小津 安二郎(おづ やすじろう、1903年12月12日 - 1963年12月12日)は、日本の映画監督・脚本家。「小津調」と称される独特の映像世界で優れた作品を次々に生み出し、世界的にも高い評価を得ている。「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けたが、代表作にあげられる『東京物語』をはじめ、女優の原節子と組んだ作品群が特に高く評価されている。1903年(明治36年)12月12日、東京市深川区万年町(現在の東京都江東区深川)に、父寅之助と母あさゑの次男として生まれた。兄新一、妹登貴、妹登久、弟信三の五人兄弟。父寅之助は、伊勢商人「小津三家」の一つ小津与右衛門分家である新七家の六代目。与右衛門は深川の肥料問屋「湯浅屋」を営んでいた。本家から日本橋の海産物問屋「湯浅屋」と深川の海産物肥料問屋「小津商店」の両方を番頭として任されていた。安二郎は明治小学校附属明治幼稚園から1910年に東京市立深川区明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に進んだ。1913年(大正2年)、小津一家が父の郷里である松阪に移ったため、小津安二郎(以下小津)は松阪町立第二尋常小学校(現在の松阪市立第二小学校)に編入した。1916年(大正5年)、小学校を卒業して三重県立第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)へ進学し、寄宿舎に入る。このころ初めて映画と出会った。その中でも特に小津の心を動かした作品は1917年に公開されたアメリカ映画『』(監督トーマス・H・インス)であった。このころの小津は絵が上手で、ベス単やブローニーといった当時の最新カメラを操る芸術家肌の少年だったという。高校進学を控えた中学五年の夏、小津は問題行動を起こしたとされて退寮処分となり、自宅から通学することになる。1921年(大正10年)、商業の道に進んでほしい両親の期待にこたえるべく神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を受験したが落第した。神戸(神戸キネマ倶楽部ほか)や名古屋の映画館や地元の神楽座に通って、多くの映画を観たのもこの時期である。翌年の1922年(大正11年)には三重師範学校(現在の三重大学教育学部)を受験したが、これも落第。両親は「二浪するよりはまっとうな仕事についてほしい」と考え、小津は三重県飯南郡(現在の松阪市飯高町)にある宮前尋常高等小学校(現存せず)に代用教員として赴任した。小津の教員生活はわずか1年で終わったが、山村の児童たちに強烈な印象を残した。教え子だった柳瀬才治は、「当時としては新しかったローマ字を教えてくれたり、マンドリンを弾いていたりして忘れられない先生だった」と当時を振り返っている。子供たちに慕われた小津だったが、映画への愛着を捨てられず、1年で教員をやめて(東京に戻っていた)家族の元へ帰った。父親は初め、映画の仕事をしたいという小津の希望を聞かなかったが、最終的にこれを認めた。小津は叔父が地所を貸していて縁のあった松竹蒲田撮影所に入社した。1923年(大正12年)の夏だった。小津は撮影助手の仕事を得、月給30円を得た。直後の9月1日、関東大震災が発生。この非常事態に対処すべく、松竹社長大谷竹次郎の女婿・城戸四郎が臨時所長として蒲田撮影所にやってきた。城戸は当時の中心だった映画監督・島津保次郎らと今後の蒲田撮影所の方向性について話し合い、蒲田では現代劇映画をメインにしていくことを決めた。1924年に城戸は正式に所長に就任、新所長の元、松竹蒲田は現代劇の製作スタジオとして次々と優れた作品を生み出していく。城戸は俳優研究所も併設、ここから笠智衆ら新時代の映画俳優たちが生み出されていった。(このころ、後の小津組の中核となるシナリオライター野田高梧も蒲田へやってきている。)撮影助手時代の小津はまず碧川道夫や酒井健三らの下につき、監督では島津保次郎や牛原虚彦について映画製作を学んだ。1924年(大正14年)の12月、小津は当時の徴兵制度に従って一年志願兵として入隊し、翌1925年12月に除隊した。職場に復帰した小津は助監督として大久保忠素のもとにつき、現場で映画製作のノウハウを体得しながら、監督として必須の作業とされたシナリオ執筆に励んだ。そのうちの一本『瓦版カチカチ山』(映画化はされず)が城戸の目にとまった。1927年8月、「監督ヲ命ズ、但シ時代劇部」という辞令によって小津は念願の監督昇進を果たす。