碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本の峠である。標高は約 960 m。信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺である。峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。古代には碓氷坂(うすひのさか)、宇須比坂、碓日坂などといい、中世には臼井峠、臼居峠とも表記された。近世以降は碓氷峠で統一されている。「碓井峠」「碓水峠」は誤表記。1200 万年ほど前には現在の碓氷峠は海中にあり、クジラやサメなどが生息していた。700 万 - 200 万年前には碓氷川上流地域で噴火活動があり、110 万 - 65 万年前の溶岩噴出で碓氷峠付近は平地となった。その後、30 万 - 20 万年前に霧積川によって東部で侵食があり、急な崖が形成された。以上のような経緯から、地層は下部が第三紀中期の海生堆積岩類、上部が後期中新世から前期更新世の火山岩類で構成されている。下部の堆積岩層は泥岩、砂岩、凝灰岩などで侵食されやすい。また、上部の火山岩層の厚みは数百メートルに達する。東部が激しく侵食された結果、現在の碓氷峠は直線距離で約 10 km の間に標高差が 500 m 以上に達する急峻な東側のみの片勾配となっていて、群馬県側の麓・横川の標高 387 m に対し、長野県側の軽井沢は標高 939 m と峠 (960 m) との標高差がほとんどない。特に、中仙道を例に取ると坂本宿から刎石山までの水平距離 700 m の間に標高差が 300 m もある。そのため一般的な、山脈をトンネルで抜けることで峠越えの高低差を解消できる両勾配を持つ峠と異なり、通行には近代に至るまで数多くの困難を抱えた。気象学的にも、碓氷峠は関東地方と中部地方の境界にあたる。日中、関東地方南岸では大規模な海風(太平洋海風)が生じて、およそ 5 m/s で大気が内陸に向かって進む。一方で中部地方内陸部では上空に低圧部が現れ、谷から山頂に向かう風が生まれる。午前中は碓氷峠にこれら二つの流れが両側から向かってきて、峠では風が真上に向かって平衡状態となる。午後になると地表面の温度が高くなって双方の勢いが増すが、関東地方からの流れがより強くなるため南東風が吹き、関東地方の大気が中部地方に流入する経路となる。なお夜間には海風が支配的となって南東風が続く。また、山を登る空気は気圧が低くなるとともに膨張して温度が下がり、飽和した水蒸気が霧となるため、関東平野から碓氷峠を登って流れ込む南東風が原因となって軽井沢では年間 130 日以上も霧が発生している。植生は付近にあって標高の近い浅間山山麓部分と似ており、ブナやコナラなどの落葉樹、およびモミやカラマツといった針葉樹が生えている。下草としてはゼンマイやススキ、リンドウ、ニッコウザサなどがある。浅間山との違いとしては、ムラサキやシモツケソウ、モウセンゴケが多いことが挙げられる。一帯には古くからニホンザルが生息しているが、1980年代から人里に降りてきて農作物などに被害が出るようになり、1984年には碓氷郡松井田町(当時)など 3 町で計 2,000 万円以上もの被害があった。その原因としてはなどが指摘されている。上信越自動車道の開通後は交通量の減った国道18号への出没も増え、1990年代末以降は碓氷峠を拠点に軽井沢の中心部にも出現している。古来より坂東と信濃国をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。この碓氷坂および駿河・相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んだ。『日本書紀』景行紀には、日本武尊(ヤマトタケル)が坂東平定から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の弟橘媛をしのんで「吾妻(あづま)はや」とうたったとある。なお『古事記』ではこれが足柄坂だったとされ、どちらが正しいかという論争が存在する。現在でも碓氷峠を境にして、東側が関東文化圏・関東方言に、西側が中央高地文化圏・東海東山方言に分かれている。碓氷峠の範囲は南北に広いが、その南端に当たる入山峠からは古墳時代の祭祀遺跡が発見されており(入山遺跡)、古墳時代当時の古東山道は入山峠を通ったと推定されている。7世紀後葉から8世紀前葉(飛鳥時代後期 - 奈良時代初期)にかけて、全国的な幹線道路(駅路)が整備されると、碓氷坂にも東山道駅路が建設された。