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箕子朝鮮

箕子朝鮮(きしちょうせん、紀元前12世紀? - 紀元前194年)は、中国の殷に出自を持つ箕子が建国したとされる朝鮮の伝説的な古代国家。統一国家では無く、地方政権ないし都市国家として存在したいわゆる古朝鮮の一つ。首都は王険城(現在の平壌)。『三国志』「魏志」東夷伝 辰韓条、『魏略』逸文などに具体的な記述がある。『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は、中国の殷王朝28代文丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。建国後の動向はほとんど伝わらない。『魏略』の逸文によると、箕子の子孫は朝鮮侯を世襲したが、東周が衰退すると王を僭称するようになり、周王朝を尊んで燕を攻撃しようとした。しかし大夫礼が朝鮮王を諌めたので、王は攻撃を中止して、逆に燕に礼(人名)を派遣したので燕は朝鮮を攻めるようなことはなかった。以降からその子孫は驕慢になり、燕の将軍秦開に攻めこまれ二千里の領土を奪われ、満潘汗を国境に定めた。そのため朝鮮はついに弱体化した。秦が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した(紀元前214年)。その子の準王(箕準)の代になると、秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという。ところが紀元前195年、前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し王権を簒奪して、衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王(はじめ、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。このような箕子朝鮮の伝説は史実か否かとは別に、儒教が隆盛した高麗以降の貴族や知識人によって熱烈に支持され、箕子は朝鮮族の始祖として顕彰されるとともに、箕子宮・箕子陵・箕子井田などの古跡が盛んに造作された。李氏朝鮮後期に族譜の作成が盛んになると、韓氏によって王統が創作され、その内容は『盎葉記』(李徳懋)や『清州韓氏族譜』などに見える。箕子にはそれなりの歴史的背景が考えられる。中国古代の殷・周金属文化圏では、紀元前10世紀以後、山東の斉の箕族が、殷・周の権威のもとで、朝鮮西部に接する遼寧で活動していた。燕・斉人の東来は、古くから存在した。北京市順義県、河北省東部、遼西大凌河で其や箕候という銘の西周初の箕子の時代の青銅器が多数発掘され、箕子と関係づけてとらえる意見がある。『魏略』は「(箕準一族の)子と親族でそのまま朝鮮に留まった者は、みだりに韓姓を称している」と記している。箕子の後裔の箕準一族を名乗り、韓姓を称した者が存在したが、楽浪郡以後、王姓の次に圧倒的な勢力は韓姓だった。現在の韓国の学界では後世の創作として否定しているが、中国の学界では実在したと考えられており、真っ向から対立する。日本の学界では意見が割れており、史料にあらわれる記録は実在の要素と架空の要素が入り混じっているとする説と、周時代(前11世紀)頃から朝鮮半島西北部に中国人が一定の集団をなして定住したと思われる周様式に酷似した出土物の顕著な増加を認め大筋に於いて信憑性を認めようとする説とがある。日本の学界は架空性を重視する者でも韓国史学界のような全くの創造とは見倣さず、中国からの移民集団の存在を認める点では日本の学界は中国に近い。中国社会科学院を中心に、古朝鮮・高句麗・扶余・渤海まで歴史が一脈相通じる韓民族の歴史ではなく、古代中国の地方民族政権の歴史で、中国歴史であるという東北工程の史観に対して韓国は大きく反発している。「高句麗の住民は中国の少数民族であって韓国とは無関係である」「そもそも漢江北部までが中国領土だったが、新羅や百済などの侵奪で領土を失った」「渤海建国の主導勢力は高句麗人だけでなく靺鞨族で、渤海の建国者大祚榮は渤海初期に靺鞨を正式国号に採択した」など、その内容が実証的であるとしても朝鮮半島の人々にとって面白いものではない。韓国文化財庁は、「韓民族の歴史が(満州などの)東北地域につながっているという事実とそれを主張する『縁故権』を払拭するために開始されたもの」という韓国独自の民族主義史学を主張して大きく反発した。これほど信奉された箕子朝鮮であったが、民族意識の高揚した近代以降においてはまったく逆に、中国人起源の箕子朝鮮は顧みられぬこととなった。韓国・北朝鮮ともに太白山(現・白頭山。中国と北朝鮮との国境)に降臨した天神の子の檀君が朝鮮族の始祖であり、ここから始まる檀君朝鮮こそが朝鮮の始まりと主張。現在の歴史教科書にも記述されている。カーター・エッカートによると、19世紀以前には、「国民国家としての『朝鮮』という抽象概念や、『朝鮮人』としての半島の仲間の住民に対する忠誠心は、たとえあったとしても、ほとんどなかった。庶民にとっては、村、家族、王への忠誠が優先され、一方、朝鮮のエリートは、自分自身が『中国を中心とする世界文明』の一員だと考えた」。李氏朝鮮中期 、歴史家の間で確立された見解は、朝鮮の起源を中国の難民にさかのぼり、朝鮮の歴史を中国とつながる王朝の長い連続だと考えた。殷からの難民の箕子朝鮮と新羅(新羅の前身の辰韓は秦からの難民)はこのように価値づけられ、檀君朝鮮と高句麗は重要だとは考えられなかった。この見解によると、箕子が朝鮮半島に詩、音楽、医学、貿易、政治システムを持って来た物語は、トロイの難民アイネイアースによるローマ建国と同様に考えられていた。