ジョゼ・マリオ・ドス・サントス・モウリーニョ・フェリックス (José Mário dos Santos Mourinho Félix、1963年1月26日 - )、通称ジョゼ・モウリーニョ(José Mourinho)は、ポルトガル・セトゥーバル出身のサッカー指導者。2016-17シーズンよりプレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドFCの監督を務める。ポルトガル語での発音()に近い日本語表記はジュゼ・ムリーニュ。監督として唯一UEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに4度選ばれている。また過去に4人しか達成していない、異なる2つのチームを欧州王者に導いた監督のうちの1人であり、監督としてイングランド、イタリア、スペインのリーグ戦と国内カップ戦(プレミアリーグ、セリエA、プリメーラ・ディビシオン)優勝を成し遂げた。 モウリーニョは現在世界最高の監督の一人と目されている。チェルシーで監督としての年俸は1000万ポンドであった。選手生活はポルトガル2部で始まった。リスボン工科大学でスポーツ科学を学び、イギリスではコーチングコースに参加した。リスボンでは、体育教師として働きながら、ユースチームの指導者やスカウト、コーチとしてしばらくの間働いた。1990年代始めに、ボビー・ロブソンの通訳として、ポルトガルのスポルティングCPとポルト、スペインのバルセロナで働いた。ロブソンの退任後もバルセロナに残り、後任のルイス・ファン・ハールと働いた。監督に就任したベンフィカとウニオン・レイリアでは、短期間であったものの成功を収め、ウニオン・レイリアでは過去最高位でシーズンを終えた。2002年に監督としてポルトに戻ると、2003年にはプリメイラ・リーガ、タッサ・デ・ポルトガル、UEFAカップを制した。翌年にはスーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラに勝利、リーグは2連覇を果たし、更にUEFAチャンピオンズリーグに優勝し、クラブを欧州チャンピオンへと導いた。翌2004-05シーズン、イングランドプレミアリーグのチェルシーFCに移ると、最初のシーズンに最多勝点記録95で50年振りにリーグを制し、フットボールリーグカップも優勝した。2シーズン目もチェルシーはリーグを制し、2006-07シーズンはリーグは2位に終わったものの、FAカップとリーグカップの2冠を達成した。モウリーニョはクラブオーナーのロマン・アブラモヴィッチとの不和が報道される中、2007年9月に退任した。2008年、イタリアセリエAのインテル・ミラノの監督に就任した。3カ月でスーペルコッパ・イタリアーナを制すると、リーグでも優勝を果たした。2009-10シーズン、インテルはイタリアクラブ史上初となるセリエA、コッパ・イタリア、UEFAチャンピオンズリーグの三冠を達成した。2つの異なるクラブを率いて欧州チャンピオンとなったのは、これまでエルンスト・ハッペル、オットマー・ヒッツフェルト、ユップ・ハインケス、モウリーニョの4人のみである。2010年には初めて設立されたFIFAバロンドール最優秀監督賞を受賞した。2010年、レアル・マドリードと契約し、最初のシーズンにはコパ・デル・レイを制した。翌年にはリーガ・エスパニョーラを制し、トミスラフ・イヴィッチ、エルンスト・ハッペル、ジョバンニ・トラパットーニに次いで、異なる4カ国でリーグタイトルを制した4人目の監督となった。2013年6月にマドリードを退任した後、再びイングランドのチェルシーの監督に就任した。復帰2年目の2014-15シーズンはキャピタル・ワン・カップを制し、さらに独走状態でチェルシーの5シーズンぶり5度目のリーグ優勝に貢献し、二冠を達成した。だが2015-16シーズンは開幕から絶不調に陥り、第16節の時点で4勝3分9敗の16位と大苦戦。チャンピオンズリーグではグループGを首位通過するも、2015年12月18日に成績不振を理由に解任された。父親のフェリックス・モウリーニョは元ポルトガル代表のゴールキーパーで、少年時代は父親にチームのスパイとして使われ、試合相手のチームの弱点などを探ってくる役目を与えられていたという。