ジョゼフ・ポール・“ジョー”・トーリ(Joseph Paul Torre , 1940年7月18日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク出身の元プロ野球選手・監督。兄のフランク・トーリも元メジャーリーガー。ニューヨーク州ブルックリンで生まれ育つ。にアマチュアフリーエージェントでミルウォーキー・ブレーブス(現在のアトランタ・ブレーブス)へ入団。同年9月25日にMLBデビューする。元来捕手であったが、一塁手も務める。からまで5年連続でオールスターに出場し、にはゴールドグラブ賞を受賞。の開幕前に元MVPのオーランド・セペダと交換でセントルイス・カージナルスに移籍。カージナルス時代は名捕手ティム・マッカーヴァーとその後継者であるテッド・シモンズが在籍していたため、主に一塁手として活躍。にはマッカーヴァーがフィラデルフィア・フィリーズにトレードされたため捕手に戻るが、にはシモンズの成長により、三塁手に転向する。1971年に選手としての絶頂期を迎える。137打点と打率3割6分3厘を記録し、ナショナルリーグの二冠王に輝く。同年にはシーズン最多安打、最高塁打も記録し、最優秀選手に選出される。カージナルス時代の1970年からまで4年連続でオールスター出場を果たす。のシーズン後にニューヨーク・メッツにトレードされ、トレード後直ぐの日米野球で選手として来日(その後、にMLB開幕戦で監督として再来日)した。に現役を引退。選手生活18年間の通算成績は打率2割9分7厘、252本塁打、1185打点、2342安打である。1977年途中にメッツの監督に就任。就任した当初は選手兼任監督という立場で、たまに代打として出場することもあった。のシーズン終了までメッツの監督を務めるが、プレーオフ出場は成らなかった。からはアトランタ・ブレーブスの監督に就任し、1年目にブレーブスにとって1969年以来の西部地区優勝を果たすが、2年目のには地区2位、には3位に陥落する。から数年間テレビ解説者として活躍した後、にセントルイス・カージナルスの監督として現場復帰を果たす。しかしプレーオフ進出を果たすことなく、のシーズン中に監督として3度目の解雇を経験する。11月2日にニューヨーク・ヤンキースの監督に就任する。ニューヨーク・デイリーニューズは"Clueless Joe"(訳の分かっていない、トンチンカンなジョー)とまで酷評した。しかし翌にヤンキースを18年ぶりにワールドシリーズに導き、さらにからにかけてワールドシリーズ3連覇を達成。長らく低迷していたヤンキースの復活を実現する。トーリが監督就任したころチームの顔は横暴なジョージ・スタインブレナーオーナーだったが、トーリがその座に取って代わった。2003年には読売ジャイアンツから松井秀喜が移籍し、日本でもよく知られる監督となる。6月7日のシカゴ・ホワイトソックス戦ではMLB史上10人目の監督通算2000勝を達成し、MLB史上初めて「選手として2000本安打、監督として2000勝」を達成した人物となった。なお、この記録は後にギネス世界記録に認定されている。ヤンキース監督時代の12年間すべてでポストシーズン進出を果たした(地区優勝10回、ワイルドカード獲得2回)が、その最後の年となる2007年はディビジョンシリーズで敗退。同年オフ、球団は1年500万ドルにプレーオフで勝ち抜く度に100万ドルが加算され、ワールドシリーズへ進出すればは800万ドルで契約延長という条件を提示。トーリは出来高を含む契約を「侮辱」と受け、契約を固辞。10月18日にニューヨーク・ヤンキース監督を退任することを球団フロントに通知した。これによってヤンキースは周囲から激しい批判を受けたが、その多くはファンからだった。ヤンキースの後任監督にはジョー・ジラルディが就任。それから約半月後11月1日にロサンゼルス・ドジャースから監督オファーを受け、3年契約年俸総額1,300万ドルで合意した。なお、ドジャースはトーリの学生時代まで地元ブルックリンを本拠地としており、トーリ自身昔から大ファンであったという。就任初年度のは、若手やベテランを上手く駆使しながら見事に地区優勝を果たした。2年目のも前半から快進撃を見せ、31年ぶりの地区優勝連覇を果たした。シーズン終了後、監督を退団。後任の監督はヤンキース時代からのコーチとしてトーリに仕えてきたドン・マッティングリーが就任した。2月、MLB機構副会長に就任。1月4日、副会長を辞任し、ドジャースの買収を目指すグループに参加。3月23日にMLB機構副会長に復帰。さらに6月15日、WBCアメリカ代表監督に就任した。しかし、アメリカ代表は2次ラウンドで敗退した。には、ベテランズ委員会による選出でアメリカ野球殿堂入りを果たした。同年5月8日にはニューヨーク・ヤンキース監督時代の背番号6が永久欠番に指定された。3月にはキューバ共和国ハバナで開催された「タンパベイ・レイズ対キューバ代表の親善試合」に出席した。ニューヨーク・ヤンキースの監督だったことで知られるが、幼いころからナ・リーグ贔屓でニューヨーク・ジャイアンツとウィリー・メイズを応援し、ヤンキースは大嫌いだったと述べており、ヤンキースタジアムで初めてワールドシリーズを観戦したのは1956年10月8日のヤンキース対ブルックリン・ドジャースの第5戦で、大嫌いなヤンキースが負けることを願って生まれ故郷のチームであるドジャースを応援していたものの、この試合でヤンキースのドン・ラーセンがワールドシリーズ史上初の完全試合を達成。観ているうちに新たな歴史が刻まれるのではないかと期待し、達成された時は小躍りした。後に1999年7月18日にはドン・ラーセンがヤンキースタジアムで始球式を行い、その試合ではデビッド・コーンがモントリオール・エクスポズを相手に完全試合を達成しているが、この時のヤンキースの監督をつとめていたのはジョー・トーリであった。「大嫌いだったヤンキースの監督をつとめるとは、人生とはなんと皮肉なものだろう」とスコット・ピトニアック著の「ヤンキースタジアム物語」の序文で述べているポストシーズン通算84勝はMLB歴代1位(2位はトニー・ラルーサの70勝)
出典:wikipedia
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