ベルトルト・コンラート・ヘルマン・アルベルト・シュペーア(Berthold Konrad Hermann Albert Speer、1905年3月19日 - 1981年9月1日)は、ドイツの建築家、政治家。アルバート・シュペーア、アルベルト・シュペールなどとも表記される。アドルフ・ヒトラーが最も寵愛した建築家として知られる。ヒトラー政権のもとでを務め、終身刑に処されたルドルフ・ヘス、および音楽指揮者アウグスト・クビツェクを除けば戦後を生きたナチ関係者の中で最もヒトラーと親しかった人物として知られる。1905年3月19日正午にドイツ帝国領邦バーデン大公国の都市マンハイムに生まれる。父はアルベルト・フリードリヒ・シュペーア(Albert Friedrich Speer)。母はルイーゼ・マティルデ・ヴィルヘルミーネ(Luise Mathilde Wilhelmine、旧姓ホメル(Hommel))。兄にヘルマン(Hermann)、弟にエルンスト(Ernst)がいる。父アルベルト・フリードリヒはマンハイムでも名の知れた裕福な建築家だった。祖父ベルトルトもドルトムントで成功した建築家で、彼がシュペーア家に財をなした。シュペーアが生まれた頃の一家は大変裕福であったので、第一次世界大戦で節約を迫られるまで自家用車を2台保有していた。この自動車はシュペーアの少年時代の技術的夢想の中心であったという。シュペーアはマンハイムの上級実科学校では数学で最優秀の成績をとった。そのため初めは数学者になることを夢みたという。しかし父の反対に遭い、父や祖父と同じく建築家の道を歩むことになった。地方の大学より中央の有名な大学で建築を学ぶ夢は1923年のハイパーインフレーションで断たれ、シュペーアはカールスルーエ工科大学に進学した。1924年、インフレが安定化した頃、より格の高い大学であるミュンヘン工科大学に転学した。1925年、彼はさらにベルリン工科大学に転学している。彼はこの大学で、有名な建築家で機能主義者であったハインリヒ・テセノウ()の指導の下で学んだ。シュペーアはテセノウを非常に尊敬しており、1927年に彼の試験を通った後は助手となり、テセノウのゼミで週に3日学生に講義を行うなどした。この時期、1928年、シュペーアは7年前に知り合ったマルガレーテ・ヴェーバーと結婚している。テセノウは決してナチズムに賛同しなかったが、彼の学生にはナチズムに賛同するものが多く、学生らはシュペーアにベルリンのビアホールで行われる党集会に行くよう勧めた。シュペーアは1930年12月のビアホールでの党集会に参加したが、後に、当時は若者の一人として政治にはあまり関心も知識もなかったと主張している。彼はこの時にヒトラーをはじめて見たが、党のポスターに描かれているような茶色の制服姿ではなく身なりのきちんとした青いスーツ姿で参加していたことに驚いた。シュペーアはこのときヒトラーの説く、共産主義の脅威やヴェルサイユ条約の破棄といった問題への解決方法に影響されたこともさることながら、何よりヒトラーという人物に強い影響を受けたと述べている。数週間後、シュペーアはまた党集会に出席したが、このときの司会はヨーゼフ・ゲッベルスであった。ゲッベルスが聴衆を逆上に追い込み感情を煽るやり方にシュペーアは嫌な思いをさせられたものの、ヒトラーから受けた強い印象を忘れることができなかったという。1931年3月1日、彼は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党した。党員番号は 474,481 であった。党内で数少ない自家用車の所有者として国家社会主義自動車軍団(NSKK)に入団した。1932年春に助手としての給料が下げられ、更に助手の期限が切れたのを機にシュペーアはテセノウの下を離れ、ベルリンからマンハイムに戻った。マンハイムで建築家として独立して仕事を始めた。しかし父親から回してもらった貸し店舗の改築ぐらいしか仕事はなかったという。1932年7月、ナチ党の選挙運動のためにベルリンへ赴いた際、ナチ党ベルリン大管区組織部長カール・ハンケ(シュペーアは彼の別荘の改築を無償で請け負った事があった)がベルリンの党大管区の建物の改修を計画していたベルリン大管区指導者ヨーゼフ・ゲッベルスにシュペーアの事を紹介した。これがシュペーアにとって重大な転機となった。シュペーアはこの仕事に熱心に取り組んだ。ゲッベルスはこの時期11月6日の国会議員選挙の選挙活動に忙しく、たまに視察に現れるぐらいであったが、改築作業が終わった後にはシュペーアに宛てて「非常に短い期間であったにもかかわらず、貴殿が改築を期限内に終わらせ、その結果すぐに新しいオフィスで選挙活動に邁進できた事を、我々は極めて心地よく感じている。」と書いて送っている。この仕事が終わった後、シュペーアはマンハイムに戻った。1933年1月30日のアドルフ・ヒトラーの首相就任もマンハイムで聞いた。1933年3月に宣伝大臣秘書官カール・ハンケから再びベルリンに招集され、宣伝大臣ゲッベルスの国民啓蒙・宣伝省の建物改修を任せられた。ゲッベルスはシュペーアの仕事ぶりに感銘を受け彼をヒトラーに紹介し、ヒトラーは彼のお気に入りの建築家である新古典主義建築家のパウル・トロースト()教授が行なっていた総統官邸(初代)の改修を手伝うよう命じた。シュペーアはヒトラーの依頼に応え、総統官邸のうちヒトラーが大衆の前に姿を見せるためのバルコニーを追加するという貢献を見せた。シュペーアはこうしてヒトラーの内輪の仲間の重要な一員かつ親しい友人となり、ナチ党の中でも独特の地位を得た。