入山遺跡はこの時期までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路は近世の中仙道にほぼ近いルートだったとする説が有力視されている。なお、万葉集にみえるように防人たちにとっては故郷との別離の場となっていた。平安時代前期から中期頃の坂東では、武装した富豪百姓層が国家支配に抵抗し、国家への進納物を横領したり略奪する動きが活発化した。これら富豪百姓層を「群盗」と見なした国家は、その取締りのため昌泰2年(899年)に碓氷坂と足柄坂へ関所を設置した。これが碓氷関の初見である。碓氷関は天慶3年(940年)に廃止され、中世に何度か復活した。古代駅路は全国的に11世紀初頭頃までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路も同時期に荒廃したとされている。その後、碓氷峠における主要交通路は、旧碓氷峠ルートのほか、入山峠ルート・鰐坂峠ルートなどを通過したと考えられているが、どのルートが主たるものであったかは確定に至っていない。中世には碓氷峠付近の主要道は現在の大字峠(地図中の旧碓氷峠)を通るようになった。この峠には熊野皇大神社(碓氷峠熊野神社)があり、同神社正応5年4月8日(1292年5月3日)紀の鐘銘から、この頃までには大字峠の道が開設されていたといわれる。入山峠を通る古道よりも坂本付近などが峻険で通りにくかったが、そのため防備に優れていたとされる。応永30年(1423年)の国人一揆や永享12年(1440年)の結城合戦では、碓氷峠は信州からの侵攻を防ぐ要衝となっていた。永禄4年(1561年)に長尾景虎が小田原城の後北条氏を攻めた際に武田信玄が笛吹峠に出陣し、信玄は碓氷峠からの進出をその後数回にわたって行ない、永禄9年(1566年)には箕輪城の攻略に成功して上野国へ進出した。天正18年(1590年)の小田原征伐の際、豊臣秀吉は前田利家らの北国勢を碓氷峠から進軍させている。江戸時代には中山道が五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされた。碓氷峠は、関東と信濃国や北陸とを結ぶ重要な場所と位置づけられ、峠の江戸側に関所(坂本関)が置かれて厳しい取締りが行われた。峠の前後には坂本宿・軽井沢宿が置かれ、両宿場間の距離は2里26町(約10km余)であったが、峠頂部の熊野神社の標高が1200m、坂本宿の京都口が標高460mであるから、その標高差は740mもあり通行者の大きな負担になっている。特に刎石(はねいし)はつづら折れの急坂のうえ落石も多く、峠道最大の難所である。なお、坂本から熊野神社までの旧中山道ルートの現在は、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された日本の道100選のひとつとして1986年(昭和61年)に選定を受けている。ただし、古道はその後も活用されており、たとえば難所の碓氷峠を避けることができる鰐坂峠ルートは「姫街道」「女街道」と呼ばれていた。この道は本庄で中山道本道から分かれて藤岡・富岡・下仁田を経由し、鰐坂峠(和美峠付近)を経て信州に入り、追分宿付近で本道と合流していた。しかし、こちらも難所であることに差はなかったといい、本道と同様に西牧関所が置かれていた。天明3年(1783年)の浅間山噴火では 3 尺 (90 cm) 以上の砂が積り、碓氷峠往還は 8 日間にわたって通行不可能になっている。碓氷峠は中山道有数の難所であったため、幕末の文久元年(1861年)に和宮が徳川家茂に嫁ぐために中山道を通ることが決まった際に一部区間で大工事が行われ、和宮道と呼ばれる多少平易な別ルートが開拓された。なお、約3万人の和宮一行は同年11月9日(1861年12月10日)に軽井沢を発って碓氷峠を越え、翌10日(1861年12月11日)に横川に宿泊している。明治に入ってもその重要性は変わらず、1882年に従来の南側に新道が作られ、1886年には馬や車での通行が可能となった。「碓氷新道」と呼ばれたこの新道は国道18号(の旧道)にあたり、坂本宿からその後碓氷湖が作られたあたりまではおおむね和宮道(正しくは、(明治天皇)御巡幸道路であり、和宮道は、熊野神社北側から子持山の南西あたりまでをいう)を踏襲し、そこから西側は中尾川に沿って全く新しいルートとされ、軽井沢宿と沓掛宿の間で旧道と合流するものであった。新道の碓氷峠は、中山道旧道の碓氷峠(新道開通後は旧碓氷峠と呼ばれている)から南に 3 km ほどの場所に移動した。