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長谷川良平

長谷川 良平(はせがわ りょうへい、1930年3月25日 - 2006年7月29日)は、愛知県半田市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。黎明期の広島カープを代表する投手であり、身長167cmという野球選手としては小柄な体格から、小さな大投手の異名を取った。愛知県半田商工学校卒業後、安田商店(福井県)・安田繊維・新田建設・第一繊維など4つのノンプロチームでプレーする。年末に設立された広島カープの監督・石本秀一が選手集めをしていたところへ、広島への入団が決まっていた内藤幸三が新田建設時代の監督・横沢七郎経由で聞いた長谷川の噂を石本へ伝えたところ、正月に長谷川は広島の入団テストを受けることになる。長谷川は石本の見守る中シートバッティングの投手を務めるが、得意のシュートを連投して何人かのベテラン選手のバットをへし折り、入団が決まった。1月21日に入団契約し契約金は30万円、月給は25,000円であった。開幕から6連敗ののち、4月27日の対西日本戦で初勝利を挙げると、5月14日と17日の西日本戦で立て続けに勝ち、特に17日は初完封を記録したこともあって、「パイレーツ殺し」と呼ばれた。結局この年、新人ながらいきなりチームトップの15勝(27敗)を挙げる。はチーム全体の勝利数32勝の半数を超える17勝(14敗)を記録し、オールスターゲームにも初出場した。しかし、同年12月に新たに導入された統一契約書が、印刷の遅れにより期限の12月15日までに長谷川の元に届かなかったことから、同月25日に長谷川は「自由選手」である旨を表明。長谷川の出身地である愛知県に本拠を置く名古屋ドラゴンズへの移籍騒動に発展し、3ヶ月にわたり長谷川の身分は宙に浮いた。またこの間、阪神タイガース監督の松木謙治郎や、交友のあった国鉄スワローズのエース金田正一からも直接移籍の誘いがあったという。結局、カープファンの熱い残留コールを受け長谷川は思いとどまり、翌3月10日のコミッショナー裁定により広島への残留が決定し、事態は収束した。キャンプインのために広島駅に降り立った長谷川は、出迎えてくれたファンの大歓声を受け、「俺はカープ一筋に生きる。」と決意した。1952年は春先の移籍騒動のためにシーズンを迎えるための準備が不十分だったことから、開幕投手を新人の大田垣喜夫に譲ったが、その後も調子が上がらず11勝に終わる。になると、2年目を迎えて力を付けてきた大田垣がエースという周囲の声に発奮し、勝ち星を重ねる。17勝まで勝ち星を伸ばすが、夏の北海道遠征で帰塁時に足を捻挫し、これが思いのほか重傷で、しばらく勝ち星から遠ざかる。巨人戦で40日ぶりに18勝目を挙げると閉幕までに2勝を重ね、初の20勝を達成。防御率もリーグ7位の2.66を記録した。最盛期はで、開幕前のセ・リーグトーナメント大会で優勝してMVPを獲得すると、大洋ホエールズとの開幕戦にも勝利し、初の開幕戦勝利を飾る。その後も順調に勝ち星を重ね、10月20日の中日ドラゴンズとの最終戦で30勝目を挙げ、巨人の大友工と並んで最多勝利のタイトルを獲得した。防御率もキャリアハイの1.69でリーグ4位に入る。30勝のうち、13勝を最下位の大洋から荒稼ぎし、負け数はわずか1であった。またこの年、8月21日の対阪神戦で通算100勝を達成している。(22勝)、も(21勝)と3年連続20勝、入団から8年連続の二桁勝利を記録する。なお、1957年までの8年間でチーム全体の勝ち星の4割以上を1人で挙げている。この間の1956年6月24日の阪神戦では藤村富美男に代打逆転サヨナラ満塁本塁打を浴び、翌1957年7月24日の広島市民球場のこけら落としの試合に先発登板している。は肩を故障し9勝に終わる。この年のオールスターの第2戦が広島市民球場で開催された際、長谷川は肩痛で投球練習もできない状態の中で麻酔を打って強行登板するが、わずか9球でノックアウトされている。その後は、リリーフに回り投手陣の主軸として活躍する。限りで現役を引退。通算197勝は、北別府学(213勝)に抜かれるまでは球団記録であった。なお、名球会入りの条件とされる200勝に史上最も近い勝ち星で引退した投手でもある。長谷川自身が引退を確信した2つのシーンがあったという。引退翌年の1964年から広島の一軍投手コーチに就任し、1965年途中からは白石勝巳の後を受けて監督を務めた。正式に監督となった1966年には初代監督の石本秀一をヘッドコーチに招聘し、補強に頼らない「戦力の2割アップ」を掲げ、大味な野球からの脱却を目指した。この年は5月に三週間首位に立ち、6月にも再び首位に返り咲くなどファンを期待させたが、主力打者の故障などが相次ぎ後半戦に連敗が多くなり4位でシーズンを終えた。翌年は近鉄から根本陸夫を参謀役に招いたが、出足からつまずき6月中旬から最下位に定着すると、そこから脱出できないままシーズン終了し、同年に退任。在任期間中に安仁屋宗八や外木場義郎ら後の広島を支える若手を育成した。その後は中日の一軍投手コーチ(1968年)、二軍投手コーチ(1969年 - 1970年)を歴任。杉下茂・水原茂監督の下、近藤貞雄コーチと共に小川健太郎・星野仙一・松本幸行ら若手を指導した。