カール大帝(カールたいてい、742年4月2日 - 814年1月28日)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。フランス語でシャルルマーニュ(Charlemagne)と言い、またカール1世(シャルル1世)とも言う。ごく稀に、英語読みのチャールズ大帝という表記が用いられることもある。768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)としてカールの治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年には西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位:800年 - 814年)を号したが、東ローマ帝国はカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。1165年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によってカール大帝は列聖された。カール大帝は、古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる。カール大帝の死後843年にフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。カールは742年、ピピン3世とベルトレドの長男として生まれた。出世地ははっきりとしていないが、現在のベルギーに位置するエルスタルで生まれたとの説が有力である。ピピン3世の子のうち、カール、カールマン、レドブルガの3人が成人し、男子であるカールとカールマンが後継者とされた。すでに751年にはピピン3世は主君だったメロヴィング朝のキルデリク3世から王位を簒奪してフランク王に即位しており、また754年にローマ教皇ステファヌス3世がサン=ドニ大聖堂まで赴いて塗油した際、ピピンは後継者であるカールとカールマンへの塗油も望み、これが実行されていた。768年にピピンが死去すると、フランクの相続法に従い王国は2分され、カールはアウストラシアとネウストリアを、カールマンはブルグント、プロヴァンス、ラングドックを手に入れたが、両者の間は不仲であったとされる。771年にカールマンが死去するとカールマンの妻であるゲルベルガは幼子とともにランゴバルド王国へと亡命し、カールはフランク全域の王となった。カールの生涯の大半は征服行で占められていた。46年間の治世のあいだに53回もの軍事遠征をおこなっている。父ピピン3世の死後、イタリアのランゴバルド王国の王は王女をカールの妃としてフランク王国からの脅威を取り除き、ローマ教会への影響力を強めて勢力挽回を図ろうとした。770年、カールは王女と結婚したが、デシデリウスがローマへの攻撃を開始し、773年にローマ教皇ハドリアヌス1世がカールに援軍を要請するに至って、カールは義父デシデリウスと対決することに方針を定め、妃を追い返してアルプス山脈を越えイタリアに攻め込んだ(ランゴバルド戦役())。翌774年にはランゴバルドの首都パヴィアを占領し、デシデリウスを捕虜として「鉄の王冠」を奪い、ポー川流域一帯の旧領を握ると、自らランゴバルド王となってローマ教皇領の保護者となった。さらに父の例にならって中部イタリアの地(以前のラヴェンナ総督府()領)を教皇に寄進した。またカールは征服したランゴバルド領の各地にフランク系の貴族を伯として大量に送り込み、新領土の統治体制を固めた。これらの新領主は、やがてイタリアに土着し後世のイタリア貴族の多くの起源となった。772年には、ドイツ北部にいたゲルマン人の一派ザクセン族を服属させようとし、ザクセン戦争を開始した。このザクセン戦争はカールが優勢のうちに進められたものの、ザクセン族は頑強に抵抗し、遠征は10回以上にも及んだ。785年には有力な指導者ウィドゥキントを降伏させたものの抵抗は続き、結局完全にこれを服属させたのは戦争開始から32年後の804年のことであった。カールは戦後、抵抗する指導者を死刑や追放に処し、ザクセン族を帝国内に分散移住させ、代わりに征服地にフランク人を移住させるなどの方法で反抗をおさえた。これによって現在のエルベ川からエムス川にかけての広大な地域がフランク王国に服属することとなった。さらにその東に居住するスラヴ人たちもその多くが服属した。一方、ザクセンの征服によってその北に居住するデーン人との軍事的緊張が高まったが、カールの存命中は膠着状態が続いた。778年、カールはイベリア半島に勢力を張る後ウマイヤ朝を討つためにイベリア北部に遠征した(ロンスヴォーの戦い)。