アリス(Alice、ALICE)は、日本のフォークグループ。1970年のアメリカコンサートツアーで、大阪のフォークグループ「ロック・キャンディーズ」のリーダーだった桃山学院大学出身の谷村と、東京のソウルバンド「ブラウン・ライス」のゲストドラマーだった矢沢が知り合い意気投合した。二人は帰国したらプロとして一緒にグループを組もうと約束する。帰国後谷村は、同じ神戸の音楽サークル、ポート・ジュビリーで知り合いだった、アマチュアロックバンド「フーリッシュ・ブラザーズ・フット」のボーカルで京都産業大学出身の堀内をグループに勧誘した。1971年12月25日、谷村と堀内で大阪市南区(現在の中央区)西心斎橋二丁目(アメリカ村)にあるビジネスホテル・大阪帝国ホテルの一室にて、矢沢が合流することを前提に「アリス」を結成。翌1972年3月5日、シングル「走っておいで恋人よ」でデビュー。同年5月5日開催の奈良市民会館での公演から、矢沢が正式に合流し、晴れて現在のアリスになった。プロデビュー当時はヒット曲に恵まれず、メンバー三人とマネージャーの合計四人で運搬できる楽器として、矢沢は本来ドラマーなのに手荷物として持ち運びが可能なコンガを持って、谷村、堀内のフォークギター二本とともにツアーやライブに明け暮れる毎日だった。しかし、「特急の停まる市の市民会館にはほとんど行った」(谷村)と語るほどの地道なツアー活動をすることで潜在的ファンを増やしていった。1974年には年間303ステージという無茶苦茶な記録が残っている。その中には知名度向上だけを目的にしたノーギャラ・交通費事務所側負担の赤字ツアーもあったという。ツアーの成果と、谷村の『MBSヤングタウン』や文化放送『セイ!ヤング』のDJ、そして関西カレッジフォーク界で有名だった立命館大学と同志社大学のOB三人組ウッディ・ウーの「今はもうだれも」のカバーヒットを契機に、オリジナル曲である「帰らざる日々」「冬の稲妻」「涙の誓い」「ジョニーの子守唄」「チャンピオン」「秋止符」「狂った果実」等のヒット曲を連発した。1978年には日本人アーティストとして初めて日本武道館3日間公演を成功させるなど、一時代を築いた。日本武道館ではその後活動停止まで何回も公演し、他に後楽園球場、甲子園球場、横浜スタジアムといった当時の野球場や、東京厚生年金会館大ホール、大阪フェスティバルホールといった全国の主だった音楽ホールなどを軒並みに満員にするほど、アリスは多数のファンを獲得していった。なお武道館のコンサートでは文化放送『ペパーミントストリート 青春大通り』で谷村の相棒を務めていたばんばひろふみの司会で、生中継が行われた。アリスのライブレコード『栄光への脱出』や『限りなき挑戦』にも、ラジオを聴いているリスナーへのメッセージが収録されている。1979年に、ユニセフの「国際児童年」の募金イベント「Hand in Hand 100円玉の大行進」に、テーマ曲として「美しき絆〜Hand in Hand〜」を提供するほか、自らも街頭で募金活動に参加した。「Hand in Hand 100円玉の大行進」は12月31日午後1時から1時間だけの募金活動を呼び掛けたものだったが、全国で約7万3000人を動員した。その後、谷村の提唱で、音楽ファンの募金活動による音楽ホールの建設目指す「シアター・フレンズ」プロジェクトを、小室等、南こうせつ、井上陽水らとコンサート会場で始めるが、諸般の事情で挫折。当時の記録映画「ALICE THE MOVIE 美しき絆」(東宝製作・坪島孝監督)が公開されただけに終わっている。しかし谷村と堀内のソロ活動活発化とともに音楽の方向性の違いが顕在化して、1981年5月21日にアリスの活動停止を記者発表。北京・香港・バンコクの海外ツアーを含む最後の全国ツアーの後で1981年11月7日の後楽園球場のコンサート「アリス・ファイナル」を最後に活動停止した。後に完全再始動をし、アリスとしてテレビ出演をした際に活動停止の真の理由について堀内が「チンペイさんへのやきもち(劣等感)」と語っている。これは、アリスとして(1978年12月発売、最大のヒット曲『チャンピオン』のグループでのメイン歌唱・作詞・作曲)、他者への提供、谷村新司ソロとしてと才能をいかんなく発揮してそれぞれの形でヒットを飛ばしまくり、しかも時期がおおよそ重なったことによる。そこで堀内から谷村に、谷村を通して矢沢に活動停止の意向が伝えられ、谷村・矢沢の両名がそれを受け入れたために活動停止に至った、とのことである。ただし、この際に谷村は“アリスは辛い時に逃げ込むための場所ではない”という意味で「(活動を停止したら)そう簡単にアリスに戻ることは出来なくなるぞ」と堀内に言ったそうである。なお、堀内が後にソロ活動で行き詰まり谷村にアリス再始動の相談を持ちかけたところ、同じようなことを言われたことがあるらしい。堀内は実質的に演歌・歌謡曲に転向してソロ活動。谷村はソロ活動を一時休止して中国の上海音楽学院教授に就任、後にソロ活動も再開する。矢沢は音楽グループ「BLEND」参加ののち音楽活動を休止し、六本木で串焼きを中心とした飲食店と、神保町でギターショップを経営している。1981年の活動停止後、アリスは5回の活動再開実績がある。主に谷村と堀内がヴォーカルを担当するが、メイン・シンガーがどちらかということもなく(ツイン・ヴォーカル)、ともにほぼ対等の立場だった。鳴かず飛ばずの下積み時代が長かったが、「冬の稲妻」で大ブレイクし、当時黎明期だったニュー・ミュージック界の中心的存在のひとつと見なされるようになる。ただその落差の大きさから、地方局のラジオなどに出演した際には「大ヒット『冬の稲妻』でデビューした今話題のグループ、アリスです」(ジョークを含めた谷村談)などと紹介されていた。無名の活動開始時期は、自他ともにフォークソングのジャンルに分類されるというポジションだったが、ドラムスが加わっているという点で、同時期のミュージシャンとの差別化を狙っていた。「冬の稲妻」でブレイク後は、フォークの枠にとらわれることなく独自の世界を展開し、ファンを次第に獲得していった。曲調は次第にロック寄りになり、バックミュージシャンも、エレキギター、シンセサイザーなどを従え本格的バンド編成となり派手なステージ活動を展開していた。このように結成時のフォーク・シンガーの路線の枠からは完全にはみ出ていたアリスだったが、1981年の休止ライブでは原点に戻り、コーラスもバックミュージシャンもない、3人だけでの演奏を行った。全盛期は『NHK紅白歌合戦』に出場しなかった。これは、アリスとしてNHKの番組オーディションに応募したが落選した経緯があるため、「意地として断っていた」とのことである。海外公演でメキシコに行った際、「日本で今一番売れているアーティスト」というフレコミで観客7万人のフェスティバルコンサートに出演。演奏を行ったものの観客は静まり返ってしまい、ヤケクソで「アミーゴ!」「ビバ!」と叫びながら走り回ったら観客は多いに沸いたという。
出典:wikipedia
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