名鉄6000系電車(めいてつ6000けいでんしゃ)は、名古屋鉄道(名鉄)が1976年から運用している電車である。第二次世界大戦後の名鉄では初となる本格的な通勤用の電車として登場し、1977年には鉄道友の会よりブルーリボン賞受賞車両に選出された。4両編成と2両編成という2種類の編成が登場したが、4両編成は1984年からは制御方式を一部変更するとともに接客設備を一部改善した6500系としての増備に移行し、2両編成も1987年から制御方式を一部変更した6800系としての増備に発展、1993年に後継車両として2代目3500系が登場するまで増備が続けられた。本項では、6000系・6500系・6800系の3形式についてまとめて記述する。名鉄の社内では5000系以降の高性能車について「SR車」と呼称していることに倣い、本項でもそのように表記するほか、6800系は名鉄の社内では「6000系11次車 - 16次車」「6000系6800番台」などのように6000系の一部として扱われることもあるが、本項では「6800系」という表記に統一する。また、特定の編成について記す場合は、豊橋向きの先頭車の車両番号をもって編成呼称とする(例:豊橋向き先頭車の車両番号がク6001の編成であれば「6001編成」)。名鉄では1951年(昭和26年)に3850系を登場させて以来、木造車体の車両を鋼体化した一部の形式を除けば2扉のクロスシート車を導入し続けており、特に1961年(昭和36年)に7000系を登場させてからは1972年(昭和47年)に至るまで7500系・7700系を含むパノラマカーのみを増備し続けていた。自家用車(マイカー)の普及率が高いといわれる愛知・岐阜県下を走る名鉄にとっては、マイカー対策として冷房付きクロスシート車の導入が必要と考えられていたのである。1960年代後半になると、名古屋都市圏における朝夕ラッシュ時の混雑は激しくなり、名鉄でも1967年(昭和42年)からは犬山線においてもラッシュ時に8両編成での運行が開始されていた。そうした状況においても、当時名鉄の社長であった土川元夫は財務的現状からも輸送力増強には旧型車両の鋼体化が最適としており、名鉄の社内から「通勤輸送にまとまった投資を行い、通勤用の新車を作ってはどうか」という意見が出た際にも「それは不経済車である」として、パノラマカーを列車体系の中心として「クロスシートに座って通勤」という理想像を変えようとしなかった。しかし、1973年(昭和48年)のオイルショック以降は鉄道を利用する通勤者が急増し、ラッシュ時には本社の管理部門からも主要駅に人員を派遣して乗客を車内に押し込む有様で、しかもそれでも積み残しが出てしまう始末で、乗客からの苦情も多かった。もはや、7000系をはじめとする2扉クロスシートのSR車のラッシュ時運用は限界であった。そうした状況が続くに至り、名鉄もクロスシート指向からの方針転換を余儀なくされ、1975年(昭和50年)には東京急行電鉄(東急)から3扉ロングシート車である3700系電車を購入して3880系として運用するようになった。3880系は通勤輸送の3扉ロングシート仕様車のラッシュ時における収容力の高さを実証することになった。こうした状況下、名鉄は1975年(昭和50年)に入り、本格的通勤車両を製造することを決定した。しかし、営業・運転部門はロングシート車の導入を主張したものの、このような状況下においても名鉄の社内ではクロスシートにこだわる考え方が根強く、結局は「座席は後でも直せる」と営業・運転部門が折れ、3扉ではあるがクロスシート車として導入されることになった。このような経過を経て、名鉄の新造車両としては3550系以来約30年ぶりとなる3扉車として登場したのが本形式6000系である。6000系は4両編成で登場し、1978年からは2両編成も登場した。4両編成については1984年以降の増備を6500系に移行したが、その後も2両編成は6000系のままで増備された。1987年からは2両編成の増備を6800系に移行した。6000系・6500系は系列中に4形式が、6800系は系列中に2形式が存在する。本節では以下、6000系およびについて、登場当時の仕様を基本として記述し、増備途上での変更点と6500系・6800系については別途節を設けて記述する。更新による変更については沿革で後述する。編成については、編成表を参照のこと。先頭車は全長18,950 mm、中間車は全長18,830 mm、車体幅は2,730 mmである。車体は全て普通鋼製で、レール上面から床面までの高さは1,150 mmである。客用扉は幅1,300 mm・高さ1,808 mmの両開き扉を3箇所に配した。