裕福な家庭の生まれで、使用人もいたようである。ポルトガルのユース代表に選出されたこともあるが、故障により、本人曰く「三流だった」選手生活を早々切り上げたため、プロとしての実績はない。リスボンで一度、体育教師になるが、指導者の道を志してスコットランドで語学を勉強。ボビー・ロブソンがスポルティングCPの監督に就任した際に通訳としてスタッフ入りし、以降厚い信頼を受けてロブソンとともにFCポルト、バルセロナといった名門クラブで通訳を務める。ロブソンがバルセロナを去った後、監督に就いたルイス・ファン・ハールのアシスタントコーチも経験した。なお、バルセロナ時代は通訳と思われがちだがカタルーニャサッカー協会には助監督として登録されている。2000-01シーズンにポルトガルの古豪ベンフィカの監督に就任した。不調だったクラブを建て直し、ライバルのスポルティングCPを3-0で破るなど順調なスタートを切った。しかし、会長交代劇などの内紛によりそのS・リスボン戦までの8試合の指揮を執った後、自らリスボンを離れる。ちなみに、このシーズンのベンフィカは6位でクラブ史上最低の順位だった。2001-02シーズン、リーグ中位のウニオン・レイリアの監督に就任。クラブを19試合9勝7分3敗・リーグ4位の好成績に導く。シーズン途中の2002年1月、当時不調に喘いでいた名門FCポルトに引き抜かれる。彼は残りの試合を15戦11勝2分2敗で乗り切り、低迷していた名門の順位を最終的に3位まで上昇させた。ポルト監督就任時、彼は不遜にも「(中位に甘んじる)このクラブを来年チャンピオンにしてみせる」と宣言し、メディアの冷笑を買ったが、彼はそれ以上の偉業を翌年以降成し遂げることとなる。2002-03シーズン、モウリーニョに率いられたポルトは快進撃を続け、スーペル・リーガ、ポルトガルカップのタイトルを獲得。さらにUEFAカップ決勝でもセルティックFCを延長の末に下し、三冠を達成。指導者として国際的に注目され始めた。2003-04シーズンには、圧倒的な強さでリーグ二連覇を成し遂げる。ポルトガルカップは決勝で惜しくもベンフィカに延長の末敗れたが、UEFAチャンピオンズリーグ 2003-04では、決勝でASモナコを3-0で下し制覇。ポルトを17年ぶりのヨーロッパチャンピオンに導き、より一層評価を上げた。2004-05シーズンからはプレミアリーグのチェルシーFCで指揮を執った。ここでも就任一年目から創立百周年の記念の年を迎えたチェルシーに50年ぶりのリーグ優勝をもたらし、リーグカップとともに二冠を達成。名将としての評価を不動のものとした。2005-06シーズンも独走でプレミアリーグ連覇を成し遂げるが、優勝決定後のセレモニーで優勝メダルを惜しげもなく観客席に投げ入れるなど、物議を醸している。とはいえファンは大喜び。2006-07シーズンはFAカップ、リーグカップのカップ・ダブルを達成するが、2006年10月14日に行われたレディング戦で頭蓋骨の陥没骨折という大怪我を負った守護神のペトル・チェフを筆頭に、主将のジョン・テリーや同じイングランド代表の主力だったアシュリー・コールといったDF陣の相次ぐ故障で冬の移籍市場でDFの補強を要求するモウリーニョと、補強をしようとしない経営陣との対立が表面化。「このチームにスターは存在しない。一致団結したチームこそスターだ」というモウリーニョ・イズムは崩れ、「報道を忘れる必要がある」と否定する姿勢を見せず、同シーズン限りでチームの監督を辞するのではという憶測が流れた。モウリーニョ自身は「2010年の契約満了まで自分から辞める事はない」と明言。だが、クラブオーナーであるロマン・アブラモヴィッチの態度は不明瞭であり解任の噂が絶えなかった。結局史上5チーム目の3連覇が懸かっていたリーグ戦では、テリーが欠場した(18節~25節)試合は4勝3分け1敗で、総失点24のうち10失点がこの時期に奪われたのもあり、優勝したマンチェスター・ユナイテッドに6ポイント差を付けられて2位に終わった。そして、2007年9月15日に行われたプレミアリーグのブラックバーン・ローバーズ戦や、2007年9月18日に行われたUEFAチャンピオンズリーグで、ノルウェー・エリテセリエンの王者・ローゼンボリ戦といった勝ちを計算出来た筈の2試合をいずれも引き分けたのが決定打となり、2007年9月20日、チェルシーとの契約解除が公式ホームページ上で発表された。