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浅野吉長

浅野 吉長(あさの よしなが)は、安芸広島藩の第5代藩主。浅野家宗家6代。天和元年(1681年)7月1日、第4代藩主・浅野綱長の長男として江戸で生まれる。元禄元年(1688年)6月18日、将軍・徳川綱吉に拝謁する。元禄8年(1695年)12月4日、従四位下備後守に任官し、元服に際して将軍徳川綱吉、父・綱長双方より偏諱を受け、吉長と改名する。宝永5年(1708年)3月26日、家督を継ぐ。同年11月1日、安芸守に改める。同年12月18日、侍従に任官する。正徳2年(1712年)11月、林信篤から伊達家との和解を説得される。同時に稲葉正往も伊達吉村に浅野家との和解を説得した。先祖の浅野長政は、伊達政宗から絶交の通告を受けており、それ以来浅野家と伊達家は絶交状態になっていた。正徳3年1月、再び林信篤から伊達家との和解を説得される。稲葉正往・林信篤は、浅野家と伊達家の不和は江戸城内で見苦しいこと、他家でも和解の事例はあることなどを指摘し、説得を試みたのである。当初、吉長は先祖に対する不孝であるとして和解を渋っていたものの、親戚であった前田綱紀、徳川吉通らの説得もあり、和解に応じる姿勢に転じた。しかし、伊達家側は国元の重臣の反対を抑えられず、和解は実現しなかった。享保10年(1725年)、広島藩の藩校として、白島稽古屋敷の一部を割いて「講学所」(現在の修道中学校・修道高等学校)を創始した。享保15年(1730年)、弟の浅野長賢に対して広島新田藩3万石を分知する。享保17年12月22日、左少将に任官する。元文4年(1739年)、宮島の大鳥居を再建している。湯治場「湯の山温泉」は吉長公ゆかりの温泉として知られ、寛延3年(1750年)に神殿・拝殿・旧湯治場を再建・竣工した。宝暦2年(1752年)に広島で死去した。享年72。跡を長男・宗恒が継いだ。

出典:wikipedia

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