この結果、碓氷峠越えの道は 3 km 長くなったものの平均勾配が半分以下に低減された。その後「旧軽井沢」と呼ばれるようになった地区は中山道旧道に沿った場所で、軽井沢駅周辺は明治時代に開発された新道沿いにあたる。なお、1878年には明治天皇が北陸巡幸に出かけ、9月6日に碓氷峠を越えている。大正以降はトラックなどの往来も盛んになり、失業対策も兼ねた公共事業の一環として1932年から翌年にかけて拡幅および一部舗装工事が行なわれ、これを記念した石碑が県境に残っている。なお、第二次世界大戦中には牛や馬の峠越えによる物資の輸送も行なわれた。国道18号の碓氷峠の区間は、1956年(昭和31年)から拡幅や改良・舗装工事が進められていたが、カーブが 184 個もあることなどから限界があり、交通需要の高まりに応えるため1971年に国道18号のバイパスである有料道路の碓氷バイパス(入山峠を通る、かつての古東山道のルート)が開通した。碓氷バイパスは2001年11月11日より無料化され、かつての中山道はハイキングコースとして整備された。1993年には上信越自動車道が開通したことから、1979年には交通量が 2,000 台/日あった明治時代の新道もその重要性は薄れつつある。なお上信越自動車道の建設に当たっては、同道路内で最長となる全長 1,267 メートルの碓氷橋が、碓氷川などをまたぐように架橋された。2005年の上信越自動車道の碓氷峠付近(群馬・長野県境)の交通量は以下の通りである。なお、2005年の国道18号の碓氷峠付近(安中市松井田町原甲)の交通量は平日が 2,016 台/日、休日が 4,129 台/日、2001年の碓氷バイパスの 1 日当たりの平均交通量は 10,235 台/日だった。1993年の予測では上信越自動車道、碓氷バイパスの交通量はそれぞれ 8,000 台/日、7,000 台/日になると見込まれており、実際の値はともにこれを上回っている。特に碓氷バイパスは1993年の交通量およそ 15,000 台/日からの半減が予想されたが、利用台数はそれほど減っていない。鉄道においても碓氷峠を越えることは早くから重要視され、上野駅-横川駅間が1885年に、さらに軽井沢駅 - 直江津駅間が1888年に開通すると当区間が輸送のボトルネックとなり、東京と新潟の間の鉄道を全線開通させることが強く望まれた。なお、1888年から1893年にかけては碓氷馬車鉄道という馬車鉄道が国道18号上に敷設されていたが、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていた。当初の機関車の能力では粘着式鉄道にて通過困難な勾配があり、スイッチバックやループ線などを設ける方法では対処できなかったためラック式鉄道を模索し、視察したドイツのハルツ山鉄道を参考にしてアプト式(アブト式)を用いることを提案した仙石貢と吉川三次郎のプランが採用された。この案では中山道沿いに線路を敷設するため資材や人員の運搬コストを低減できる一方で、最大で 66.7 ‰(= 。約 3.8 度)という急な勾配になる。なお、この際に鉄道建築師長のボーナルは和美峠や入山峠を通る 程度の勾配の案を提示している。1891年3月24日に起工したが、急勾配でアプト式のラックレールを用いるには列車の推進力を受ける道床に十分配慮する必要があった。ボーナルはその対策として、大きなスパンに従来よく使われていた鋼桁ではなくレンガ製のアーチを用いている。また、工事中の1891年10月に濃尾地震が起きてレンガ造りの建造物が倒壊したことを受け、橋脚に石柱を組み合わせたりレンガを縦に積むなどの地震対策が採り入れられた。このような技術が評価され、碓氷第三橋梁などの一連の橋梁、隧道などは1993年から翌年にかけて近代化遺産として国の重要文化財に指定されている。ただしアーチ部分の耐震性については効果は限定され、完成後の1894年6月の明治東京地震(マグニチュード=7.0)ではアーチにひびが入り、同年から1896年にかけてレンガを巻き立てる補強が行なわれた。このような経緯を経て、延長 11.2 km の間に 18 の橋梁と 26 のトンネルが建設され、着工から 1 年 9 か月後の1892年12月22日に工事が完了し、翌1893年4月1日に官営鉄道中山道線(後の信越本線)として横川 - 軽井沢間が開通した。碓氷峠を越えることから「碓氷線」、また横川と軽井沢から「横軽(よこかる)」とも呼ばれる。なお、当時の通常の蒸気機関車ではこの傾斜の登坂が困難であったが、その後技術の進歩により、京阪京津線は碓氷峠と同じ 66.7 ‰(約 3.8 度)、さらに箱根登山鉄道は 80 ‰(約 4.6 度)の勾配をラックレールなしで登坂している。