扉の窓を小型化することによって障害事故防止対策とした。6000系では先頭車と中間車の見付を合わせるため、先頭車の扉中心間距離を5,660 mm・中間車の扉中心間距離は6,190 mmとしたが、側面窓はパノラマカーと同様の固定窓(連続窓)で、厚さ3 mm+3 mmの複層合わせガラスを使用した。戸袋窓は設けられていない。前面は7700系類似の貫通型高運転台で、平面ガラスで構成されたパノラミックウィンドウとしたほか、貫通扉は防水構造とした。前面下部には標識灯(尾灯兼通過標識灯)と乗務員室への通気口が設けられ、周囲をステンレス化粧板で装飾した。前面の貫通扉上には半自動式の幕式行先表示器が設けられた。幕式行先表示器は列車種別と行き先を各々単独に操作できる構造で、種別10コマ・行き先駅名は50コマが収容可能である。しかし、名鉄の車両運用の都合上、全ての行き先を収容することは出来ないため、既存の行先板の使用を考慮している。車体の塗装デザインはスカーレット1色である。車内は車端部がロングシートで、客用扉の間はクロスシートとした。クロスシート部分は一方向き固定シートを、中央扉を境に車端方向を向くように配置した。通路の幅を広く確保するために座席の幅は825mmとし、無駄スペースを省くために通路側の肘掛も設けていない。座面の高さは床から座面先端部分までが390mmで、背もたれの高さは床から775mmとした。また、背もたれの傾斜は20度と、それまでの転換クロスシートよりも大きな角度をつけた。シートピッチは750mmである。ロングシート部分には、ビニール製の玉縁を入れることによって、1人あたりの着席区分を明確化した。車内通路には全長にわたって吊手を設置したが、ロングシート部分では吊手棒を設けてそこから吊るしているのに対し、クロスシート部分では天井の冷房装置のダクトカバーから直接吊り下げている。室内の配色は、天井が白色で側壁はクリスタル模様の化粧板とした。座席の表地の色はブラウンとし、シルバーシートの背もたれのみライトブルーとした。SR車は登場以来全車電動車方式であったが、6000系ではコストダウンを図るため、SR車では初めて電動車と付随車を1組とする「MTユニット」とした。それまでの名鉄の車両では、電動車と付随車を1組とした場合には豊橋側の車両が電動車であったが、6000系では制御装置や補助機器などの床下機器配置を他のSR車と揃えた結果、豊橋側の車両が付随車となった。他のSR車との混結も可能で、そのためのジャンパ栓や空気ホースも設けられているが、歯数比や運用目的の相違により運用上は他形式との混結は行わない。制御装置は、三菱電機製の主制御器であるABFM-204-15MDHA形で、名鉄ではCB-27C-55形と称している。1台の制御器で4基の電動機の制御を行う方式 (1C4M) の多段制御装置で、三菱電機製制御装置の採用は5200系以来である。制御段数は、力行が直列17段・並列8段・弱め界磁4段で、制動は17段である。主電動機については、東洋電機製造製の直流直巻補極補償巻線付電動機のTDK-8050A形が採用された。「MTユニット」としたことに伴い、主電動機の出力はそれまでのSR車の2倍の150kWとした。駆動方式は中空軸平行カルダン駆動方式で、歯数比は85:14=6.07である。制動装置(ブレーキ)については、発電ブレーキ併用のHSC-D形電磁直通ブレーキが採用されたほか、非常用として自動空気ブレーキを併設した。台車は、住友金属工業製のS形ミンデン式の空気バネ台車が採用された。この台車は7000系に使用されているFS384形台車を重荷重用としたもので、電動台車がFS398形・付随台車がFS098形で、いずれも基礎制動装置はクラスプ式(両抱え式)で固定軸距は2,100mmである。冷房装置は、10,500kcal/hの能力を有するRPU-3004形を1両につき3台を搭載した。また、混雑時にも十分な冷房効果が得られるように、ラインフローファンをク6000形・モ6300形では5台、モ6000形では4台、サ6100形では6台設けた。補助電源装置は、容量60kVAのCLG-326-N形電動発電機を装備した。1台で2両分の電源供給が可能である。集電装置はモ6200形・モ6300形にPT42-F3-M形菱枠型パンタグラフを設けた。連結器は先頭部分が「名鉄式自動解結装置」(M式自動解結装置)を装備した密着自動連結器で、中間は棒連結器である。6000系1次車は1976年12月から1977年2月までに、4両編成6本が製造された。6000系は1976年12月21日、朝ラッシュ時の津島線の列車から運用を開始、年が明けた1977年の正月には、座席指定制特急に運用される車両が不足したため、犬山線・常滑線などの特急。