シュペーアによれば、ヒトラーは官僚的と見た人物には強い軽蔑を隠さず、一方でシュペーアのような芸術家の仲間たちには、彼自身がかつて建築や芸術への野心を持っていたためにある種の絆を感じたのか、非常に尊敬した態度を見せていた。こうした状況からシュペーアは、晩年人を遠ざけることが顕著になっていったヒトラーの素顔について一級品の証言を残している。1934年1月21日にトローストが死去し、シュペーアが党主任建築家の地位を引き継いだ。主任建築家となってからの彼に与えられた初期の仕事は、レニ・リーフェンシュタールの映画『意志の勝利』の舞台となり、彼の業績の中でももっとも有名なニュルンベルクの党大会会場()であった。自伝で彼は、最初のデザインではパレード会場がまるで「射撃祭り」()に見えてしまうと自嘲気味に語っている。彼は一からデザインを作り直し、党大会会場の設計図を完成させた。会場は古代アナトリアのヘレニズム期の建築、「ペルガモンの大祭壇」(ベルリンのペルガモン博物館に収められているもの)のドーリア式建築を参考とし、これを24万人を収容できる巨大な規模に拡大したものであった。1936年の党大会では、シュペーアはパレード会場を150基の対空サーチライトで囲み、夜間には垂直に照射して光の大列柱を作り出した。この「光の大聖堂」のヴィジュアルインパクトは今も語り草となっている。以後1938年まで毎年9月、この会場はニュルンベルク党大会のために使用された。シュペーアはニュルンベルクで他にもさまざまなナチ党の建築を計画したが、殆どは実現しなかった。例えば、オリンピックに代わる競技大会の会場となる、40万人収容のスタジアム、「ドイツ・スタジアム」()はその一例である。これら党建築の設計に当たり、シュペーアは「廃墟価値の理論(Ruinenwerttheorie)」を創案した。ヒトラーが熱烈に支持したこの理論によれば、今後新築されるすべての建築は、数千年先の未来において美学的に優れた廃墟となるよう建築されるべきだということであった。古代ギリシア・古代ローマの廃墟がその文明の偉大さを現代に伝えているように、ナチスドイツが残す廃墟は第三帝国の偉大さを未来にまで伝えるべきものであった。この理論から、鉄骨や鉄筋コンクリートによる建築よりも、記念碑的な石造建築が多く生み出されることとなった。1937年にはシュペーアはパリ万博のドイツ館を手がけた。この建物は、スターリン様式を代表する建築家ボリス・イオファンが手がけたソ連館の正面にあり、ソ連館よりも僅かに高い。両館はそのデザインにより金メダルを同時受賞している。1937年シュペーアはベルリン建設総監 ( für die Hauptstadt Berlin) に任ぜられ、ベルリンの再開発計画にも関与した。大ドイツの首都にふさわしくベルリンを改造するメガロマニアックな首都改造計画「ゲルマニア計画」である。ベルリン市街は、ブランデンブルク門や国会議事堂の西寄りに建設される、長さ 5km の巨大な南北軸()の大通りに沿って再編成され、巨大な新古典様式の政府機関ビルや大企業本社ビルが通りの両側に並べられ、北端には「国民ホール()」と呼ばれる大会堂が建つことになっていた。これはローマのサン・ピエトロ大聖堂の大ドームに基づく巨大ドーム建築であったが、高さ 200m 以上、直径 300m と、サン・ピエトロ大聖堂の17倍大きなドームが予定されていた。1939年4月のヒトラー50歳の誕生日前夜に東西幹線道路が開通し、シュペーアはヒトラーへの誕生日プレゼントとして、15年前にヒトラーがスケッチした凱旋門の模型を官邸に用意してヒトラーを喜ばせた。南北軸の南端には凱旋門が計画されたが、これもパリのエトワール凱旋門を基にしながらもさらに巨大なもので、高さは 120m となるはずだった。南北軸の大通りには、南側と北側に巨大な鉄道駅、「南駅」、「北駅」を設ける計画だった。また大通りはたくさんの車線を設けるために幅広く確保して、凱旋門より南へも 40km に渡り伸びる予定だった。これらの大建築の設計の一部には、ヒトラーが若いころに構想してデッサンに残した建築デザインが使用された。シュペーアの記述(シュパンダウ刑務所で書かれた回顧録)によれば、計画がすべて完成すれば8万軒の建物が立ち退きのために壊されると見られていた。シュペーアはこの計画のためにユダヤ人をベルリン市内の住宅から追放し、立ち退きに遭うアーリア人種をそこに住まわせようとしたという主張があるが、実際にシュペーアがそのような考えを持っていたか、ユダヤ人追放の責任があるかどうかについては議論がある。ゲルマニア計画の最初のステップは1936年のベルリンオリンピック会場(ヴェルナー・マルヒ () 設計)であった。またシュペーア自身はヴェルサイユ宮殿の鏡の間より2倍長い大ホールのある新総統官邸を設計した。シュペーアは多くの労働者に過酷な労働を強いて1年足らずで完成させ、その手腕にヒトラーは「わが天才」と称えた。ヒトラーはさらに大きい三代目の総統官邸を設計するよう要請したが、これはついに実現しなかった。ゲルマニア計画は1939年の第二次世界大戦開戦により中断され、以後再開されることはなかった。ヒトラーは壮大なゲルマニア計画に強い思い入れがあり、実現をベルリン陥落の迫る最期の時まで気にかけていた。新総統官邸は1945年のベルリン市街戦で大きく損傷し、戦後、占領軍であるソ連軍によって破壊された。南北軸は実現しなかったものの、ブランデンブルク門を基点とする東西軸()は着工しており、ティーアガルテンに街灯などが残存している。