北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した主に買積みの北国廻船の名称。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路(西廻海運)の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、再び畿内が日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。江戸時代になると、例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫の北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した。これは、在地の流通業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、大津などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、中間マージンを下げるためであるとされる。また、外海での船の海難事故などのリスクを含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことにも起因する。さらに、各藩の一円知行によって資本集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた国際貿易を行っていたところに、江戸幕府が鎖国政策を持ち込んだため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。一方、寛文12年(1672年)には、江戸幕府も当時天領であった出羽の米を大坂まで効率よく大量輸送するべく河村瑞賢に命じたこともこの航路の起こりとされる。前年の東廻り航路の開通と合わせて西廻り航路の完成で大坂市場は天下の台所として発展し、北前船の発展にも繋がった。江戸時代に北前船として運用された船は、はじめは北国船と呼ばれる漕走・帆走兼用の和船であったが、18世紀中期には帆走専用で経済性の高い和船である弁才船が普及した。北前船用の弁才船は、18世紀中期以降、菱垣廻船などの標準的な弁才船に対し、学術上で日本海系として区別される独自の改良が進んだ。日本海系弁才船の特徴として、船首・船尾のそりが強いこと、根棚(かじき)と呼ばれる舷側最下部の板が航(船底兼竜骨)なみに厚いこと、はり部材のうち中船梁・下船梁が統合されて航に接した肋骨風の配置になっていることが挙げられる。これらの改良により、構造を簡素化させつつ船体強度は通常の弁才船よりも高かった。通常は年に1航海で、2航海できることは稀であった。こうした不便さや海難リスク、航路短縮を狙って、播磨国の市川と但馬国の円山川を通る航路を開拓する計画(柳沢淇園らが推進)や、由良川と保津川を経由する案が出たこともあったが、様々な利害関係が介在する複数の領地を跨る工事の困難さなどから実現はしなかった。明治時代に入ると、1隻の船が年に1航海程度しかできなかったのが、年に3航海から4航海ずつできるようになった。その理由は、松前藩の入港制限が撤廃されたことにある。スクーナーなどの西洋式帆船が登場した影響とする見解もあるが、運航されていた船舶の主力は西洋式帆船ではなく、在来型の弁才船か一部を西洋風に改良した合の子船であった。明治維新による封建制の崩壊や電信・郵便の登場は相場の地域的な格差が無くなり、一攫千金的な意味が無くなった。さらに日本全国に鉄道が敷設されることで国内の輸送は鉄道へシフトしていき、江戸期以降続く北前船の形態は消滅していった。その後も北前船の船主たちは小樽や函館などを主な寄港地として、北海道のニシンを主な積み荷とした北陸と北海道を結ぶ北前船によく似た航海を明治後期頃まで行っていた。日露戦争においてロシア海軍の水雷艇が日本海を航行中の旧北前船船主所有の弁才船を拿捕・撃沈した記録も残っている。北前とは上方の人間が北陸など日本海沿岸の北国方面をさしていう歴史的地域名称であり、北国の物資を運んでくることから北前船と呼ばれた。北陸では北前船のことを「弁才船」と呼ぶが、これは、もともと瀬戸内海で発達した弁才船が北国と上方を瀬戸内海でむすんだ西廻り航路の発達によって日本海沿岸にも進出していき全盛期の北前船の主力となったことから。1年1航海の場合北陸など各地の北前船の船員は、大坂から徒歩で地元に帰って正月を迎え、春先にまた徒歩で大坂に戻ってきた。下り荷(北国方面)に関しては以下の通りである。上り荷(畿内方面)は殆どが海産物で下り荷ほど種類は多くない。鰊粕(商品作物栽培のための肥料)、数の子、身欠きニシン、干しナマコ、昆布、干鰯など。特に昆布は大坂から薩摩を経て、沖縄経由で中国にまで密輸出された。富山藩には「薩摩組」と呼ばれる担当の部署があり、中国からは漢方の材料を輸入して、富山売薬を支えた。北海道、越中、薩摩、琉球(沖縄)、清(中国)までのルートを「昆布ロード」ということがある。北前船の往来は周辺地域に大きな影響を与えた。1つは周辺農村の生産力の増加である。積荷のなかには冬の間の農閑期を利用した副業(プロト工業化)によるものもある。それらの需要が高まるにつれ、商品が優先的効率的に生産された。もう1つは造船基地の発生という可能性で、港地が船修理、船建造の作事を任されていたという。これらのことが周辺地域にも流通面を超えた影響を及ぼしたと思われる。また寄港地周辺では近畿の文化が伝わり、言葉・食文化等に影響がみられ、本州日本海側における文化の伝播役としての役割もあった。江戸期の百科に記載された大坂から奥州・田南部間の海路の地名は次のとおり。大坂、尼崎、西宮、兵庫、須磨、鳥崎、(播州)明石、江崎(えがさき)、高砂、亀島、鞍掛、室津、赤穂御崎(坂越浦)、(備前)大田武(おおたふ)、牛磨津(うしまづ)、寄木崎、犬島、出崎、潮通(しおとおし)、日比、下津井、(備中)水島、(備後)白石、鞆(とも)、穴太(あぶと)、桃島、江崎、海布苅(めかり)、(安芸)野内(のうち)、多田文(ただみ)、高崎、唐船(とうせん)、日門泊(ひもんとまり)、高鳶(たかとび)、蒲刈(がまかり)、亀首(かめがくび)、加呂宇土、津和野、(周防)由宇、家室(かむろ)、上関(かみのせき)、蔵司(そうし)、室積(むろづみ)、向島、花香(はなか)、岩屋、丸尾、水崎(みさき)、(長門)本山、艫崎(へざき)、下関(しものせき)、稟受(ひんしゅ)、瀬戸崎、萩(はぎ)、須佐、江須、(石見)浜田、護府(ごふ)、猪津(いのづ)、(出雲)瓜生(うりう宇龍?)、可嘉、三保関(みほのせき)、泊(とまり)、(因幡)加留(かる)(但馬)諸崎、芝山、朝日、夕日、泰座(たいざ)、(丹後)経崎、宮津、名料、(若狭)小浜(こばま)、常上(つねかみ)、丹生浦(にううら)、立石、伊呂、(越前)敦賀、河野、米良(めら)、三国、堀切、(加賀)安宅(あたか)、本吉、宮腰、(能登)阿武屋(あぶや)、福浦、伊木須、和島(わじま)、塩津、(越後)今町、柏崎、出雲崎、新潟、瀬波(せなみ)、(出羽)鼠関(ねずのせき)、加茂、酒田、小刀津、本庄(ほんじょう)、湊(みなと)、舟川、栂島(とがしま)、野代(のしろ)、(奥州)津軽・深浦、鯵沢(あじがさわ)、小泊(ことまり)、今別(いまべち)、赤根沢(あかねざわ)、田南部(たなぶ)。日本海航路で海運を行った船のうち、狭義に「北前船」と呼ばれるのは日本海在地資本によるものに限る見解もある。この見解によれば、高田屋嘉兵衛のような上方資本で日本海航路で廻船を運航した場合は北回り地船として区別する。以下では、広義の北前船に関わった船主を挙げる。堀田善衛『鶴のいた庭』浅見光彦シリーズ『化生の海』
出典:wikipedia
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