こうして小津は初監督作『懺悔の刃』(同年10月公開)をクランクインする。小津の長い監督歴の中で唯一の時代劇作品である。小津は撮影スケジュールの調整から初めてセットづくり、俳優への演技指導と充実した毎日を過ごすが、完成直前で思いかけず予備役召集がかかり、完成を斎藤寅次郎に託して入隊した。小津は後に「自分の作品のような気がしない」と語っている。同年11月、城戸の号令によって時代劇部が京都に移転。蒲田撮影所は現代劇に特化することになった。小津もこの方針に沿って次々に作品をつくりあげていく。1928年(昭和3年)には『若人の夢』(笠智衆が初めて小津作品に参加。)、『女房紛失』、『カボチヤ』、『引越し夫婦』、『肉体美』の5本、1929年(昭和4年)には『宝の山』、『学生ロマンス 若き日』(現存する最古の作品)、『和製喧嘩友達』(現存)、『大学は出たけれど』(一部が現存)、『会社員生活』(現存せず)、『突貫小僧』(一部が現存)の6本を完成・公開している。「一年一作」となった戦後の小津からは考えられないハイペースな製作であった。1930年(昭和5年)には『結婚学入門』(現存せず)、『朗かに歩め』(現存)、『落第はしたけれど』(現存)、『その夜の妻』(現存)、『エロ神の怨霊』(現存せず)、『足に触つた幸運』(現存せず)、『お嬢さん』(現存せず)の7本を作りあげ、これが1年間製作の最高本数になる。翌1931年(昭和6年)になると世界恐慌の影響もあって製作本数が減少、同年は3本、翌年の1932年(昭和7年)は4本の製作にとどまっている。この時代の小津は「小市民映画」と呼ばれるジャンルにおける第一人者とみなされており、批評家からの評価もすでに高かった。蒲田撮影所長の城戸四郎も小津作品の特徴を『人生の真実を小市民の生活に発見するもの』と高く評価している。1933年(昭和8年)、『東京の女』、『非常線の女』、『出来ごころ』の3本を製作。この年、小津は気鋭の新進監督山中貞雄と京都で知り合い、意気投合する。しかし1934年(昭和9年)4月2日、父寅次郎が狭心症で急逝した。このころ、国内ではトーキー映画が増えていたが、小津は拙速なトーキー化には慎重な姿勢を見せていた。しかしトーキーの研究と準備は続けていた。こうして1936年(昭和11年)、小津初のトーキー作品が製作される。外国向けに歌舞伎の演目を映像化したドキュメンタリー映画『鏡獅子』である。トーキーの『一人息子』もこれと平行して製作された。これらに先立って公開された『大学よいとこ』は小津の最後のサイレントであり、現存しない最後の作品になっている。1937年(昭和12年)に『淑女は何を忘れたか』を完成後の8月、京都から東京に移って東宝で監督業をしていた親友の山中貞雄に召集がかかったことで、小津は身近に迫る戦争の暗い影を感じ取った。9月にはいると小津も応召し、9月24日に大阪から出航して中国戦線に向かった。小津は指宿三郎少佐率いる第二中隊に属する第三小隊で班長を務めた。小津の部隊は南京総攻撃(12月10日-13日)には間に合わず、陥落後の南京を越えて奥地へと進軍した。1938年(昭和13年)1月12日、南京郊外の包容で山中貞雄と再会、久闊を叙した(山中は同年9月に急性腸炎を発症して開封の野戦病院で世を去るため、これが2人の別れになった)。6月には伍長から軍曹に昇進して漢口作戦に従事、以後も各地を転戦した。1939年(昭和14年)6月26日、九江で帰還命令を受けて7月13日に神戸へ上陸、原隊に復帰して除隊した。1年10ヶ月におよぶ戦場暮らしであった。1939年、内務省の指示で映画法が成立し、映画を製作前に事前検閲するシステムなどが導入され、映画が国家に完全に統制されることになった。小津は復帰第1作として『彼氏南京に行く』というシナリオを執筆したが、これが映画法の事前検閲を通らず、映画化を断念した(このシナリオは戦後に仕立て直されて『お茶漬の味』になる)。小津の作品ですら検閲ではねられたこの事件は、映画界に衝撃を与えた。小津はめげずに1941年(昭和16年)に『戸田家の兄妹』をつくった。『戸田家の兄妹』は小津作品として初めての大ヒットだった。小津は1932年から1934年まで作品が3年連続キネマ旬報ベストテン第1位となるなど批評家からの評価は高かったが、興行的な成功にはなかなか恵まれていなかった。次の作品『父ありき』(1942年4月公開)製作中に日米が開戦。