現在ティーアガルテンに建っている戦勝記念塔も、この計画のために国会議事堂前から移設されたものである。シュペーアには、同じくヒトラーお気に入りの建築家であるヘルマン・ギースラーという建築上のライバルがおり、二人は建築上の問題やヒトラーからの関心を惹くためにたびたび衝突していた。1942年2月7日にのフリッツ・トートが飛行機事故死した。シュペーアは後任の軍需相(正確には、1942 - 1943年兵器・弾薬大臣、1943 - 1945年軍需・軍事生産大臣)に就任する。はじめは門外漢であると固辞していたが、ヒトラーの熱心な要請に押される形で就任に至った。ヒトラーが若い彼を大抜擢したのは彼が過去の建築プロジェクトでみせた緻密な計画と組織経営力を兼ね備えた優秀なテクノクラートであったからと思われるが、シュペーア本人はヒトラーは指導的地位を素人で固める事を好み、ヒャルマル・シャハトのような専門家閣僚は好まなかったのが原因だろうと分析している。一般的に部品の共通化などの生産体制の効率を推し進め、軍需生産を増大させたのは全てシュペーアの功績であるように言われているが、実は彼が行った政策の殆どは前任者であるトートが既に考えていたものであった。しかしトートは、ヒトラーから政治的に全幅の信頼を寄せられていたシュペーアとは違い、政治的権力を持っていなかったため、各企業や省庁間などの利害関係の調整を纏めきれず、結果的にあまり成果を挙げることができないまま、事故死してしまう。後任のシュペーアは、ヒトラーの信頼というバックボーンを活かし、トートが立案していた部品の共通化などの実現に向け関係企業・省庁を纏めあげた。結果的に、生産体制の効率化を見事に達成しただけでなく、図らずも現在の経営工学に通じる斬新な理論を確立したという2つの大きな功績は、全て彼のものとなった。また、能率化、コストダウンを重視していたためV2ロケット、ドーラなど、ヒトラーが欲していた高コストで大きな破壊力を誇る兵器よりも小型で使い勝手のいい兵器を作りたがっていた。しかし、建築でこそヒトラーと対等に渡り合ってきたシュペーアであったが兵器に関しては全くの素人であったこともありヒトラーに押し切られてしまい、結局シュペーアの懸念が現実のものとなり新兵器開発計画は頓挫してしまった。そして初めてシュペーアはヒトラーに対し不満を覚えることになり、シュペーアは部下にヒトラーに対する愚痴をこぼしていたと、シュペーアの元部下のW.シェルケスは証言している。シュペーアはたびたび前線に視察に赴き前線の意見を軍備計画に反映させることにつとめた。大戦末期、シュペーアは資源の備蓄が底を尽き始めていることを政府幹部のなかで最も痛感している一人であった。1944年1月、シュペーアは心労と過労のため倒れベルリン郊外の病院で静養生活に入った。そこで彼はヒトラーに疎んじられているとの周囲の雑音に心痛し、ヒトラーに対して辞職を申し出た。辞職願を受け取ったヒトラーは驚きすぐさま病院へ使いを出し「君に嫉妬する者が、あらぬ噂を煽り立てているだけだ。私は決して君を疎んじてなどいない。頼りにしている。病を治し一日も早く復帰することを願っている」と手紙を書き送った。5月になるとシュペーアは心労から立ち直り、現場に復帰した。その頃、米英による軍需施設や生産施設、輸送機関に対する空爆作戦でドイツの生産能力は甚大な被害を受けていた。シュペーアは燃料工場の9割が破壊されたことを受けこの時初めて「将来の破局」という直接的な表現をつかいヒトラーを戒めた。しかし、シュペーアに限らず部下の悲観的意見には決して耳を傾けることがなかったヒトラーはこの報告を無視したため、シュペーアは従来どおりの仕事を続けざるを得なかった。1944年10月、イギリス軍やアメリカ軍を中心とした連合国軍によるドイツ西部侵攻が始まった。そしてその冬、ドイツ工業の心臓部ともいえるルール地方が連合国の激しい砲火によって壊滅した。シュペーアはルール地方を視察に訪れ、もはやドイツに戦争を継続し得るだけの能力がないことを確信し、これまでの「戦争に必要な物資をいかに生産調達するか」という方針から「いかに早く敗戦後のドイツが復興できるか」という方針に転換することを決意した。そのため国内の工場や産業をいかに戦火から守るかということに苦心したが、これはヒトラーら軍幹部の方針とは正反対であった。1945年に入りヒトラーは工場、企業、インフラストラクチャー施設などの破壊(焦土作戦)命令を下した。シュペーアはヒトラーのこの命令に対して激しく抵抗し、あの手この手でヒトラーにその非を直訴した。一度は翻意したヒトラーであったが結局焦土作戦は遂行され戦後ドイツ復興の足枷となった。この作戦が決行された時のシュペーアの様子について当時の部下は「こんなに激昂したシュペーアを見たことはいまだかつてなかった」と証言している。また、焦土作戦が決定されたことを受け、反逆罪を覚悟した上で、「3月18日までは戦況の好転に望みをつないでいました。しかしもうその望みは潰えました。ドイツ国民の生活基盤を破壊する破壊という手段を総統自ら行使しませんよう」とドイツを破壊するヒトラーを真正面から非難し焦土作戦の愚を書き連ねた信書をヒトラーに手渡した。しかし、ヒトラーは何もなかったかのようにその手紙のことについては不問とした。その後シュペーアは戦後復興を目指し戦後処理に向けた仕事をするためヒトラーとは別に行動するようになった。しかし4月23日、ドイツ北部から飛行機で総攻撃真っ只中のベルリン・首相官邸地下壕を訪問し、ヒトラーと会談した。その内容は、シュペーア自身は『緊急の目的』とだけ語り、誰にも詳細を明かすことはなかった。