にも運用された。さらに同年1月10日からは、犬山線で朝ラッシュ時に最も混雑する列車に8両編成で運用されるようになった。この列車は、それまでは3550系とOR車を組成した8両編成で運用されていたが、それまでは5分から8分程度の遅れも珍しくなかったのに対し、6000系が投入されてからは遅延はほとんどなくなった。この年、6000系は鉄道友の会より第20回ブルーリボン賞受賞車両に選定された。3扉の通勤用車両でありながらクロスシートを採用したことが評価されたもので、鉄道友の会では「(ブルーリボン賞において)初の通勤形車両の受賞」としている。もっとも、そのクロスシートについては、背もたれ角度を大きくしたために「転換クロスシートより疲れない」とも評されたものの、座席幅の825mmという数字は2人がけの座席としては窮屈で、「名古屋名物一半」(1.5人がけという意味)とも揶揄された。1980年に増備された5次車からは、側面窓について開閉が可能な一段上昇窓に変更された。これは、省エネルギー対策の一環として、冷房の使用時期を短縮するためのものである。導入と同時にラッシュ時輸送効果を発揮した6000系は、その後も毎年増備され、特に犬山線には6000系8両編成が集中的に投入された。1981年春には合計両数は102両となり、1984年までには合計140両となり、名鉄で最大両数の形式となり、複雑だった運用の合理化にも貢献した。6000系はさらなる増備を要求されていたが、1984年頃になるとモデルチェンジが検討されるようになった。特に、他の鉄道ではチョッパ制御による回生ブレーキが広く使用され、安定した実績をあげていたことから、名鉄でも回生ブレーキを導入が検討されることになった。こうした環境下で、名鉄で初めて回生ブレーキを使用した車両として6500系が1984年に登場した。この6500系では正面が非貫通となり、車体構造も一部変更されたほか、窮屈だったクロスシートについても寸法を見直して居住性の改善を図った。なお、2両編成については必要数に達していない上、閑散線区では回生ブレーキが有効ではないという理由により、2両編成は車体のみ6500系と同一スタイルとした6000系として増備が継続された。その一方で、更なる混雑緩和対策として、6000系のロングシート化改造が開始されることになった。6001編成が1985年12月にロングシート化されたのを皮切りに、1990年3月までに1次車から8次車までの全車両がロングシート化された。また、6500系と6000系9次車以降は客用扉上部をライトグレーに塗装していたが、1985年11月から1986年12月までに1次車から8次車までも同様に客用扉上部をライトグレーに塗装した。なお、1987年7月には平田橋駅近辺で踏切事故によってク6035が大破、翌年3月に車体を新造して復旧した。6000系は1985年まで増備され、6000系は2両編成・4両編成とも26本となった。6500系登場後も2両編成は6000系のままで増備されていたが、保守軽減と省エネルギーを図るため、1987年からは2両編成の増備は6800系によって行われることになった。6800系は6500系と同様に回生ブレーキを装備するが、制御方式は6500系とは異なり、界磁添加励磁制御を採用した車両である。車体は6500系と同様である。1989年には名古屋で世界デザイン博覧会の開催や金山総合駅の開業もあり、輸送量増強が行われることになった。これに伴い6500系と6800系が増備されたが、この時の増備車からは車体構造が大幅に変更された。1991年からはラッシュ対策を第一に考えることになり、同年に製造された6800系5次車からは「文字通りの通勤車」として、はじめからオールロングシートで製造されることになった。1992年に増備された6500系・6800系もオールロングシートで製造された。ここで6500系・6800系とも増備は終了となり、6500系は4両編成24本、6800系は2両編成39本となった。なお、5次車以降の車両については猛暑を契機として冷房能力を増強することになり、1993年8月の6034編成を皮切りに12,500kcal/hの能力を有するRPU-3061形冷房装置への交換が開始された。また、同年10月からは順次、この年に登場した3500系と同様に客用扉上部をダークグレー塗装に変更を行った。1995年には輸送需要が増大した瀬戸線へ6000系を投入することになり、5次車から7次車までの車両から2両編成8本が瀬戸線に転属した(表中黄色の編成)。瀬戸線への転属にあたっては、貫通路の整備(幌枠設置)と非常用はしごの搭載、座席モケットの不燃化対応、M式自動解結装置の撤去などが行われたほか、客用扉はスカーレット1色に戻された。