小津の次回作の公開は1947年(昭和22年)まで待つことになるが、『父ありき』ではそれまでも小津作品にたびたび出演してきた笠智衆が初めて主演しており、この時点ですでに戦後の小津作品の骨格が完成していたことがうかがえる。日米開戦後、小津は松竹が託されたビルマ作戦の映画化(『ビルマ作戦 遥かなり父母の国』)にあたったが、完成しなかった。1943年6月、軍報道部映画班に徴集されて福岡の雁ノ巣飛行場から監督の秋山耕作、シナリオ作家の斎藤良輔と共に軍用機でシンガポールへ向かった。「小津組」のカメラマン厚田雄春も後を追って到着した。シンガポールでは『オン・トゥー・デリー』という仮題のつけられたチャンドラ・ボースの活躍を映画化したものの製作に取り掛かったが、これもやはり完成しなかった。小津はシンガポールで終戦を迎えるが、同地では「映写機の検査」の名目で大量のアメリカ映画を見ることができたという。その中には『嵐が丘』、『北西への道』、『レベッカ』、『わが谷は緑なりき』、『ファンタジア』、『風と共に去りぬ』、『市民ケーン』などが含まれていた。終戦後はしばらくの抑留生活を経て、1946年(昭和21年)2月11日に広島港へ上陸して帰国した。復員した小津は高輪の実家に戻ったが母はいなかった。母あさゑは周囲の人が疎開を進めても「安二郎はこの家に戻ってきますから」といって頑として聞かなかったが、昭和20年3月10日の空襲のすさまじさに、さすがに疎開を決意、千葉県の野田市に住む妹登久の嫁ぎ先山下家に世話になっていた。小津は野田におもむき、借家を借りて母と暮らした。しばらくは仕事を離れたかった小津だったが、会社の度重なる催促に重い腰を上げて戦後第1作『長屋紳士録』(1947年(昭和22年))をつくりあげた。次に高峰秀子を迎えて『月は上りぬ』の製作に取り掛かったが、高峰らの予定が合わずに延期になる。そこで志賀直哉の「暗夜行路」をモチーフにした作品『風の中の牝』(1948年(昭和23年))の製作に取り組んだ。(小津は戦後、志賀直哉と知己を得ていた。)しかし、『風の中の牝』はあまり評判が良くなく、自身でも「あまりいい失敗作ではなかった」と振り返っている。この作品の失敗は、小津の持ち味である現実を超えた端正な美しさの表現が、敗戦後の生活の現実をリアルに描く方向では生きないことを示すものであった。これは脚本家の野田高梧も指摘したところであった。そのため、小津は以後の全作品で野田と共同で執筆することになる。「世界に類のない小津の厳格で独創的な技法は「晩春」で完璧の域に達し、以後、一作ごとにさらに磨きが加えられていくことになる。」(佐藤忠男、『日本映画史』第2巻、岩波書店、1995年、p281)1949年(昭和24年)、原節子を初めて迎えた作品『晩春』を発表。この作品はさまざまな点(独自の撮影スタイルの徹底、伝統的な日本の美への追求、野田高梧との共同執筆、原節子と笠智衆の起用)で『小津調』の完成形を示すと共に、戦後の小津作品のマイルストーンとなった。以降、小津は「一年一作」と呼ばれる寡作監督になるが、逆に一本一本が徹底的に作りこまれ、完成度が高い作品となっていく。1950年(昭和25年)、新東宝で『宗方姉妹』を撮り、ついで1951年(昭和26年)の『麦秋』が芸術祭文部大臣賞を受賞、名監督としての評価を決定的なものとした。小津は戦後、普段は母と野田で暮らし、仕事が忙しくなると大船撮影所本館の個室で寝起きするという生活を送っていたが、1952年(昭和27年)に大船撮影所で火災があったため、5月に母を連れて鎌倉山之内に転居。そこを終の棲家とする。この年、野田と練ったシナリオが完成せず、仕方なく戦前に検閲ではねられた『お茶漬の味』を改稿して公開までこぎつけた。小津は同作について自身で『なんとか一年一作を守るために糊塗したもので後味が悪い』と率直に述べている。このとき完成しなかったシナリオをもう一度練り直して作られたのが『東京物語』(1953年(昭和28年))である。原節子と笠智衆をメインに据え、家族のあり方を問うたこの作品は小津の映画人生の集大成であり、代表作となった。1953年(昭和28年)、日本で本格的なテレビ放送が開始され、ハリウッドなどの映画界もカラー化してシネマスコープ、ワイドスクリーンなどさまざまな新機軸を打ち出していたが、小津はひたすら静観の構えだった。1954年(昭和29年)から1955年(昭和30年)にかけて、小津はひとつの事件に巻き込まれる。それはかつて自分がシナリオを書いて映画化を企画した作品『月は上りぬ』に関することであった。小津はこれを、映画監督を志していた女優田中絹代の監督作に譲ったが、いざ製作が始まると日活と五社協定の各社がもめるなど製作が難航した。