しかし、シュペーアの副官M・V・ポーザーは、シュペーア自身がヒトラーから後継者に指名されることを懸念し、ヒトラーに反対の意を直訴したのではないかと推測している。結局、これが二人の最後の面会となった。シュペーアはヒトラーの遺書の閣僚リストの中には入っていない。ベルリン脱出後、シュペーアはカール・デーニッツ海軍元帥の元に向かい、ヒトラー自殺後に後継指名されたデーニッツの政府で閣僚となった(フレンスブルク政府)。ドイツ降伏後、シュペーアはハンブルクのラジオ局から演説を行い、「今は敗戦を悲しむよりも復興のために働くべきだ」と訴えた。連合軍は政府の存在を認めず、5月23日にシュペーアは他の閣僚たちとともに逮捕された。ゲーリングが収容されていたルクセンブルクのモンドルフのパレス・ホテルに送られ、8月中旬までそこで過ごした。その後、他の被告らとともにニュルンベルク裁判にかけるためにニュルンベルク刑務所へと移された。ニュルンベルク裁判でシュペーアは全ての訴因(第一訴因「侵略戦争の共同謀議」、第二訴因「平和に対する罪」、第三訴因「戦争犯罪」、第四訴因「人道に対する罪」)において起訴された。刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート博士から起訴状の感想を求められるとシュペーアは「裁判は必要である。独裁国家の官僚制度のもとでも、このような恐るべき犯罪に対して共通の責任がある」と述べた。シュペーアは死刑を回避するには、ドイツの侵略・残虐行為や自分の責任を認めて懺悔し、それによってソ連を除く西側連合国の共感を得る必要があると考えていた。ギルバートもシュペーアの懺悔の態度に好感を持ち、「シュペーアは裁判が始まる前からナチ党政権を支持した罪を認めており、彼の『私はこの裁判で自分の命を救おうとは思っていない』という言葉は本心から出たもののようである」と書いている。この立場は検察側に頑強に抵抗したヘルマン・ゲーリングと対極的であったため、彼は注目を集める被告となった。また、シュペーアは逮捕された後、アメリカ戦略爆撃チームに貴重な情報を進んで提供した。シュペーアは、アメリカは公然とは認めないが、その情報を日本への空襲に役立てていると確信していた。そのため開廷間近の1945年11月17日には「私は適切な関係者にだけ明かすべき、軍事技術に関するある情報を持っております。ドイツ軍との空中戦で米軍の犯した過ち、二度と繰り返すべきではない過ちを知っているのは私だけです。いかなる産業であれ永久に操業できなくさせる方法も私は知っています。私をソ連の手に渡すべきではありません。私の知識は米国側に留めるべきです。私が死刑になった場合には、その知識が全て消滅してしまう事になります」という手紙をアメリカ主席検事ロバート・ジャクソンに宛てて書いている。裁判は1945年11月20日から開始された。シュペーアの法廷での席は後列右から3番目だった(左隣はザイス=インクヴァルト、右隣はフォン・ノイラート)。ギルバートの回顧によれば、検察が法廷で上映した強制収容所でのユダヤ人虐殺の記録映像にシュペーアはごくりと唾を飲み込んでいたという(一方、ゲーリングは退屈そうに欠伸していたという)。1946年1月3日には検察側証人として出廷したオットー・オーレンドルフに対してシュペーアの弁護士エゴン・クブショクが反対尋問を行った。クブショクが「シュペーアがヒトラーの焦土作戦を阻止するために行動していたことを知っていますか」と質問すると、オーレンドルフは「知っています」と答えた。ついで「終戦時にシュペーアがヒムラーを連合国に引き渡そうと考えていたことは知っていますか」と質問するとオーレンドルフは「そんな話は一度も聞いたことがありません」と答えた。さらに「1944年7月20日にヒトラーの暗殺を謀った者たちが政府にシュペーアを加えようとしていたことを知っていますか?」という質問にオーレンドルフは「それは知っています」と答えた。そして衝撃を呼んだのが次の質問だった。「シュペーアが戦争末期にヒトラー暗殺を計画していたことを証人はご存知ですか?」。法廷内にどよめきが広がり、被告席のゲーリングはシュペーアを睨んだ。オーレンドルフは「そのような計画は聞いたことがありません」と答えた。ここで休廷となったが、激怒したゲーリングはシュペーアの方に詰め寄り、「なんだってあんな反逆的な事を暴露した?被告人全体の共同戦線が崩れるではないか!」と非難した。シュペーアは「共同戦線ですって!?」と言ってゲーリングを突き放した。独房に戻ったゲーリングは「この嫌な世の中にも名誉というものがある。ヒトラーの暗殺だと!全くいい加減にしてもらいたいよ。私は穴があったら入りたいぐらいだった。私ならたとえ犯罪者ヒムラーであろうと敵に売り渡そうとは思わない。」と怒り心頭だった。翌日の昼食でもゲーリングは「敵が我々に対して何をしようと私は気にしない。だが同じドイツ人同士が互いに裏切るのを見ると胸糞悪い」と怒りを露わにし、顎でシュペーアを指しながら「あの阿呆にそのことを話してこい!」とフォン・シーラッハに命じた。シーラッハはシュペーアのところへ行き、「貴方がドイツの名誉に傷をつけていることをゲーリングが怒っている」と告げたが、シュペーアは「ゲーリングはヒトラーが全ドイツ人を破滅に導いている時にこそ怒るべきだった。ドイツのナンバーツーとして彼は手段を講じる義務があった。しかし彼はヒトラーに対して何もできない臆病者だった。すべきことをしないでモルヒネに溺れ、全ヨーロッパから美術品を略奪していただけの男が私を非難する資格などない」と反論した。