この時のカールのスペイン・カタルーニャ遠征を題材にしたのが『ローランの歌』である。この遠征によって、イスラム勢力は後退し、795年にはピレネー南麓にスペイン辺境領をおいた。またこのとき、スペインの後背地にあたりやはり地元勢力の強かったアキテーヌの伯を全員フランク人から新たに送り込むことで、アキテーヌを完全に掌握した。801年にはスペイン辺境領は南進してバルセロナを落とし、バルセロナ伯をこの地においた。北のフリース族とも戦い、西ではブルターニュを鎮圧して、東方ではドナウ川上流で半独立勢力となっていたバイエルン族を攻めて788年には大公タシロ3世を追いこれを征服するとともに、791年にはドナウ川中流のスラヴ人やパンノニア平原にいたアヴァールを討伐してアヴァール辺境領をおき、792年にはウィーンにペーター教会を建設している。アヴァールは、中央アジアに住んでいたアジア系遊牧民族でモンゴル系もしくはテュルク系ではないかと推定される。6世紀以降、東ローマ帝国やフランク王国をはじめとするヨーロッパ各地に侵入し、カール遠征後はマジャール人やスラヴ人に同化していったと考えられる。このときはアヴァール領の西部を制圧しただけであったが、カールは再度のアヴァール侵攻を計画し、その一環として793年にはドナウ川とライン川をつなぐ運河を計画した。796年に再度侵攻した際にはアヴァールの宮殿にまで到達して大規模な略奪を行い、これによってアヴァールは致命的な大打撃を受けて以後は衰退するばかりとなった。またこの勝利に伴い、フランク王国は東に大きく領土を広げ、パンノニア平原の中央部付近までを服属させた。結果としてカールの王国は現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スイス、オーストリア、スロヴェニア、モナコ、サンマリノ、バチカン市国の全土と、ドイツ、スペイン、イタリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアの各一部に広がった。このことによって、イギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、イングランド、デンマーク、スカンジナビア半島をのぞく全ゲルマン民族を支配してフランク王国は最盛期を迎えた。カールは、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。カールは征服した各地に教会や修道院を建て、その付属の学校では古代ローマの学問やラテン語が研究された。また、フランク王国内の教会ではローマ式の典礼を採用し、重要な官職には聖職者をつけ、十分の一税の納入を徹底させた。さらに住民をキリスト教のアタナシウス派(カトリック教会)に改宗させてフランク化もおこなった。メロヴィング朝はもともと、広い領土を支配するために全国を伯領に分け、それぞれの伯領に「伯」(Comes、Graf)という長官を配置し、地元有力者を任命して軍事指揮権と行政権・司法権を与えていた。カロリング家はカール・マルテルの時代から各地の伯に自らの忠実な家臣を送り込む努力を続けていたが、カールの時代にはこれがさらに大規模化・徹底され、各地の伯にはカールの忠実な家臣が送り込まれた。こうして伯は地方有力者が就く職からカールの地方官僚としての性格が強くなった。また、これによって地方の独自性が薄れ、制度の平準化と地域間の人材交流が促された。しかしカールの死後は世襲が進み、かえって地方の分権化をうながした。荘園経営の指針として荘園令を出したといわれる。さらに、伯の地方行政を監査するため、定期的に巡察使(ミッシ・ドミニ)を派遣するなど、フランク王国の中央集権化を試みている。しかし征服されたとはいえ、ザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な部族法があり、カールのしばしば発した勅令にもかかわらず、王国の分権的傾向、社会の封建化の進行を完全に抑えることができなかった。カールの宮廷そのものが、1箇所に留まらずに常に国内を移動していた。主な宮廷は794年にアーヘンに築かれていたものの、アーヘンのほかインゲルハイムやネイメーヘンなどにも宮廷を築いた。それは、絶えず領内を移動して、伯との接触を確保する必要があったからであり、また、道路の整備も不充分で、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段がなかったためでもあった。父と共に遠征した南西フランスのアクイタニアでは土着貴族の勢力が強かったため、息子ルートヴィヒをその地の伝統にしたがって育て、まずはアクイタニアの王としたことにもカールが集権化に苦慮したことがあらわれている。