小津は徹底して田中絹代を応援し、筋を通す形で松竹を退社するが、かえって人間的信頼を高めた。1955年(昭和30年)日本映画監督協会の理事長に就任。里見、大佛次郎、菅原通済ら鎌倉在住の文化人との交遊が深まる。『月は上りぬ』の一件もあって次の作品である『早春』は公開が1956年(昭和31年)となった。1958年(昭和33年)、中学時代から愛読していた里見に小津が相談を持ちかけた結果として、同時並行で原作小説とシナリオを書き進める形で『彼岸花』が作られた。同作品は小津初のカラー作品である。この年、ロンドン国立映画劇場で日本映画特集が行われ、10月には『東京物語』が英国サザーランド賞を受賞。『彼岸花』で3度目の芸術祭文部大臣賞、さらにこれらの功績により紫綬褒章を受章。1959年(昭和34年)3月、映画人として初めて日本芸術院賞を受賞。同年、戦前の『浮草物語』のセルフリメイクである『浮草』を大映で製作した。1960年(昭和35年)には『彼岸花』と同じ方式で里見とコンビを組んで『秋日和』を完成する。同年、芸術選奨文部大臣賞を野田とともに受賞。1961年(昭和36年)には東宝で『小早川家の秋』を撮るも、1962年(昭和37年)2月、最愛の母のあさゑが世を去った。11月、芸術院会員に映画監督としてただ一人選出。同じ月に公開された『秋刀魚の味』が最後の作品となった。(小津と野田が次回作として準備していた『大根と人参』は渋谷実監督の手によって映画化され、『小津安二郎記念作品』と銘打って1965年(昭和40年)に公開されている。)1963年(昭和38年)里見と共に初めてテレビ用に書き下ろしたNHKのドラマシナリオ『青春放課後』を書くがその後体調に異変を感じ、同年4月にがんセンターで手術を受けた。その後、コバルトとラジウムの針を首筋の患部に刺した。退院前に洋服屋に採寸させて2着作ることにしたが、翌日「秋になったら、またどんなスタイルが流行るかわからんしな」といって取り消す。いったん退院するが10月に東京医科歯科大学医学部附属病院に再入院、11月4日に佐田啓二が娘の貴恵子(中井貴恵)を連れて見舞うと、二人で「スーダラ節」を歌った。11月9日に吉田喜重が婚約したばかりの岡田茉莉子を連れて挨拶に来る。岡田には「お嬢さんには、親子二代、世話になった」といい、吉田に「映画はドラマだ、アクシデントではない」と二度繰り返した。12月12日自身の還暦の日、午後12時40分に逝去した。、生涯独身だった。その夜、北鎌倉の自宅に遺体が帰った。喪服姿の原節子と杉村春子は玄関の三和土(たたき)に立ち尽くしたまま号泣した。12月16日、築地本願寺の葬儀は盛大だった。里見の弔辞は「君は綺麗なもの、間違のないことしか相手にしなかった。ねつい仕事ぶりで、自身納得がゆくまで押しまくった。/ばばあ【前年亡くした母親】は俺が飼育してゐるのだ、などと、始終ばばあ呼ばはりをしながら、こよなく母上を愛した」から始まる。ただ、「小津には色々貸しがある。香典は本社におさめるように」という城戸四郎の言葉を伝えにきた松竹の経理部長を、葬儀を仕切った若手監督・井上和男は怒鳴りつけた(年明けに松竹をクビになった)。死後勲四等旭日小綬章を追贈された。戦後の小津作品の中心を担った女優の原節子は、小津の死と共に一切の公の場から姿を消し、2015年に亡くなるまで姿を見せなかった。佐田啓二は翌年、自動車事故で亡くなった。北鎌倉円覚寺の墓碑にはただ一字「無」と彫られている。「小津調」とは、小津安二郎がつくりあげた独自の映像世界・映像美をさす。その主な特徴として、ロー・ポジションでとること、カメラを固定してショット内の構図を変えないこと、人物を相似形に画面内に配置すること、人物がカメラに向かってしゃべること、クローズ・アップを用いず、きまったサイズのみでとること、常に標準レンズを用いること、ワイプなどの映画の技法的なものを排することなどがある。また、日本の伝統的な生活様式へのこだわりや、反復の多い独特のセリフまわし、同じ俳優・女優が繰り返しキャスティングされることも小津調を作り上げる要素の一つになっている。小津作品というと一般的に伝統的な日本文化の世界と捉えられがちだが、初期の小津はハリウッド映画(特にエルンスト・ルビッチやウィリアム・A・ウェルマン)の影響を強く受けた作品を撮っている。たとえば『非常線の女』(1933年)には、英語のポスターや磨き上げられた高級車、洋館ばかりの風景など当時のハリウッドのギャング映画さながらの世界が再現されている。