以来ゲーリングとシュペーアは不倶戴天の敵となった。ゲーリングはシュペーアを全被告から孤立させようとしたが、シュペーアは逆にゲーリングの被告人統一戦線の破壊を目指した。刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート大尉に「被告人が一緒に食事や散歩をするのはいい考えではありませんね。こんなことを許しているからゲーリングが叱咤激励して被告人に統一行動をとらせることができるのです。」と告げ口し、刑務所長バートン・アンドラスにその件を報告させた。この結果ゲーリングは2月18日から一人で食事させられることになった。自分が証言台に立つ日が近づくとシュペーアは自分の反対尋問をするアメリカ次席検事に次のように語った。「ゲーリングと自分は争っています。ゲーリングは喧嘩腰で検察に反抗する側の代表、自分はナチスの罪を認める側を代表しているわけです。ゲーリングの反対尋問をしたのは主席検事のジャクソンでしたが、私に対しては彼の部下である貴方が反対尋問を行うそうですね。貴方には大変失礼ですが、この差を他の被告人が見逃すでしょうか。彼らの目には私がゲーリングより劣っていると映り、彼らを私の方に引き入れるのが一層困難になるのではないでしょうか」。ドッドはこれをジャクソンに報告し、その結果シュペーアの質問はジャクソンが行うことになった。ドッドはジャクソンより有能な検事と評判だったのでシュペーアはゲーリングとの対立を利用してジャクソンに変更させたのではないかと噂された。1946年6月19日からシュペーアの弁護側尋問が始まり、シュペーアが証言台に立つことになった。シュペーアはフレックスナー弁護士との事前の打ち合わせで労働力配置総監ザウケルに罪を着せようとしているという印象を判事団に持たれないようにしようと決めていたため、フレックスナーの「ザウケルによる労働力徴収に異議を唱えたか」という質問に対して「異を唱えるどころか、私はザウケルが提供してくれた労働者に関しては、常に彼に感謝していました。人手不足のために軍需生産の目的が達成できないことがしばしばあったので、そんな時には彼に苦情を言いました」と証言した。他方「ザウケルは自分はシュペーアのために活動したと証言しているが、それについて何か言いたいことは?」という質問に対しては「もちろん私は、なによりも軍需生産のための労働力需要をザウケルが満たしてくれることを期待していました。しかし私の望んだ労働力を彼が完全にそろえてくれなかったことから分かる通り、私が彼を支配ないし管理していたわけではありません」と証言した。この証言を聞いたザウケルは飛び跳ねるように反応して自分の弁護士を呼び、異議を唱えようとしたが、弁護士に今は発言できないので堪えるよう説得された。「侵略戦争の計画・準備に関わったか?」という質問に対しては「自分は1942年まで建築家として働いていたし、それまで自分が建設した物はすべて代表的な平和的建築物でした。これらの仕事は、多くの兵隊を前線勤務から遠ざけることになっただけでなく、膨大な費用と資材を要したので自分の活動によって結局は軍需工場や戦時経済の活動を弱めることになったでしょう」と証言した。「あなたは『』を指揮していたが、自分の責任をその範囲内に収めたいと考えるか?」という質問に対しては「いいえ。今回の戦争は考えられないほど壊滅的な被害をもたらしました。ドイツ国民の被った災厄に関して責任の一端を担うのが、私の義務であることは疑いありません。私はドイツ指導部の重要な一員として全体の責任の一部を引き受けます」と証言した。この発言は判事団に好感をもたれたようだった。また、自らがヒトラーの焦土作戦指令に反対してドイツ国民再建の基盤を残そうと尽力したことを証言し、さらに1945年2月に戦争を終わらせるためヒトラー暗殺計画を企てたことを証言した。そして、「1945年1月以降に両陣営が払った犠牲は無益なものでした。この間に亡くなった人々は戦闘を継続した責任を負う男を糾弾すべきです」と述べてこの日の証言を終えた。6日21日に検察側反対尋問が行われた。アメリカ検事ジャクソンのシュペーアへの追及は弱く、シュペーアを擁護しようとしているのが露骨に見てとれた。ジャクソンはまず「貴方はSS隊員だったか?」と質問した。シュペーアは「いいえ、私はSS隊員ではありませんでした」と答えた。シュペーアがSS隊員になっていた事を証明する書類はいくらもあったが、ジャクソンは「貴方は入隊願書に記入したことがある、または誰かが代わりに記入したが、結局貴方は提出しなかったのではないかと私は思っているのだが」という尻すぼみでこの話題を終えた。さらにジャクソンは「ヒトラーの周辺で彼に面と向かい、戦争に負けると言えた者は貴方以外にはいなかったというのは事実ですか?」、「貴方はドイツ国民が生活を立て直す機会を残したかった。そうですね?」「いっぽうヒトラーは自分が生き残れないならドイツが生き残ろうが生き残るまいが知ったことではないという立場をとった。そうですね?」、「貴方は自国の破滅に責任ある人々を除去するために色々な陰謀に加わったのですね?」などと擁護する質問を連発した。ジャクソンはクルップ社での強制労働の惨状の証言を証拠書類としてあげたが、これも提出の前にジャクソン自ら「ただしこれから述べる状況の責任が貴方個人にあるというのではありません」と断っておく始末だった。また、ジャクソンは「暗殺計画の後、危険を冒してヒトラーに会いに行ったのは何故か」という質問もしたが、シュペーアが「臆病者のように逃げるのではなく、もう一度ヒトラーに立ち向かうのが私の義務だと思いました。」