さらに、瀬戸線の喜多山車庫のピット延長が行われたことに伴い、それまで2両編成を2本連結して4両編成としていたものが、4両固定編成の運用も可能となったことから、1996年には5次車・8次車までの車両から中間車2両6組を瀬戸線に転属させ、6本を4両編成化した(表中水色の編成)。2000年にはさらに4両編成1本と中間車2両2組が転用され、残る2本も4両編成化された(表中緑色の編成)。なお、転属した中間車は先頭車にあわせて改番されている。初期車の竣工から20年が経過した1997年からは、特別整備が開始された。特別整備では車体補修や化粧板や床面の交換などのほか、乗務員室後方への車椅子スペースや扉開閉チャイムの設置・側面行先表示器の設置が行われた。この改造は1997年 - 2002年までに6000系初期車グループの全編成、2011年に6500系6504編成がそれぞれ施工され、2014年以降は6000系中期車グループのうちの三河ワンマン対応の2両編成を対象に、前面方向幕のLED化や内装のなどを中心としたリニューアル工事が開始されている。なお、1995年には6500系の6504編成・6510編成・6513編成・6516編成・6517編成、6800系の6804編成についてロングシート化改造が行われた。また、1996年8月にはモ6246を使用して、シングルアーム式パンタグラフの試験が行われた。同時期には本線系のスピードアップに対応するため、1996年より6500系、6800系の営業最高速度が110km/hへと引き上げられた。1998年6月からは西尾線の末端区間(西尾駅から吉良吉田駅までの区間)・蒲郡線においてワンマン運転を実施することとなり、6000系のうち2両編成の6009編成から6013編成までの5本に対して、ワンマン運転に対応するための改造が行われた。改造内容は、ワンマン用扉開閉スイッチの設置とそれに伴う扉開閉回路の変更、デッドマン装置・自動案内放送装置・整理券発行機・自動両替機付運賃箱の設置を行ったほか、客用扉の脇には「ワンマン入口」「ワンマン出口」「締切」と表示する発光ダイオード式の (LED) 扉扱い表示器を設けた。なお、この5編成については、ワンマン化改造と同時に前述の特別整備も行った。その後、2008年6月広見線の末端区間(新可児駅から御嵩駅までの区間)がワンマン化された際にも、これらの編成を使用している。また、2001年10月からは、三河線の知立駅から猿投駅までの区間においてワンマン運転が実施されることになったため、4両編成の6001編成から6003編成までの3本と、2両編成のうち6020編成・6021編成・6034編成・6037編成から6044編成までの11本に対してワンマン化改造が行われた。改造内容はワンマン用扉開閉スイッチの設置とそれに伴う扉開閉回路の変更、デッドマン装置・自動案内放送装置の設置などであるが、この区間のワンマン運転では駅集中管理システムによって無人駅でも自動改札機が設置されたため、整理券発行機・自動両替機付運賃箱・扉扱い表示器は設置されていない。また、2両編成の前面貫通路については外部から開閉可能とし、手すりにロープをかけられるようにして、2編成を併結した際の安全性を高めたほか、ホームセンサシステム導入によって車両限界と建築限界の間が狭まるため、開閉式の窓の車両については窓下部に保護棒を設置した。2006年には三河線の知立駅から碧南駅の間でもワンマン運転が行われることになったため、4両編成の6015編成から6017編成の3編成について同様の改造を行った。一方、当時の瀬戸線の電車はすべての車両が抵抗制御で回生ブレーキのない車両であり、車両の近代化が急務となった。また、喜多山検車区が移転した尾張旭検車区には車両塗装のための設備は設けられなかった。このため2008年からは6600系以来30年ぶりの新車として4000系が導入されることになった。この4000系によって、瀬戸線の車両は全車両が置き換えられることになり、2011年3月26日のダイヤ改正では運用車両減少による余剰車両が発生したため6032編成が廃車となった。これが6000系では初の廃車となった。その後も4000系に置き換えが続き、2014年4月6日に6035編成による「さよなら運転」が行われ、瀬戸線の6000系は全廃となった。ここでは1996年時点(鉄道ピクトリアル 通巻624号 外山勝彦『名古屋鉄道現有車両編成表』 (1996) p.228)の車両番号を記載する。
出典:wikipedia
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