佐藤忠男は、小津がアメリカ映画から学び取った最大のものはソフィスティケーション、言い換えれば現実に存在する汚いものや不純なものを全て取り去り、美しいものだけを画面に残すというやり方だったと指摘している。佐藤の指摘するとおり、小津は画面から一切の不純物を排除した。小津自身、「私は画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど汚いものを取り上げる必要のあることもあった。しかし、それと画面の清潔・不潔とは違うことである。映画ではそれが美しくとりあげられなくてはならない」と述べている。小津は撮影に臨んでかならず自分自身でカメラを覗き込んで厳密に構図を決定していた。その構図は計算しつくされたものであった。食事の場面で一見無造作に置かれているようにみえる食器類も形を含めてすべてバランスを考えていた。カラー映画の時代になると、小津は色調にもこだわり、形の面でも色の面でも計算しつくされた画面をつくりあげた。日本画家の東山魁夷は、『秋日和』を評して「構図の端正、厳格な点と美しい色の世界にひかれる」と語っている。晩年のカラー作品では、従来の構図の完璧さに加えて、小津は二つの点にこだわっている。一つは画面のアクセントとしてなんらかの形で「赤」を入れるということ、そして書画骨董の類にできる限り本物の美術品を使うということである。たとえば『秋日和』では、梅原龍三郎の薔薇の絵、山口蓬春の椿の絵、高山辰雄の風景画、橋本明治の武神像図、東山魁夷の風景画など全て実物が用いられている。この点に関して小津は「たとえば床の間の軸や置物が筋の通った品物といわゆる小道具のマガイ物を持ち出したのでは、私の気持ちが変わってくる。出演する俳優もそうだろう。また、人間の眼はごまかせても、キャメラの眼はごまかせない。ホンモノはよく写るのである」と断言している。また、美しさのこだわりから、小津は戦後の作品でも焼け跡や汚い風景、服装は画面にいっさい入れなかった。吉田喜重は小津作品には軍服を着た人物が一切登場しないことを指摘している。小津が求めた画面の完璧さは小道具や大道具の配置、色調にとどまらず、演じる俳優たちにも求められた。俳優の位置、動きから視線まですべて小津監督の計算したとおり実行することが求められた。これによって画面に完璧な美が生まれた。松竹の後輩として小津監督を見ていた吉田喜重は美しさへのこだわりから生み出される画面の美について「それはこの世界が無秩序であるがゆえに実現した、かりそめの幻惑であったのだろう。おそらく小津さん自身のこの世界を無秩序と見るその眼差しが、このなにげない反復の運動、その美しい規則性を見逃すことなく捉え、無上の至福にも似た、かりそめの調和といったものをわれわれに夢みさせるのである」と述べている。1920年代、ハリウッドで映画製作に携わっていたヘンリー小谷(小谷倉市)が松竹蒲田撮影所に招かれ、ハリウッド流の映画製作技術を伝えた。その一つに、構図の中に俳優たちを配置し、その構図が崩れないように、カメラの動きと俳優の動きを制限するやり方があった。この手法が小津に大きな影響を与えた。小津は俳優の配置やカメラの動きだけでなく、俳優が微妙で正確な動作を完璧に行うことを求めた。また、セリフの口調やイントネーションなどは小津が実際に演じて見せて、俳優に厳密にそのとおり演じさせた。少しでも俳優の動きと小津のイメージにずれがあると、際限なくリハーサルが繰り返された。たとえば『麦秋』での淡島千景は、原節子と話す場面で小津からNGを出され続け、20数回まで数えてその後は回数を忘れた。同様に『秋刀魚の味』で岩下志麻は巻尺を手で回す場面で何度やってもOKが出なかった。小津が『もう一回』『もう一回』といい続け、岩下はNGを80回まで数えて後はわからなくなったという。また小津は自分の中でイメージが完成されていただけに、俳優が自由に「演技」をすることを好まなかった。笠智衆は『父ありき』の撮影前に小津から「ぼくの作品に表情はいらないよ。表情はなしだ。能面で行ってくれ」といわれたと述べている。小津のもとで働いていたカメラマンの川又昴は俳優たちを自らの構図どおりに厳格に動かす小津のやり方に疑問を感じ、小津のもとを離れていった。彼は「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の一翼を担うことになるが、後に小津から「おれだって蒲田のヌーヴェルヴァーグだったんだぞ」といわれたことを忘れることができなかった。篠田正浩は、原研吉がかつて「(小津は)初めから自分の世界がある。演繹的にはめ込んでいく。