と回答すると、それをそのまま受け入れ、それ以上詳しく追及しなかった。最後にジャクソンは「閣僚として、また、現代における指導者の一人として全体の政策には責任を負うが、施行された政策の詳細までは責任を負いかねる。こういえば貴方の立場を公正に述べたことになりますか?」と質問し、シュペーアは「はい。その通りです」と回答した。するとジャクソンは「これで私の反対尋問は終わったと考えます」と述べて反対尋問を終了させた。ジャクソンはシュペーアにユダヤ人虐殺を知っていたかどうかもマウトハウゼン強制収容所の視察についても一切質問しなかった。ジャクソンはこれ以前からシュペーアを「被告席最上の男」と呼ぶなど彼に共感を寄せていたので、二人の間には密約があるのではと疑われた。そしてそれは事実だった。ジャクソンもシュペーア当人も後年に密約を結んでいたことを認めている。一方、ソ連検事補ラジンスキーは容赦なくシュペーアを攻め立てた。ラジンスキーはシュペーアを侵略戦争の共同謀議罪に問おうと『我が闘争』(ラジンスキーはこれをソ連への侵略を想定したものだと主張していた)やヒトラーとの友人関係を追及する質問をしたが、その回答の中でシュペーアは「私は『我が闘争』を完全に通読したことがありません」「私はヒトラーと密接な接触をもっていましたし、ヒトラー個人の意見も耳にしました。この個人的意見という言葉からヒトラーがこの記録に示されているような種類の何らかの計画をもっていたと推測されては困ります。私は1939年にヒトラーがソビエトと不可侵条約を結んだ時、ことのほか安心しました。つまり貴国の外交関係者も『我が闘争』を読んでいたに違いないですが、にも関わらず貴国は不可侵条約を結んだからです。」と述べてラジンスキーをやりこめた。また、イギリス人の裁判長サー・ジェフリー・ローレンス(後の初代オークシー男爵、第3代トレヴェシン男爵)もしばしばシュペーアに味方し、ラジンスキーのシュペーア追及の動きを封じた。シュペーアもこの連合国内の不和を感じ取って、ソ連の検事に対してのみ、回答を拒否する高飛車な態度をしばしば取った。たとえばシュペーアがヒトラー側近数名を批判したと証言した時、ラジンスキーは「その数名とは誰か?」と聞いたが、シュペーアは「いや、貴方にはそれは申し上げられません」と回答した。ラジンスキーが「貴方がその人たちの名を言いたくないのは実際には誰も批判してないからだろう。違うか?」と追及してくると、シュペーアは「私は批判しました。しかしここでその人の名前を言うのは正しくないと考えるのです」と回答した。ラジンスキーは「シュペーアが質問に答えない場合、非常に多くの時間が無駄になる」と抗議したが、裁判長は「しかしラジンスキー検事。すでにその証言聴取の初めからこの被告は、戦争捕虜と労働者が自らの意思に反してドイツへ連れてこられたことを自分は知っていると認めています。このことを彼は否定していないのです」と述べてラジンスキーをたしなめた。ソビエトに対してのみ頑固な態度をとるシュペーアの法廷戦術は概ね功を奏したといえる。反対尋問が終わった後のシュペーアは勝利を確信して上機嫌だったという。8月31日の最終弁論でシュペーアは次のように演説した。「ヒトラーは歴史上どのように位置づけられるのでしょうか。この裁判が終わればドイツ国民は悲惨な状況を作り出した人間として彼を非難し、軽蔑するでしょう。独裁政治についてはどうでしょうか。ドイツ国民はこれまでの出来事によって独裁政治を憎むようになるだけではなく、それを恐れるようになるでしょう。ドイツ国民のように進歩的で教養があり洗練された国民がどうしてヒトラーの悪魔的な支配力に屈してしまったのでしょうか。それは現代の通信手段 ―ラジオ、電話、電信― のせいです。いまや指導者は遠隔地にいる部下に独自の判断を下させるための権限を与える必要がなくなったのです。現代の通信手段を使えばヒトラーのような指導者が、自分のいいなりになる集団を通じて自分で支配できるのです。ですから世界の科学技術が進歩すればするほど、個人の自由と人々の自治が不可欠になるのです」「今回の戦争は無線制御のロケット、音速に近づく航空機、標的を自動探知する潜水艦と魚雷、原子爆弾が現れ、科学戦の起こる恐れのある中で終わりを告げました。今度のような戦争が再び起これば、並みはずれたロケット弾が大陸間を飛び交う恐れがあります。10人ほどの要員によって発射されたロケット弾の核爆発でニューヨーク市にいる百万人を数秒で殺害することもできるようになるでしょう。新たに大規模戦争が起これば終戦時には人類の文明は全て滅んでいるかもしれません。ですから、この裁判は将来そのような戦争が起こらないようにするために貢献しなければならないのです。将来を信じる国民は決して滅びません。神よ。ドイツ国民と西洋文明を守りたまえ」。傍聴席の人々はこの演説を感動しながら聞いていたという。アメリカ首席検事ジャクソンは被告人の中に無罪判決に値する者がいるとすればシュペーアだと考えていた。アメリカ首席判事は悩みつつも、はじめシュペーアの有罪・死刑を主張した。ソ連判事ニキチェンコがただちにこれに賛同した。あと一票で死刑に決まるところだったが、イギリス判事ローレンスとフランス判事ド・ヴァーブルが死刑に賛成しなかった。そして最終的にはビドルも死刑賛成を取り下げたのでシュペーアは死刑を免れることとなった。全被告人に判決文が読み上げられたのは、1946年10月1日だった。この日シュペーアは打ちひしがれた表情で顔は吹き出物でいっぱいだったという。