トンネルの連続による煤煙の問題から、乗務員の中には吐血や窒息する者も現れ、1911年に横川駅付近に火力発電所が設けられて1912年には日本で最初の幹線電化が行われた。電化により碓氷線の所要時間は 80 分から 40 分に半減して輸送力は若干増強されたが、輸送の隘路であることは変わらず、「東の碓氷」は「北の板谷」、「西の瀬野八」などと並び、名だたる鉄道の難所として称された。1900年に大和田建樹によって作成された「鉄道唱歌」第 4 集北陸編では、碓氷峠の区間は以下のように歌われている。さらに『鉄道唱歌』と同じ年に作成された、現在の長野県歌である『信濃の国』も、6番において以下のように碓氷峠を歌っている。なお、アプト式はラック方式鉄道の一形式に過ぎず、ラック式鉄道をアプト式と呼ぶのは誤りである。太平洋戦争後は輸送隘路の解消のため最急勾配を 22.5 ‰(約 1.3 度)とする迂回ルートも検討されたが、最大 66.7 ‰(約 3.8 度)の急勾配は回避せず一般的な車輪による粘着運転で登降坂することになり、1961年に着工し1963年7月15日に旧線のやや北側をほぼ並行するルートで新線が1線で開通した。同年9月30日にラック式鉄道は廃止され、さらに1966年7月2日には、旧ラック式線の一部を改修工事する形でもう1線が開通し複線となった。これによって当区間の所要時間は旅客列車で 40 分から下り列車は 17 分、上り列車は 24 分に短縮された。しかし電車・気動車・客車・貨物を問わず単独での運転は勾配に対応できず、補助機関車として2両を1組としたEF63形を常に連結することとなった。勾配を登る下り列車(横川→軽井沢)を押し上げ、勾配を下る上り列車(軽井沢→横川)は発電ブレーキによる抑速ブレーキとなるという機能であった。そのために必ず勾配の麓側にあたる横川側に2両が連結された。最大66.7‰の急勾配という条件で峠の下側から本形式による推進・牽引運転を実施するため、非常ブレーキ動作時などに過大な自動連結器作用力(自連力)が発生し、連結器の破損や列車の座屈による車両の車体と台車の分離、浮き上がり脱線の予防、車両の逸走といった事故が発生するのを防止する目的で、当区間を通過する車両には以下の対策(通称:「横軽対策」)が必須とされた。また、指定された形式以外の車両、大物車、鋼木合造客車は通過を禁止されている。対策施工車両には識別のため車両番号の先頭に直径 40 mm の「●(Gマーク)」を付した。これらの制約は、当区間の粘着運転への切り替え直前に実施された165系電車9両編成とEF63形による下り勾配での試験運転で、非常ブレーキを作動させたところ機関車次位のクハ165形の軽井沢方にあたる車体後部が垂直座屈で浮上し、車体と台車が分離するという現象や上り勾配での客車牽引で縦勾配の変曲点で軽井沢方の台車が脱線する現象が発生したことに由来する。この結果、機関車と他の車両との間で発生する自連力の過大がもたらす悪影響が認識され当区間での被牽引対象列車に対する最大 8 両(系列によっては 7 両)までの連結両数制限と車種を問わず心皿脱出防止のため空気バネ台車装着車に対するパンクの義務化が決定された。前述の専用車両によるEF63形との協調運転システムの開発は、前者の制限を解消し輸送力不足を補う手段として開発されたものである。後者の対策は空気バネ台車の限界自連力が金属バネ台車に比べて著しく小さいため垂直座屈に弱い一方で空気バネをパンクさせてストッパゴムだけで車体を支持する状態にすると空気バネ有効時と比較して約6倍の限界自連力を得られることから実施されたもので、同様に貨物列車の車掌車についても推進運転時の坐屈問題から 1 段リンク式足回りをもつヨ3500形が限定使用された。電車では協調・非協調を問わず座屈による浮き上がり脱線予防策として車両重量のある電動車ユニットを峠の下側に組成することになり、新前橋電車区(現・高崎車両センター)・長野運転所(後の北長野運転所→長野総合車両所→現・長野総合車両センター)配置の165・169系が他車両基地配置車と逆向きの編成に組成されていたほか、後に松本運転所(現・松本車両センター)配置の115系1000番台(後に長野へ移管)・新前橋電車区配置の185系200番台も電動車ユニットの向きが本来と逆向きにされた。廃止に先立ち、1993年(平成5年)8月17日に、鉄道施設の一部を「碓氷峠鉄道施設」として国が重要文化財に指定した。碓氷峠の抜本的な輸送改善は、1997年の北陸新幹線高崎 - 長野間(この区間は2015年3月13日まで長野新幹線として営業)の開通によってなされた。