他に道路を改修して交易を保護したり、銀を通貨とする貨幣制度を定めるなどの施策をおこなった。外交面では、東方の大国であるアッバース朝とは数度の使節を交換し、友好関係を保っている。内政においてカールは、アインハルト(エギンハルドゥス)やアングロ・サクソン人で宮廷付属学校の校長となったアルクィン(アルクィヌス)、スペインの、イタリアからはピサのペトルスやパウルス・ディアコヌスなど内外から高名な学者や知識人、修道士を宮廷に招聘し、一般にカロリング朝ルネサンスと呼ばれるラテン語の教育に基づく文化運動を企図した。カロリング小文字体が基準の書体として採用され、王国全体で使用されるようになった。カールは800年11月、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサに列席するため、長男カール(少年王)、高位の聖職者、伯、兵士達からなる大随行団をしたがえ、イタリアへ向かって5度目のアルプス越えをおこなった。ローマから約15kmのところでカールはローマ教皇レオ3世より直々の出迎えをうけた。そして、サン・ピエトロ大聖堂まで旗のひるがえる行列の真ん中で馬上にあって群衆の歓呼を浴びつつ進むと、レオ3世はカールを大聖堂の中へ導いた。800年12月25日の午前中のミサで、ペトロの墓にぬかずき、身を起こしたカールにレオ3世は「ローマ皇帝」(神により加冠されし至尊なるアウグストゥス、偉大にして平和的なる、ローマ帝国を統治するインペラートル;serenissimus Augustus a Deo coronatus, magnus pacificus Imperator Romanorum gubernans Imperium)として帝冠を授けた。この時、周囲の者は皆「気高きカール、神によって加冠され、偉大で平和的なるローマ人の皇帝万歳」と叫んだという。レオ3世は前年の799年に反対派に襲われ、カールの下に逃げ込んだことがあった。カールの戴冠はレオ3世を助けたことへの報酬でもあり、教皇権の優位の確認でもあり、東ローマ帝国への対抗措置でもあったのである。ただし、この「戴冠」についてはレオ3世とカールとの間には認識の差があり、アインハルトは「もし、前もって戴冠があることを知っていたら、サン・ピエトロ大聖堂のミサには出席しなかっただろう」というカール自身の言葉を伝えている。コンスタンティノポリスの東ローマ帝国は、皇帝の称号を名乗るためには東ローマ皇帝の承認が必要であることを強硬に主張していたし、それは西欧世界においても伝統的な認識であった(そもそも、ローマ教皇が皇帝を任命するという慣習はそれまでには全くなかった。また古代の東西ローマ分割時代は、東西の皇帝は即位時に互いの帝位を承認し合っていた)。その意味で、カールの戴冠は東ローマ側から見ると皇帝称号の僭称に過ぎないと見なされた。そこでカールは自らの皇帝称号を東ローマ側に承認させるための皇帝補任運動を繰り広げた。カールは自身が東ローマの女帝エイレーネーと結婚することによって皇帝の称号を正式のものとするといった奇策も考えたが、これは実現することはなかった。東ローマ帝国では当初カールの皇帝権を容易に承認しようとはしなかったが、エイレーネーの死後の812年にようやく両者の間で妥協が成立し、東ローマ皇帝ミカエル1世はカールの帝位を認め、代わりにカールは南イタリアの一部と商業の盛んなヴェネツィアを東ローマ領として譲り渡すことを承認した。ただ、この時にも東ローマ側としてはローマ皇帝(ローマ人の皇帝)はコンスタンティノポリスの東ローマ皇帝のみであるとしており、カールにはローマ皇帝ではなく、フランクの「皇帝」としての地位しか認めていない。これは後の第一次ブルガリア帝国の皇帝シメオン1世などに対しても同様である。西欧的立場から見るならば、これまでは地中海世界で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝に対し、西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したことは大きな意味を持っており、ローマ教会と西欧は東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。このことは西欧の政治統合とともに、ローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる一つの文化圏の成立を象徴することでもあり、また世俗権力と教権の二つの中心が並立する独自の世界の成立でもあった。