シュペーアの判決は第一訴因「侵略戦争の共同謀議」と第二訴因「平和に対する罪」について無罪としつつ、「シュペーアはザウケルに労働力の提供を要求した時、強制的に徴収された外国人労働者を使うことになるのを知っていた」「強制収容所の囚人を自分の支配する産業の労働力として使用した」として第三訴因「戦争犯罪」と第四訴因「人道に対する罪」で有罪とした。他方「シュペーア自身は奴隷労働計画の管理・執行における残虐行為には直接に関与していない。」「ザウケルに対する管理監督権を有していなかった。」「なお、シュペーアはヒトラーによる焦土作戦に反対し、相当の個人的危険をおかして抵抗した」というフォローも判決文に入れられた。これによって、500万人の外国人労働者を奴隷労働に使用した責任はザウケル一人に負わせることを示す物だった。その後、個別に言い渡される量刑判決でシュペーアは懲役20年を言い渡された。死刑は免れたが、刑務所から出る頃にはすっかり老人になっている20年禁固刑というのは勝利と言えるのかシュペーアは疑問に感じざるを得なかったという。無罪になったパーペンやシャハトのように嘘と隠ぺいで自分の罪を否認する態度を取っていたほうがよい結果になっていたのではと感じたという。シュペーア含む禁固刑を受けた7人の戦犯たちはしばらくニュルンベルク刑務所で服役を続けていたが、1947年7月18日にDC-3機でベルリンへ移送され、護送車でイギリス占領地域シュパンダウ区にあるシュパンダウ刑務所に投獄された。シュペーアの囚人番号は5番だった。刑務所内では手紙以外の執筆は認められておらず、回顧録の執筆も禁じられていたが、シュペーアは刑務所内で一章ずつこっそりと回顧録執筆を行い、オランダ人看護付添人(戦時中ドイツ軍捕虜収容所に入れられていたが、シュペーアのおかげでいい待遇を受けていた人物)を協力者にしてその原稿を刑務所外に持ち出してもらい、出版関係者に届けていた。出版社が彼の自伝を高額で買い取る交渉をしていたのは公然の事実だったという。ヘスと並ぶ読書家であり、刑務所内で約5000冊読んだという。労作業では一生懸命働いた。また囚人の中で最も率直な人物で寡黙だったという。そのため模範囚と看做されていたシュペーアだったが、時々はっきりとした理由なく看守を罵りだして懲罰を受けることがあった。アメリカ管理官ユージン・バード大佐が何故そんな事をするのか聞いたところ、シュペーアは「たまにはこんな風にストレスを発散させないと私は発狂してしまいますよ。私はわざとこんなことをしているのであり、懲罰を受けることも先刻承知しています。正気でいるためにはこれしかないんですよ」と答えたという。1966年10月1日午前0時をもってシーラッハとともに20年の刑期満了で釈放された。シーラッハは出獄の際にシュペーアに「ヘル・シュペール。過去のことは過去に、我々はこれからも連絡を取り合おう」と言って手を差しだした。シュペーアは「ああ、そうしよう」と答えて握手に応じたという。シュペーアを迎えに来た車の中にはシュペーアの妻と弁護士フレックスナーが乗っており、シュペーアは妻と手を握り合った。そして車に乗りこむと門の前に集まるマスコミの中を通過して西ベルリン内ののホテルへ向かった。釈放翌日の1966年10月2日には国内外のマスメディアの前に姿を現し、ドイツ語・フランス語・英語の三か国語で「生きて出られてとても嬉しい」と述べた。しかし記者に質問の時間は与えず、すぐに記者会見を終えるとアメリカ機に乗って西ベルリンを離れてハノーファーへ向かい、さらにイギリス・チャーター機でシュトゥットガルトへ向かい、そこからバイエルンの家族のところへ帰っていった。西ドイツ政府は「シュペーアとフォン・シーラッハの釈放については承知・確認しているが、政治的見解を政府が特別に表明しなければならない謂われはない。ただ我々は人道的見地から罹患囚人の拘留環境緩和ないし刑期未満了釈放に努めてきた」という声明を出した。西ドイツ雑誌『シュピーゲル』は「彼の社会への帰還は、ドイツ人が終戦以来、道徳・論理観の整理・展望もないままに懸命に試みてきた過去の清算過程において呼び覚まされた記憶の数々に一株のアイロニーを加えた。シュペーアは過去が現在であった時(ナチ党政権期)に、それを克服しようとした、まさに数少ないドイツ人の一人だからである。彼は第三帝国が崩壊する直前にヒトラーと決別していた」とシュペーアに好意的な論評を載せた。1970年には刑務所の中で書いた誕生からニュルンベルク裁判までの半生を記録した回顧録『第三帝国の内幕』(英:Inside the Third Reich、独:Erinnerungen,もしくは Reminiscences)を出版し、ベストセラーとなった。同書は数少ない、ヒトラーの側近が見たナチスの内幕を描いた貴重な証言として知られている。この本の内容は非常に鮮明に、自分とヒトラーとの出会いからニュルンベルク裁判までがこと細かに書かれている。ヒトラーに熱狂する人々や党内部の抗争、終戦間近になってからのゲーリングの異様な行動、ボルマンの心情、ヒムラーの言動、ライの異様なまでの野心、正気を失っていくヒトラーとそれを共に滅びていくゲッベルスなど、生々しくも忠実に描写されている。また、ニュルンベルク裁判でのデーニッツやヘス等被告人の様子も非常に詳しく描かれている。戦時中にユダヤ人から略奪され、戦中、戦後を通じて隠していた美術品を、匿名で密かにオークションで売却し、巨額の現金を手に入れた。しかし、現在もその現金の行方はわかっていない。妻にも渡されていなかった。1981年、イギリスの愛人宅において心臓発作で倒れ、ロンドンのセント・メリー病院で死亡した。