000年代に入ってコナミの資本が入るようになり、2004年には創業者が経営から完全に手を引き、2005年にはコナミの子会社となる。同時に特徴的であった「自由な社風」も社内から無くなった。2007年に本社を東京ミッドタウンに移すが、ヒット作がほとんどなく、2008年には社長を退任した遠藤やマリオパーティシリーズのスタッフがエヌディーキューブに移籍。コナミの完全子会社になった2011年は高橋名人が退社、『桃太郎電鉄シリーズ』のさくまあきらも、長年付き合いのあったハドソン社員が退社した事がきっかけで起こった確執を経て決別。事実上、桃太郎シリーズ打ち切りと同シリーズの著作権をコナミと他社に譲渡せず永久に封印するという事態が起きる。そして翌2012年にコナミデジタルエンタテインメントに吸収合併する形で法人としてのハドソンが消滅した。なお、消滅後も当初はハドソンブランドのサービスは継続されていたが、バーチャルコンソールやゲームアーカイブスで過去作の配信以外に目立った動きがないと言う理由から、2013年末をもってハドソンブランドが消滅、これらのアーカイブも全てコナミブランドに統一され、翌年の2014年元日付けでハドソンブランドの公式ホームページも閉鎖された。ハドソンの社名は、熱狂的な鉄道ファンでもあった創業者・工藤裕司が、国鉄C62形蒸気機関車のハドソン形という車軸配置から取ったものである。工藤は大学在学中からサラリーマン時代にかけて、サイドビジネスとして自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売しており、その際に用いていた社名も「グループハドソンプロダクション」だった。工藤の鉄道趣味は留まることを知らず、社名のみならずハドソンの社内にも鉄道関連のトリビアが溢れていた。社長室には常時組み立て中の鉄道模型が置かれ、工藤がC62形の2号機が好きだったことから、本社の入口にもC62の部品が飾られていた。また、会社の代表電話番号の末尾4桁は4622で、さらには郵便番号をC62にちなんだ「062」にするため、本社をわざわざ北海道札幌市豊平区に置くこだわりぶりだった。また、かつて札幌芸術の森の隣接地にあった中央研究所の屋上にはライブスチームの線路が敷設され、専属のメカニックが配置されていたほか、研究所の大会議室ではテーブル中央に鉄道模型のジオラマが置かれC62の模型が走っていた。その模様はNHKスペシャル『新・電子立国』でも取り上げられた。1988年から1995年までC62ニセコ号を運行していた北海道鉄道文化協議会(通称:鉄文協)ではスポンサーの一社を務めていた。C62運行のスポンサーが集まらず、鉄文協が「おたくの社名のハドソンというのは、C62の車軸配置の通称なんですよ。その縁で協力してもらえませんか?」と依頼したところ、そこで初めて工藤もC62好きであることを知り、二つ返事で協力に至ったという。また、他の趣味として古銭の収集があり、社内に「東洋鋳造貨幣研究所」という古銭専門の研究所を設け、中央研究所の建物内に「方泉處」という古銭博物館を開設していた他、博物館名と同じ「方泉處」という季刊の研究誌(1992年 - 1998年)も発行していた。これは1990年代末に経営難に陥って以降はこれらの活動は順次的に廃止されていった。1980年代半ばのハドソン関係者が口々に言う「会社の自由な空気」は社員のみならず、社長自身もそれを体現していた。中でも1986年の社員旅行はバブル景気の初期であったこともあり、「貸切ジェット機でハワイ旅行」という、一般企業ではあまり例のないものであった。社章は蜂で、「ハチ助」とも呼ばれている。ハドソンのゲームソフトにボーナスキャラ・隠れキャラとして古くから数多く登場している。由来は、北海道のアマチュア無線のエリア番号が「8(はち)」であるため、同音である「蜂」を採用したと言われている。当初は「CQハチ助」と呼ばれていた(これは高橋の勘違いであり。実際は「JAハチスケ」である。理由は当時のアマチュア無線の北海道のコールサインがJA8で始まっていたことによるものである)。「ハドソン全国キャラバン」とは、ハドソンが1985年から行っていたゲーム大会のこと。最大の特徴は「キャラバン」の名にふさわしく、北海道から沖縄まで全国各地を巡業していた事である。各都道府県の政令指定都市にとどまらず、他の都市でも行われた。最大は第2回の40都道府県・65会場である。「公式ソフト」は以下の通り。2009年4月から2011年4月末まで、2本社体制となっていた(登記上本店は東京本社)。かつては、大阪、名古屋、福岡等にも事業所を設置していた。市谷田町に札幌時計台を模した東京支社ビルを擁していた時期もある。実用ソフト言語、OSゲーム任天堂製ファミコンソフトの移植(アレンジ移植を含む)16ビットパソコン日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)との共同開発。(★は筆頭提供番組、いずれも複数社提供)
出典:wikipedia
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