カールは「兄弟間の連帯による統一というフランク的な王国相続の原理」に従い、806年に「国王分割令」(ディヴィシオ・レグノールム)を定め、嫡男のカール少年王・次男のランゴバルド分国王ピピン・末子のアクイタニア分国王ルートヴィヒを後継者とした。しかし、810年にピピンが、翌811年にはカール少年王が父に先立って没したため、813年に残ったルートヴィヒを共同皇帝とし、翌814年1月28日、アーヘンにおいて71歳で死去した。カールの遺体はアーヘン大聖堂に埋葬され、遺骨は今も特別の神殿に保存されている。カールに招聘された学者で伝記作者でもあったアインハルトによれば、小太りの長身(約195cm)でふさふさとした銀髪をもち、声は少し甲高かかったという。馬術、狩猟、水泳などに長じており、特に水泳はアーヘンの宮廷に大きな温泉プールを設けるほど愛好したが、誰もカールの右に出るものはいなかったほどであった。プールでは一族や従臣とともに泳いだが、その数は100人に達することもあったという。焼肉が大好物であったが、酔っぱらいが嫌いで酒はあまり飲まなかったという。また、文字の読み書きはできなかったという。カールはしばしば"KAROLUS"の7文字を組み合わせて署名したが、自身では中央の菱形だけしか書いていないといわれる。ただし、夜な夜な石板に手習いをしたエピソードは有名で、ラテン語は自由に話せるほどに熟達し、ギリシア語も聞いてわかる程度にはなった。食事中は好んで歴史書を読ませたが神学者アウグスティヌスの著作も好み、『神の国』は何度も読ませたという。服装は簡素で、麻の下着と絹のふちどりをしたチョッキとズボンでできたスーツがお気に入りで、スーツの上に革製のゲートルをつけ、靴をはくという機能的なスタイルを好んだ。儀式のとき以外はローマ風の正装は好まなかったといわれる。カールの言葉にがある。カールとルートヴィヒは動物飼育に熱中したという記録が残っている。797年にはアッバース朝のハールーン・アッ=ラシードからアブル=アッバースという名のゾウ1頭と何匹かのサルを贈与され、9世紀初頭にはアフリカのイスラム政権アグラブ朝から、ライオンとクマを贈られている。宮廷付属庭園には、これら珍獣とともにヨーロッパ産のシカ、ノロジカ、ダマジカなどの哺乳動物や、クジャク、キジ、キジバト、ヤマウズラ、カモなどの鳥類が集められていた。また、カールはフランスのトランプではハートのキングのモデルとされている。カール大帝の戴冠は、ヨーロッパ中世世界を決定づけたが、以下のような説がある。ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌは、「マホメットなくしてカールなし」というテーゼを唱えている。これは、西ヨーロッパと呼ばれる地域の成立、つまり古代世界から中世初期の世界への移行について、ムスリム勢力による地中海沿岸の征服により、商業地域として閉ざされたことによって、古代の経済生活や古代文化の名残の多くが消滅したという指摘であった。すなわち、中世ヨーロッパ世界の成立は、ムハンマド(マホメット)を嚆矢とする8世紀のイスラム勢力による地中海制覇の結果であり、東ローマ帝国とも対立することで西ヨーロッパに閉ざされた世界が現れたとして、古代地中海文化と中世文化の断絶を強調しているのである。この学説は歴史学会に大きな衝撃を与え、賛否両論が巻き起こったが、いまだその正否については結論が出たとはいえない。家庭生活では5回結婚し、そのうえ4人の第二夫人がいた。生まれた子は約20人。カールは容易に娘たちの結婚を承諾しなかったため、娘たちは勝手に結婚したりしてスキャンダルを引き起こしたりしている。一説によればカール大帝が娘を寵愛し、娘たちと近親相姦の関係があったからという説もある。また妹ギスラとも関係を持ち、勇将ローランはカール大帝と妹の近親相姦で生まれたという伝説が中世において流布した。最初の妻はヒミルトルーデ(素性未詳)、770年に離婚。770年12月25日、ランゴバルド王デシデリウスの娘デジデリアと結婚、771年に離婚。子供はいない。771年、アレマニア大公家の血を引くヒルデガルド(783年没)と結婚。784年、チューリンゲン大公家に連なる伯ラドゥルフの娘ファストラダ(794年没)と結婚。794年、ズントガウ伯ルイトフリト2世の娘ルイトガルド(800年没)と結婚。子供はいない。妾ゲルスヴィンデとの間に娘が1人いる。妾マデルガルトとの間に娘が1人いる。妾アマルトルートとの間に娘が1人いる。妾レジナとの間に息子が2人いる。妾エセリンドとの間に息子が2人いる。
出典:wikipedia
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