BBCに出演するために渡英していた際の死亡とされ、現在ではハイデルベルクのベルクフリートホーフに夫婦そろって埋葬されている。身長は184センチだったという。ニュルンベルク刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が、開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると、シュペーアの知能指数は128であった。ギルバートはナチスの罪を認めたシュペーアはナチスの罪を認めないゲーリングより知的と思っていたので、シュペーアがゲーリング(IQ138)よりだいぶIQが低いことに衝撃を受けたという。彼自身が後年に述べたところによると時々主人ヒトラーの邪悪さを垣間見ることはあったが、大勢の人に命令したり、何十億マルクもの金を意のままに使える権力を与えられて夢中になり、それを可能にしてくれたヒトラーに逆らう気など起きなかったという。1953年には戦後ヒトラー批判に転向した理由について「ベルリン改造プロジェクトは私の生きがいだった。すでに述べたように私はそれを忘れることができない。今日私がヒトラーを拒絶する深層を探れば、彼が明らかにしたあらゆる残虐性と並んで、私の失望も少し含まれている。彼は政治の権力ゲームから戦争に走り、生涯をかけた私の計画をぶち壊したという失望が」と述べている。いささか訛りがきついものの、流暢な英語を話すことができた。シュペーアはニュルンベルク裁判の被告の中で唯一人、自己の戦争犯罪を認めた。また、釈放された後も積極的にマスコミ等でドイツの犯罪を批判し続けた。しかしその一方でユダヤ人虐殺については「自分は直接関知していない」「うすうす感じてはいたが積極的に知ろうとしなかったので知らなかった」などと述べている。一連のシュペーアによる弁解については、建設総監・軍需相として強制収容所の囚人や捕虜が使役されていた採石所や軍需工場を度々視察し、労働者の増員を労働力配置総監のフリッツ・ザウケルに度々要求していたシュペーアが知らなかったはずがない、という見方が現在も強くある。上記に記した建設総監時代に計画責任者として従事した「ゲルマニア計画」においては、退去を命じられたベルリン市民の代替居住地の供給案として、本人の弁によれば「あくまで、その場での思い付き」「いかに効率よくコストを下げる方法のひとつとして」と前置きした上で「ユダヤ人の居住地域を、退去を命じられたベルリン市民に与えてはどうか」とヒトラーに進言し、それが実行に移された。またユダヤ人退去計画の具体的な実行計画を計画したのも彼がトップを務めた建設総監であった事が最近の研究で明らかになっている。但し、どういったプロセスを経過して、彼がユダヤ人退去計画に関わり、どういうポジションにいたのかは詳細はまだまだ不明な部分が多い。また鋼材やセメントといった戦略物資の分配を職権に持つ軍需相として強制収容所建設のための材料配分を認める書類も現存しており、シュペーアの言い分に信を置くことはできない。特にアウシュヴィッツ強制収容所の拡張計画設計においては詳細な内容(死体置き場の数、死体焼却所の数等、それら建設に伴う積算書)を記した計画設計書に、彼の部下が現地調査を実施し、その報告を元に、拡張計画書と設計図に彼が目を通し、それに許可を与えたサインが近年発見されている。しかし拡張計画をどの部署が計画し、その設計図を誰が書いたかはわかっていない。V2ロケット製造工場(ミッテルバウ・ドーラ強制収容所)の立ち上げは軍需相時代の業績のひとつであるが、ここでは多数のオランダ、ポーランドの戦争捕虜、政治犯が強制労働で死亡しており、ここの視察にシュペーア本人が何度も訪れていた事が、最近の研究結果で確認されている。またシュペーア自身、戦後はヒトラーをはじめとするナチス幹部を批判し続けた。これに関しても、彼の良心からでた告白ではなくて保身のための変心にすぎない、との意見もある。これは彼が友人ルドルフ・ヴォルタース()に宛てた手紙とヴォルタースの日記(Chronik文書)と戦後、彼がマスメディアに向かって発信した言葉を比較検討した場合、戦前と戦後では明らかな違いがある。しかしこれは彼に限ったことではなく、戦後を生きたその他大勢のドイツ政府首脳にも当てはまる上、そもそも発言の違いの原因が何であったのかはわからない。総合的に判断すれば、シュペーアが「ホロコースト」、「戦争捕虜の強制労働」と言ったドイツの戦争犯罪を知っていた事は間違いない。しかし、それらの政策にどれだけ関わっていたかは現在も不明である。シュペーア以外のナチス側の証言者、ユダヤ人と戦争捕虜側の証言者、それそれが独自の主観で証言をしており、現在の研究者により一定の信憑性を以って、それらの証言が迎えられているのが現状である。シュペーアは、妻マルガレーテ(1905年 - 1987年)との間に二男二女をもうけた。長女のヒルデ(1936年生まれ)は緑の党の政治家となった。長男のアルベルト(1934年生まれ)は父と同じく建築家となり、フランクフルトでドイツ有数の建築設計事務所アルベルト・シュペーア&パートナー(Albert Speer & Partner)を開き、ドイツ国内や世界各国で都市計画やビル設計を手掛けている。次女のマルガレーテ(1938年生まれ)は写真家となった。そして、次男のアルノルトは医師となった。著者氏名は、刊行当時の表記。
出典:wikipedia
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