再び広島の一軍投手コーチ(1973年)・ヘッドコーチ(1974年)を務めた後は、1975年から広島市中区を拠点にRCC解説者、日刊スポーツ評論家として長きに渡って活躍した。1995年に解説業を退いた後は球界から遠ざかり、極たまに広島ローカルのテレビ番組で顔を見せる以外、公の場に姿を現すことはなかった。2001年に野球殿堂入り。2006年7月29日に肺炎のため広島市内の病院で死去。。なお、この日広島市民球場で行われた広島対横浜ベイスターズ戦(12回戦)において、長谷川の生前の功績を偲び、両軍選手によって試合前に黙祷が捧げられた(試合は広島が6-3で勝利)。跳ね上がるような投球フォームからのストレートとシュートボールは威力抜群で、同期のテスト生で仲が良くしばしばバッテリーを組んでいた長谷部稔は、長谷川の投球を長く受け続けて左手の人差し指にいくつもひびが入り、あるときには捕球のたびに皮膚の裏側から血が噴き出したこともあったという。特にシュートについては、あまりの変化の鋭さに相手打者のバットがへし折られることが再三あった。実際に1試合でバットを3本折られた打者(西沢道夫だと言われている)がいて、試合後慌てて、「頼むからシュートを投げないでくれ。バット代がかかってしようがない」と真顔で頼み込んできたという逸話が残されている。多彩な変化球を操ると言われたが、実際の球種はストレートと速い遅い2種類のカーブ、縦横2種類のシュートボールで、これらを上手、横手、下手から投げ分けていた。普段の生活では健康面や身体の手入れを重要視した。右肩を大事にして、列車の座席では必ず左肩の方を窓際に寄せた。寝る時は右肩に布を当てて冷えるのを防いだ。どんな暑い夜でも扇風機は勿論、窓を開けて寝ることを避けた。同部屋の選手が暑さにたまりかねて起きても長谷川は寝入っていたという。酒は嫌いだったこともあるが、贔屓や同僚からどんなに勧められても断り、相手の感情を害しようが決して飲まなかった。失礼な態度だとしてキャバレーでブランデーを投げかけられ、球団内部で問題になったこともあった。なお、当時かわいがってもらっていた力道山が同席していても頑なに拒否し、そのうち力道山も理解したのか酒を勧めなくなったとされる。もともと酒が苦手な上に、貧しい実家に送金する必要から余分な出費を嫌って、酒席を避けるようになったことや、長谷川自身も、自分が懸命に投げているのに、負けても遊びに行ったり麻雀をするばかりで練習しない彼らの姿に我慢できなかったことで、チームメイトとはあまり仲が良くなかった。だが、そのような態度が周りと軋轢を生み、特に酒豪の武智修にはよくいじめられ、わざとエラーされたり村八分にされた頃もあった。友人は捕手の長谷部稔ら数人しかいなかった。尊敬する選手は巨人の川上哲治と阪神の藤村富美男で、長谷川自身この二人との対決を何よりも楽しみにしていた。巨人戦で川上を見逃しの三振に打ち取った時、直後の座談会で川上から「ハセ!これでわしと同格やな。」と声をかけられ、長谷川は「何いうてますか。わしには大きな宝じゃ。」と感激の言葉を述べた。阪神戦では長谷川に手を焼いた藤村がスクイズバントを試みたことに、後年「あの藤村さんがねえ。わしを見て打てんと見てやったんかいな。」と述べている。ただし、藤村には代打逆転サヨナラ満塁本塁打を打たれており、これには「ちょっと悔しかった。・・・藤村さんには、わし、ファンやし、尊敬してるからわざと打たしたわけじゃないんじゃが・・」と複雑な胸中を述べている。入団時の監督であった石本秀一から非常にかわいがられた。移籍問題の際も、若い長谷川の心を誑かしたとして、名古屋球団を悪者にして、長谷川を庇った。また、石本の自宅によく呼びつけられて、下半身を鍛えるための練習や投球時の足の蹴り方を徹底的に教え込まれた。友人には国鉄スワローズのエース金田正一がいる。マウンドでは二人はライバルとして投げ合い、大男で正統派左腕の金田と小男でサイドスロー右腕の長谷川という対照的な両エースの対決であったが、同じ愛知県出身、弱小球団の屋台骨を支えるエースとしての接点から、私生活ではよく連れ立って遊んだ。1951年オフの長谷川の移籍騒動では金田は「どや、わしと組まへんか。」と強くスワローズへの移籍を勧めた。2000年の長谷川の野球殿堂入りを、金田はわがことのように喜び、東京の祝賀パーティはもちろん、地元広島の祝賀パーティにも駆け付け関係者を感激させた。「殿堂入りが遅すぎる。上のもんは何しとる!もっと強いとこ行っとったら300勝したかもしれん。今の若いピッチャーはハセの爪の垢でも煎じて飲んどけ!」との金田節に長谷川は「カネは、旧友というより球友じゃ。」と喜んだ。また、2001年1月の野球殿堂入りのセレモニーでは、本人の希望で金田正一と小山正明を左右に真中に立って記念写真を撮っている。大男両名に挟まれる形になって長谷川の小柄さが目立ってしまうのだが、「ボクは小さいから『この体でようあれだけ投げたな』と言われる。金田とか小山君とかやって当たり前と思われる。だから、ボクはこの体ですごく得をしたんじゃ。」との理由で、あえて選んだ。広島球団においては、長谷川の後に太田垣(備前)喜夫、安仁屋宗八、外木場義郎、北別府学、佐々岡真司、大瀬良大地と、漢字三文字姓の投手が代々活躍していることから、現在でも「三文字の姓はカープのエースの証」(三文字エース伝説)と言われている。

出典:wikipedia

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