だから小津安二郎の映画は人間を生かさない。昆虫採集のようだ。」と言ったことを覚えており、小津はそのやり方ゆえに弟子が育たない結果になったと見ている。小津作品では「娘の結婚」や「親子の関係」など同じテーマが繰り返し描かれる。それだけでなく、登場する俳優たちの顔ぶれもほぼ決まっており、同じ役名も繰り返し登場した。たとえば笠智衆は「周吉」役を5回(『晩春』、『東京物語』、『東京暮色』、『彼岸花』、『秋日和』)演じ、「周平」役も3回(『父ありき』、『秋刀魚の味』)演じている。原節子は「紀子」という名の役を3回(『晩春』、『麦秋』、『東京物語』)演じたが、それらは「紀子三部作」と呼ばれることもある。小津が多く起用した俳優たちには、戦前では19本に出演した斎藤達雄、ほかに坂本武、岡田時彦、飯田蝶子、吉川満子などがいる。戦後では笠智衆と原節子が特筆される。笠についていえば、彼は主役こそ『父ありき』(1942年)が初めてだが、すでに『若人の夢』(1928年)で端役として出演し、以後ほとんどすべての小津作品に出演している。原は小津の理想のヒロインとして『東京物語』を頂点とする小津の絶頂期を飾った。松竹の看板女優であり、戦前から戦後まで長きにわたって小津作品に参加した田中絹代は、戦前は可憐な娘役で、戦後は健気な妻や強い母の役で小津を支えた。佐野周二も戦前から戦後まで4本の作品に出演。佐野周二、上原謙と3人で「松竹三羽烏」として売り出された佐分利信は『戸田家の兄妹』と『父ありき』ではさわやかな青年役であったが、戦後の『お茶漬の味』、『彼岸花』、『秋日和』では安定感のある中年の役を演じている。特に『秋日和』と『彼岸花』での中村伸郎、北竜二との3人でのかけあいは作品のスパイスとなっている。脇役でも強い印象を残す俳優たちは多い。三宅邦子は戦前から戦後まで9本の作品に参加している。文学座の杉村春子は『晩春』から『秋刀魚の味』まで戦後の小津作品には欠かせない女優であった。俳優座の東野英治郎も『東京物語』を含めて戦後の5本に出演している。ほかにもプライベートでも小津から息子のように愛された佐田啓二は4本に出演、親子二代で小津作品に出演し、早世した父岡田時彦の思い出を小津から聞いた岡田茉莉子、岡田茉莉子と同じように母娘二代で小津作品に出演している桑野通子と桑野みゆき、杉村と同じ文学座出身の中村伸郎(『東京物語』ほか5本)、中村伸郎とセットで登場する北竜二、出演時間こそ短いものの強い印象を残す高橋とよや、つねに飲み屋の女性を演じた桜むつ子などもあげられる。小津の作品はいつも同じだという批判に対して小津は「どうかすると、「たまにゃ変わったもの作ったらどうだい」という人もいるが、ボクは「豆腐屋」だといってやるんです。「豆腐屋」に「カレー」だの「とんかつ」つくれったって、うまいものが出来るはずがない」と述べている。小津映像の特徴の一つに「ロー・ポジション」があげられる。低い位置から取られた映像は日本家屋での座り芝居を見せることに好都合で、同じ構図のショットを繰り返すことが、見るものに心地よい安定感を与えることになった。よく混同されることだが、「ロー・ポジション(ロー・ポジ)」は「ロー・アングル」と同義ではない。前者はカメラの位置を下げることで、後者はカメラの仰角を上げる(アオル)ことをさしている。小津はカメラをほとんどアオらなかった。カメラを低い位置にすえて、ごくわずかにレンズを上にあげていた。基本的にはカメラを大人の膝位置より低く固定し、50ミリの標準レンズでとった。小津はすべての場面において、カメラの位置を必ず自身で設定した。スタッフは「ロー・ポジ」用に特別に極低の三脚を作り、小津の好きな赤に塗って「蟹」と呼んだ。(「蟹」は金属製、それ以前に用いられた木製のものは「お釜の蓋」と呼ばれていた。)小津が愛したこの「ロー・ポジ」の意味と起源については「子供の視点」であるとか、「客席から舞台を見上げる視点」とか「畳の縁の黒さを目立たせないため」など諸説あるが、小津自身は「『肉体美』(1928年)で、バーのセット内での撮影時、少ないライトをあちこち動かしながら撮影をしていたら、カットごとに床の上のあちこちにコードが動く。いちいち片付けたり、映らないようにするのも手間なので、床が映らないよう低い位置からカメラを上向けにした。「出来上がった構図も悪くないし、時間も省けるので、これから癖になり、キャメラの位置もだんだん低くなった。しまいには「お釜の蓋」という名をつけた特殊な三脚をたびたび使うようになった」と述べている。