オレンブルクあるいはオレンブルグ(, Orenburg)は、ロシア連邦の都市。沿ヴォルガ連邦管区・オレンブルク州の州都で人口は、526,430人。1938年から1957年までは、有名な飛行士ヴァレリー・チカロフにちなんでチカロフ(, Chkalov)と呼ばれていた。モスクワから南東に1480km。カザフスタンとの国境に近い。標高約150m。ウラル川が流れ、ウラル山脈の南端に位置する。文学「大尉の娘」の舞台のひとつにもなった。1552年のとその後のを経て、1557年にロシア帝国は名目上カザン・ハン国を征服した。しかし、バシキール人の反乱はその後、何度も繰り返された。1689年、ピョートル1世が、ジュンガルの孤立化を望んでいた清・ジュンガル戦争(第一次、1687年 - 1697年)中の清の康熙帝との間でネルチンスク条約を締結。1731年、ジュンガル・ホンタイジ国の略奪に耐えかねたカザフ・ハン国の三つのジュズが相次いでロシア帝国に庇護を求めたため、保護国化。ジュンガルがタシュケントとトルキスタンを占領。1734年、ロシア帝国は、南ウラル地方に東方の前線基地を建設する計画を立て、1735年に要塞都市を築いた。ヤイク川(、、反乱後にロシア語名はウラル川 と改名された)と()の合流地点であった。町の名前は「オリ川の要塞」の意味で、オレンブルクとなった。要塞の建設に反発するバシキール人は、を起こしたが、強力な弾圧が加えられた。1739年、オルスク(Orsk)と改名。1741年にオレンブルクの町はウラル川下流に移転するが失敗、1743年に再度移転する。これが現在の場所で、1734年に最初に作られた町(現在のオルスク)からは250kmも下流に移動したことになる。この移転が、オレンブルクをカザフ人の遊牧民への前哨基地としての町の性格を強めた。1755年から1759年にかけて、清の乾隆帝がジュンガル・ホンタイジ国を併合し、清・ジュンガル戦争が終結。はカザフの中ジュズ()へ逃亡後、病死(天然痘)。1773年のプガチョフの乱では、ウラル川地方の行政の中心として発展していたオレンブルクは、プガチョフの軍勢に半年間も包囲され、数千人の犠牲者を出し町は廃墟と化した。さらに18世紀末の大火などを経験するも、軍事拠点、交易の中心として立ち直った。グレート・ゲームの時代には、1830年代から1850年代にかけて、将軍によるウズベク3ハン国(ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国)侵略の基地となった。1833年、アレクサンドル・プーシキンは大尉の娘などの執筆調査でこの町に滞在、ロシア初のロシア語辞典を編纂することになる旧友のウラジーミル・ダーリ(Vladimir Dal)とオレンブルクで再会している。1853年にヴァシーリー・ペロフスキー将軍率いるロシア軍がヤクブ・ベクが守るアク・メチェト要塞(現クズロルダ)を占領。1865年にコーカンド・ハン国北部の経済都市タシュケントを征服。1868年にはサマルカンドを占領し、ブハラ・ハン国を保護国化した。1869年に帝政ロシア軍がカスピ海東岸に上陸。1873年にでヒヴァ・ハン国を占領。1876年にコーカンド・ハン国を占領。1877年にオレンブルクとサマーラ間の鉄道が完成し、その後はロシアと中央アジアを結ぶ交易の中心となる。1879年に。1880年から1881年のでアシガバートを占領。1906年、トランス・アラル鉄道(オレンブルク-タシュケント間)が完成し、カスピ海横断鉄道(トルクメンバシ-タシュケント間)と接続。これ以降、中央アジア(トランス・アラル鉄道、カスピ海横断鉄道)やシベリア(シベリア鉄道)への重要な鉄道分岐点なったサマーラがオレンブルクにとって代わる玄関口として発展する。バスマチ蜂起(1918年 - 1924年)。1920年、が誕生、オレンブルクがその首都になる。キルギス自治ソビエト社会主義共和国は1925年にカザフ自治ソビエト社会主義共和国と改称されるが、オレンブルクはロシアへの帰属を決め、代わりに同国の首都はクズロルダに移った。1929年には、トルキスタン・シベリア鉄道(タシュケント-ノヴォシビルスク間)が開通し、首都は再度アルマトイに移った。カザフ自治ソビエト社会主義共和国は、1936年にカザフ・ソビエト社会主義共和国となったが、オレンブルクはロシアに帰属し続けた。第二次世界大戦中、戦火を逃れるために多くの工場がヨーロッパロシアからオレンブルクに疎開、戦後の市の経済発展の土台となった。
出典:wikipedia
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