しかし1930年代に、申采浩の歴史の影響を受けたナショナリズムの高揚から、中国の箕子朝鮮の建国物語より、虎と熊の子で朝鮮半島に文明をもたらした檀君の建国物語の方が重要視されるようになり、檀君朝鮮は民間信仰を、箕子朝鮮は儒教を背景にして、韓国では自国文化尊重ということから、民族文化を形成する檀君朝鮮がだんだん有利となる。箕子朝鮮の歴史は「封建的支配階級、事大主義信者、大国至上主義者によって、不道徳に歪められた」と主張する北朝鮮の歴史家によって攻撃され続けている。中国や日本の学界では「古朝鮮とは、14世紀以後の李氏の朝鮮王朝に対して呼ぶもので、檀君朝鮮・箕子朝鮮・衛氏朝鮮をまとめた呼称である。」というような理解の仕方が一般的であるが、中国系の箕子朝鮮と衛氏朝鮮は朝鮮のナショナリズムからは都合が悪いため、韓国の学界は古朝鮮から箕子朝鮮と衛氏朝鮮を取り除こうと主張している。古朝鮮=三朝鮮は、朝鮮の歴史とアイデンティティと領域問題と緊密に連結され、箕子朝鮮を認めれば、紀元前11世紀以前の檀君朝鮮も認めることになるが、この時から中国の支配を認める計算になる。したがって、韓国の学界は、箕子朝鮮の歴史性を否定するため、三朝鮮の枠組みで古朝鮮を捉えることを批判して、箕子朝鮮は古朝鮮に「割り込んできた」のだから、古朝鮮から檀君朝鮮は含んだまま箕子朝鮮、あわよくば衛氏朝鮮も取り除こうとする。檀国大学のユン・ネヒョンは、箕子朝鮮の存在を認めるが、韓半島の外側、古朝鮮西部辺境で古朝鮮と並存した小国であり、箕子朝鮮を継承した衛氏朝鮮まで共にくくって一緒に朝鮮半島の歴史から抜いてしまえば良い、と主張する。これは、檀君朝鮮の正統性を優先視する在野史学界の立場が反映されたものである。高麗大学のパク・デジェは、三朝鮮は高麗後期~朝鮮時代初期に構成を整え、李承休は『帝王韻記』で古朝鮮を檀君と箕子を分離した。これが朝鮮時代初期の『高麗史』や『東国通鑑』などで檀君(前朝鮮)-箕子(後朝鮮)-衛氏朝鮮の三朝鮮を同等に連結する体制が確立され、それ以前には古朝鮮を三朝鮮と把握しなかった。したがって、パクは「箕子朝鮮が私たちの歴史に体系化されたのは伝統的古朝鮮史に小中華主義を背景に脈絡なしに割り込んだ『闖入』過程」「それでも三朝鮮説体系が維持されるのは学界がじっくり考えなければならない問題」と古朝鮮=三朝鮮をあえて守る必要があるのかと批判している。申采浩は『読史新論』『朝鮮上古史』などで箕子を檀君の臣下とみて、箕子朝鮮を歴史叙述から最初から抜いてしまうこともあった。韓国の教科書の高等『国史』は、古朝鮮は紀元前2333年に成立し、その支配は中国遼寧から朝鮮半島まで及んでいたと記述され、古朝鮮の根拠を琵琶形銅剣の分布にもとめて、古朝鮮建国の根拠として壇君神話を紹介している。このように檀君についての記述が小学『社会』からみられるのに対して、箕子についての記述はない。わずかに中学『国史』「学習の手助け」において、文献上ではそのような理解があったことを記すにとどめる。古朝鮮の史料は乏しく、箕子朝鮮は史実性に問題があるため補足にとどめたと考えられるが、この場合、同じように史実性に問題のある檀君朝鮮は『三国遺事』を引用して詳細に記述するのは、史実性、史料上の制約、箕子朝鮮に関する記述とのバランスを考慮すれば箕子朝鮮に関する記述がないのはいかにもアンバランスな印象を与える。箕子は中国系に属するのに対して、檀君は朝鮮系に属する。中国系よりも朝鮮系が重視され、中国系の記述は朝鮮系に比べて少ないか、ほとんど無視され、現在の韓国人につながる朝鮮系諸民族は重視される一方、朝鮮半島で活動して、朝鮮史に大きな影響を与えた中国系を含む諸民族が捨象される。震檀学会『国史教本』は、紀元前2333年に檀君によって建国されたとして、檀君の建国した朝鮮を「前朝鮮」として、後の「後朝鮮」と区別する。これは『新増東国輿地勝覧』巻51・平壌条の檀君の建国した朝鮮を「前朝鮮」、箕子の建国した朝鮮を「後朝鮮」とするのに由来する。しかし、震檀学会『国史教本』は、「後朝鮮」の記述は認められるが、建国者の箕子の名前はなく、箕子が中国系であることと無関係ではない。それゆえ『国史』において箕子について論及しない、という選択肢も存在したが、40年代-50年代の『国史』では、箕子について積極的に論及する。1940年代から1950年代には、箕子東来説が後世、 漢人によって造作されたとして、積極的に史実性が否定される。それは、史料批判からされたが、『史記』巻38宋微子世家に「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮…」とあり、箕子が朝鮮王として冊封されたという記事が現実に存在する以上、それをどう解釈すべきか、という教科書執筆者の関心とも関わっている。ところが1960年代半ばから、箕子東来は最初から史実性を認めないという解釈から、教科書にはみられなくなる。わずかに、1960年代半ば以降の教科書では、1982年国史編纂委員会『国史』が註において、それまで論じられてきた箕子東来説の造作に関する記述もなくなり、箕子は1960年代半ばから教科書にはみられなくなる。このように檀君朝鮮についてはほぼ一貫して重視されるが、箕子朝鮮は当初からほぼ一貫してみられない。また、箕子東来説は1940年代から1950年代では積極的に否定するが、やがてみられなくなる。このようにして、教科書におけるおおよそ中国系に関する記述は徐々に減少していく。

出典:wikipedia

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