小津調の特徴である人物を向き合う人物を正面からとらえる「切り返しショット」は通常の映画の「文法」に沿っていない。通常、映画の「文法」にそった映像では切り返しのショットでカメラが二人の人物を結ぶイマジナリーラインを超えることはない。しかし、小津は意図的にこの「文法」を無視した。少なくとも中期以降の作品においては、切り返しショットがイマジナリーラインを超えて真正面から捉える手法の大原則が破られることはなかった。こうした映画文法の意図的な違反が、独特の時間感覚とともに作品に固有の違和感を生じさせており、特に海外の映画評論家から評価を得ている。もともと、この「文法破り」は日本間での撮影による制約から生まれたという。すなわち、日本間では座る位置がほとんど決まっている上に、狭い和室ではカメラの動く範囲が窮屈になる。その上でこのルールに従うと背景は床の間、ふすま、縁側などに限定され、自分の狙うその場の雰囲気が表現できない。「そうしたことから試みたのっぴきならない違法」だという。小津自身はさらに次のように述べている。「たとえば、こういう文法がある。AとBが対話をしているところを、交互に、クローズ・アップでとるときに、カメラはAとBとを結ぶ線をまたいではならないというのだ。つまりABを結ぶ線から、少し離れたところからAをクローズ・アップする。すると画面に写ったAの顔は左向きになっている。こんどは、ABを結ぶ線の同じ側で、前とは対照的な位置にカメラを移してBをクローズ・アップする。すると、Bは画面では右向きとなるわけだ。両者の視線が客席の上で交差するから、対話の感じが出るというわけだ。もし、ABを結ぶ線をまたいだりすると、絶対に対話でなくなるというのである。しかし、この“文法”も、私に言わせると何か説明的な、こじつけのように思えてならない。それで私は一向に構わずABを結ぶ線をまたいでクローズ・アップを撮る。すると、Aも左を向くし、Bも左を向く、だから、客席の上で視線が交るようなことにはならない。しかしそれでも対話の感じは出るのである。おそらく、こんな撮り方をしているのは、日本では私だけであろうが、世界でも、おそらく私一人であろう。私は、こんなことをやり出して、もう三十年になる。それで私の友人たちー故山中貞雄とか稲垣浩、内田吐夢などーは、どうも私の映画は見にくいと言う。撮り方が違っているからである。では終りまで見にくいかと聞くと、いや初めのうちだけで、すぐに慣れるという。だから、ロング・ショットで、ABの位置関係だけ、はっきりさせておけば、あとはどういう角度から撮ってもかまわない。客席の上での視線の交差など、そんなに重要なことではないようだ。どうも、そういう“文法”論はこじつけ臭い気がするし、それにとらわれていては窮屈すぎる。もっと、のびのびと映画は演出すべきものではないだろうか」。パンについても『彼岸花』の撮影中に、小津、岩崎昶、飯田心美の鼎談が『キネマ旬報』(No.212 1958年8月下旬号“酒は古いほど味がよい 「彼岸花」のセットを訪ねて小津芸術を訊く”)で行われ、独特のカメラワークについて論じた中で、小津は「絶対にパンしない」と言い、次のような「名言」をいう(太字は引用者)。性に合わないんだ。ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従うから、どうにもきらいなものはどうにもならないんだ。だから、これは不自然だということは百も承知で、しかもぼくは嫌いなんだ。そういうことはあるでしょう。嫌いなんだが、理屈にあわない。理屈にあわないんだが、嫌いだからやらない。こういう所からぼくの個性が出てくるので、ゆるがせにはできない。理屈にあわなくともぼくはそれをやる。小津は「映画の文法」というものに対して批判的で、「機械の機能が画面に現れただけのフェイド・イン、フェイド・アウト、オーバーラップをまるで文法のごとく考えるのはじつに無定見な話だ。文法でもなんでもない、機械の属性だ」と言い切っている。小津安二郎はすでに1930年代に芸術的な作品を撮る監督として評論家からの定評を得ていた。しかし、なかなか興業的にヒットする作品が出ないことが自身の悩みだったが、『戸田家の兄妹』(1941年)が初めて商業的に成功し、以降ヒット作を連発した。特に戦後になると年一作の寡作となって「巨匠」の名をほしいままにし、『東京物語』など原節子と組んだ一連の作品によって日本映画界の重鎮とみなされるようになった。しかし映画研究者の佐藤忠男が「(1950年代後半)俳優たちにそのもっとも美しい姿を表出させる演出力において、この頃、小津安二郎は比類のない高さに達していた。