山本 和行(やまもと かずゆき、1949年6月30日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。広島商業高校では夏、2年生の時にエースとして夏の甲子園県予選決勝に進出。伊原春樹のいた北川工を完封し、第48回全国高等学校野球選手権大会に出場。しかし1回戦で桐生高の前野和博投手(芝工大-東芝)に抑えられ1-3で敗退する。1年上のチームメートに三村敏之遊撃手(後に広島東洋カープ監督)がいた。翌夏も、県予選決勝で広陵の宇根洋介投手(近大-電電中国)と投げ合うが惜敗、甲子園出場を逃した。広陵は甲子園で準優勝。宇根は1年下だが、県内では福山電波工(現近大広島高福山校)の村田長次(兆治)、尾道商の大田垣耕造(シドニー五輪日本代表監督)両投手らが同学年で鎬を削っていた。進学した亜細亜大学でも2年からエースとなる。東都大学リーグでは春季リーグで4年振りに優勝。中大の高橋善正投手が持つ1季9勝のリーグ記録に並び、最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインに選ばれた。同年の第20回全日本大学野球選手権大会では決勝で法大を降し、亜大を初の日本一に導く。同年の第2回明治神宮野球大会では日大に敗れ準優勝。リーグ通算63試合登板、33勝26敗、防御率1.83、351奪三振。広島県出身の山本は広島入団を切望していたが、同年のドラフト1位で阪神タイガースに入団(後に監督となる中村勝広は同期)。当時の阪神は江夏豊、村山実、上田次朗、権藤正利ら一流投手が揃った投手王国時代で、山本は「カープじゃないのか」と思ったのと同時に「これは大変なところに行くことになった」と不安になったと述懐している。しかし、独自に研究していたフォークボールを武器に1年目から一軍で活躍。1975年3月21日のオープン戦(対近鉄戦)で先発し好投。一方その対戦相手・鈴木啓示は4回4失点でマウンドを下り、西本監督から「少しは向こうのピッチャーを見習え!」と叱責された。5年目のから主にリリーフとして起用されるようになり、この年6勝3敗18セーブ、防御率2.92という好成績を残した。翌は9勝5敗9セーブ、防御率3.71ながらリーグ最多セーブ投手となる。1976年6月8日の巨人戦、2-0でリードしていながら9回裏に疲れの見えた江本をリリーフ、王貞治との勝負を避けて四球にして満塁のピンチを迎え、末次利光に逆転満塁サヨナラホームランを浴びた。この試合では「なぜ(ダブルストッパーのもう一人だった)安仁屋宗八に替えなかったのか?」と吉田義男監督の采配を疑問視する声もあった。から先発投手に転向した。には15勝11敗2セーブを残した。この後、再びリリーフに転向し、には15勝8敗26セーブ、40セーブポイントで最優秀救援投手のタイトルを獲得する。には10勝24セーブで再び最優秀救援投手に輝き、セ・リーグを代表する抑え投手として君臨した。には中西清起とのダブルストッパーで5勝11セーブをあげ、21年ぶりのリーグ優勝の原動力となる。このシーズンには通算100勝と100セーブをともに巨人戦で記録した。しかし、9月にナゴヤ球場での中日戦の試合前練習中にアキレス腱を断裂し、シーズン終盤は出場できなかった。翌年は11勝15セーブを挙げて復活。兼任投手コーチとなったに引退。700登板は球団最多記録。先発でも抑えでも好成績を残した。引退後は朝日放送の野球解説者、から4年間の広島投手コーチを経て、現在はNHKの野球解説者を務めている。山本の決め球はフォークボールだった。フォークボールは人から投げ方を教わる場合が多いが、山本はあえて“フォークのスペシャリスト”として知られていた入団当時の村山実監督にも教えを請わず、自己流でフォークを開発。しかもグラブの中で握りを決めず、モーション途中の左腕を下げた時点で瞬時にフォークへ握り変えるという投球スタイルで直球とフォークボールを投げ分けた。1979年6月2日、江川事件の末巨人に入団した江川卓の初登板試合では阪神の先発投手として完投勝利している。このとき、打者として打席に立った江川は、最初の打席で初球のストレートがあまり速くなかったことから「プロってこんなレベルか」と思ったところ、そのあと「打ちごろ」とみて振った投球がいずれも空振りとなって三振を喫した。江川はそれがフォークボールだったと気づき、「やばいぞ、プロはこんな高いレベルなのか」と考えを改めたとのちに語っている。1983年5月5日の対巨人戦(後楽園球場)で、1点リードの9回二死一塁から原辰徳に逆転サヨナラ本塁打を浴びる。このとき、三塁手の掛布雅之は遊撃手の平田勝男と「ここは絶対にインコースはない」と話していたところにインコースのストレートを投げて被弾したことに驚き、試合後山本から「ストレートで抑えられる自信があった」と聞かされたことが強烈な印象として残っているという。打撃については通算438打数81安打(.185)7本塁打39打点と決して投手として傑出しているわけではないが、次のような記録を残している。考え方が個人主義で"阪神の変わり者"といわれ、阪神がハワイでキャンプをやったとき、メジャーリーグ関係者から、「アメリカで野球をしないか」と誘われて以来、すっかりその気になってしまい、これが高じて1984年オフにメジャーリーグへの移籍を球団に訴え、ロサンゼルス・ドジャースに入団がほぼ決まりかけていた。事前に渡米し練習にも参加、年俸も住む家も背番号25も決まっていたが当時はFA制度はなく球団の保有権の問題もクリアできず断念した。
出典:wikipedia
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