その際、信越本線の碓氷峠区間(横川 - 軽井沢間)は、長距離旅客が新幹線に移行する反面で県境を越える即ち住環境を跨ぐローカル旅客数が見込めないことや、峠の上り下りに特別な装備が必要で維持に多額の費用がかかるとして、第三セクター鉄道などに転換されることなく廃止された。代替交通機関として横川駅 - 軽井沢駅間を片道34分で結ぶジェイアールバス関東小諸支店による碓氷線1日7往復の運行に移行した。北陸新幹線は碓氷峠北方にある碓氷峠トンネルを通過する。この区間は 30 ‰(約 1.7 度)の勾配が連続しているため、E2系などの勾配対策を施工した車両のみが入線可能である。新幹線開業後の1997年10月の高崎-軽井沢間の 1 日平均の乗車人員は上下方向で合計およそ 30,000 人・乗車率 68 % と前年同期に同区間を運行していた信越線特急・あさまと比べて約 12,000 人増加した。廃止の方針について、群馬県安中市の新島学園高等学校に長野県から通学する生徒の保護者を中心に廃止許可の取消を求める行政訴訟(取消訴訟)が前橋地方裁判所に起こされたが、裁判所は「(廃止の手続きを定めた)鉄道事業法は利用者個々の利益を直接保護するものではない」として原告適格を認めず、訴えを却下した。東京高等裁判所の控訴審、最高裁判所の上告審も前橋地方裁判所の決定を支持し、廃止の是非が司法の場で本格的に問われることはなかった。旧碓氷線の廃線部分 11.2 km のうち、群馬県側の約 10 km は碓氷郡松井田町(現・安中市)が買収しており、残り約 840 m についても北佐久郡軽井沢町に買取を陳情する動きがあった。廃線跡は廃止前と変わらない状態を保つように管理されており、かつての線路跡が遊歩道「アプトの道」となっている以外にも線路部分が多く残されている(遊歩道区間は、横川駅からアプトの旧線をたどり旧熊ノ平駅までとなっている。後節も参照)。架線や通信ケーブル等も現役当時のまま残っていたが、現在では横川方の上下線で盗難され現存しない。碓氷峠鉄道文化むらでは、横川駅側の廃線跡を利用して、かつて使われていた保守機関車500Aなどを走らせている。また、2017年には軽井沢まで延伸させる予定である。碓氷峠では明治以降だけでも多くの事故が起きている。1891年から1893年の線路の建設に当たっては、完成を急いだことなどから500名以上もの殉職者が生じている。また、1950年には熊ノ平駅で数回にわたる土砂崩れが起きて50名が亡くなった。勾配が極めて急なことから列車脱線事故もしばしばあり、例えば1963年10月16日にトンネル内で貨車が、1975年10月28日には電気機関車が脱線している(信越線軽井沢 - 横川間回送機関車脱線転落事故)。特に1975年の事故では機関車4両が10m下の県道斜面まで転落し、乗員3名が重傷を負った。また、被災した機関車4両も復旧不能で全機廃車となった。夏季は豪雨で国道18号が崩落することも多く、1979年8月12日には雷雨のため長さ 15 m、幅 2.5 m にわたって崩落して通行止めとなり、1992年8月29日には長さ 150 m, 幅 6 m にわたって道路北側の土砂が崩れた上に地盤が緩み、復旧に2か月を要している。この他、1969年には山火事で国道18号の 3 km の区間が通行止めとなったこともある。碓氷峠には、他の峠などと同様に豪傑の伝承などがある。古代では頼光四天王の1人、碓井貞光が有名であり、先祖が勅勘によって配流され碓氷峠に隠棲していたといわれる。中世から近世にかけては「灘田の左太夫」(なだたのさだゆう)の話が伝わっている。実在した土豪の佐藤氏が左太夫のモデルになったとされ、具体的な内容としてはなどがある。近代に入ると多くの文学者が訪れ、正岡子規は1891年の『かけはしの記』の中で、碓氷峠を馬車鉄道で越えた時の様子を描いている。大正時代には、北原白秋が『碓氷の春』という一連の和歌を詠んでおり、その一首を刻んだ歌碑が横川駅下のドライブインに存在する。また、頂上の熊野神社の境内には山口誓子や杉浦翠子が碓氷峠を詠んだ俳句の句碑がある。西條八十の詩・『ぼくの帽子』の冒頭には碓氷峠が登場し、森村誠一の『人間の証明』はそれを引用している。廃線区間の注意事項:遊歩道など開放された箇所以外の立入は禁止されており、許可がない立入は建造物侵入罪となる。特にアプト式時代のトンネルなどは経年から危険である。
出典:wikipedia
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