年配の批評家たちや観客はそれを無条件に享受した。しかし若い批評家たちや観客は必ずしもそうではなかった。彼らには小津が苛烈な現実社会とは殆んど無縁なブルジョア的な趣味的な世界に遊んでいると見えた。」(佐藤忠男、『日本映画史』第3巻、岩波書店、1995年、p21)と述べているように、昭和30年代を過ぎると、特に若い世代から小津の作品の「古臭さ」に批判が行われるようになった。「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれた一群の新進監督たち(大島渚や篠田正浩や吉田喜重など)も小津を旧世代の監督の代表と見て批判的であった。吉田喜重は、ある映画雑誌の対談で『小早川家の秋』を「若い世代におもねろうとしている」と批判したことがあった。すると1963年の松竹監督会新年会の宴席で、上座にいた小津が末席にいた吉田の前にやってきて黙って酒を注いだ。二人がほとんど言葉を交わすことなくひたすら酒を注ぎあったので、宴席は通夜のようになってしまった。そのうち酔いのまわった小津は吉田に、「しょせん映画監督は橋の下で菰をかぶり、客を引く女郎だよ」といったという。後に吉田は小津の可愛がった女優岡田茉莉子と結婚し、死の床についていた小津のもとを訪ねた。吉田は小津の変わり果てた姿に言葉を失ったが、小津は帰り際の吉田に「映画はドラマだ、アクシデントではない」と口ずさむように言ったという。海外での評価については、小津の存命中に『東京物語』への英国サザーランド賞の授与(1959年)があったとはいえ、それほど知られているとはいえなかった。しかし、没後ヨーロッパを中心に小津作品への評価が高まり、その独特の映画スタイルが斬新なものとしてもてはやされるようになった。著名な映画監督、評論家たちも小津映画への賞賛を口にするようになった。現在では小津安二郎は溝口健二、黒澤明らと並んでもっとも国際的に支持される日本の映画監督の一人となっており、『東京物語』はヨーロッパで特に人気が高い。小津を敬愛し、あるいは小津からの影響を明言している作家は世界的にひろがる。ジャン=リュック・ゴダールは自身の作品である映画史において古今東西の膨大な監督に言及しているが、日本人監督としては溝口健二・大島渚・勅使河原宏と並んで小津安二郎の四名だけを取り上げている。アッバス・キアロスタミは『5 five 小津安二郎に捧げる』を、ヴィム・ヴェンダースは『東京画』を、侯孝賢は『珈琲時光』をそれぞれ小津に捧げる形で監督しており、さらにヴェンダースは代表作『ベルリン・天使の詩』のエンディングに「全てのかつての天使、特に安二郎、フランソワ、アンドレイに捧ぐ」との一文を挿入している。また、ジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』では台詞の中に「トーキョー・ストーリー」などの小津作品の名称の競走馬が何気なく登場している。アキ・カウリスマキは「彼岸花」に登場している赤いやかんを小津作品に対する憧憬の象徴としており、自作品においてもしばしば赤い色のオブジェを意識的に登場させている。ジュゼッペ・トルナトーレの『みんな元気』は、老いた父親がイタリア各都市の子どもたちを訪ねる話で『東京物語』へのオマージュとなっている。日本でもかつては「古い」といわれた小津安二郎の作品群が、日本映画の一つの完成形として確固とした評価を得るようになった。特に70~80年代に革新的な映画批評を展開していた蓮實重彦の小津に対する高い評価が広く影響を与えた。立教大学で蓮實の教えを受けた周防正行は小津へのオマージュ作品『変態家族 兄貴の嫁さん』を監督している。また漫画家の吉田戦車も1989年に小津へのオマージュ短篇「小春日和」(単行本『タイヤ』収録)を発表している。小津の生誕100周年にあたる2003年には各地で上映会などの記念イベントが催され、12月11日と12日の二日間には東京の有楽町朝日ホールで小津安二郎生誕100年記念シンポジウム「OZU2003」が行われた。このシンポジウムは蓮實重彦、山根貞男、吉田喜重をコーディネーターとし、パネリストにペドロ・コスタ、侯孝賢、アッバス・キアロスタミ、青山真治、黒沢清、是枝裕和、淡島千景、井上雪子、岡田茉莉子、香川京子らを招いて行われた。監督作品は全54作(うち現存が確認できないものは17作品※)。
出典:wikipedia
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