モウリーニョとクラブ側双方合意の上でのものだったが、事実上の解任であった。後任には、アヴラム・グラントが就任。このシーズン、クラブ史上初めてUEFAチャンピオンズリーグ決勝に進出を果たすも、サポーターから「モウリーニョの遺産」と揶揄されていた。チェルシーを退団してフリーの身となった際、各国クラブから監督就任の打診を受けているが、モウリーニョが要求する高額な年俸がネックになっているとされ、いずれも噂の域を出なかった。そんな中、2007年11月にイングランド代表のEURO2008予選敗退を受け解任されたスティーブ・マクラーレンの後任最有力候補であると報道された。しかし、この件については、モウリーニョとFA幹部との三者会談の後、代理人を介して「素晴らしい仕事だとは思うが、熟考の末、イングランド代表監督候補になっても身を引くことにした。」と声明を発表し、代表監督就任を辞退している(なお、イングランド代表監督の後任にはファビオ・カペッロが就任した)。その後も引く手数多の状態が続いていたが、2008年6月2日、解任されたマンチーニ監督の後任としてイタリア・セリエAのインテル監督就任が発表された。セリエA初指揮となった2008-09シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナとリーグ優勝の二冠を達成。一方でチャンピオンズリーグではマンチーニ時代から合わせて3年連続となるベスト16止まり。しかし、翌2009-10シーズンはチェルシー、CSKAモスクワ、バルセロナ、そしてかつての師であるルイス・ファン・ハール率いるバイエルン・ミュンヘン等の各国の強豪(しかもCSKA以外の3チームはこの年の各国リーグ王者)を破り45年ぶりのチャンピオンズリーグ優勝、そして同年のセリエA、コッパ・イタリアも制し、イタリア史上初の三冠に導いた。この三冠を達成した優勝記者会見でインテル監督を辞任すると発言。2010年5月28日、モラッティとペレス両会長の直接会談により、レアル・マドリードがインテルに違約金を支払う形で残り2年の契約が解除された。2010年5月31日、レアル・マドリードの監督就任が発表された。契約期間は4年。就任初年度は序盤から好調を維持してリーグ戦首位にたったものの、監督就任後初となるエル・クラシコで5-0の大敗を喫して2位に転落すると、驚異的なペースで勝ち点を積み重ねるFCバルセロナに及ばずリーグ戦2位に終わった。それでもUEFAチャンピオンズリーグでは6年連続でベスト16止まりだったチームをベスト4にまで進出させ、コパ・デル・レイでは決勝でFCバルセロナを1-0で破り、18年ぶりの優勝を果たしてバルセロナのトレブルを阻止した。2011-12シーズンは、ほぼ毎試合圧倒的な攻撃力で大差をつけるゲームを披露してリーグ戦を独走。2012年2月26日のラーヨ・バジェカーノ戦に勝利し、リーガ・エスパニョーラ通算50勝を、史上最速となる62試合で達成した。終盤にはライバルのFCバルセロナに猛追されたものの、アウェーでの直接対決で見事に勝利して突き放し、優勝を成し遂げた。この結果、欧州3大リーグ(プレミアリーグ、セリエA、リーガ・エスパニョーラ)優勝を成し遂げた史上初の監督となり、欧州の4カ国の1部リーグ優勝を果たした史上2人目の監督となった(1人目はジョバンニ・トラパットーニ)。2012-13シーズンは、スーペルコパ・デ・エスパーニャでバルセロナを破りスペインスーパーカップを制覇。チャンピオンズリーグでは3年連続で準決勝に進出するもボルシア・ドルトムントに敗退。リーグ戦では序盤戦での取りこぼしが響き連覇を逃すと、コパ・デル・レイ決勝でもアトレティコ・マドリードに敗れ2年ぶりの優勝を逃すなど、リーグとカップ戦では無冠に終わった。シーズン終了後の2013年5月20日、クラブ側との同意で、契約を解消しマドリードからの退団が決定した。2013年6月3日、4年契約でチェルシーに復帰が発表された。マーク・シュワルツァー、アンドレ・シュールレ、インテル時代の教え子サミュエル・エトオらを獲得した。2013-14シーズンのプレミアリーグでは上位チーム相手には勝負強さを見せつけたものの、下位チーム相手の取りこぼしが祟り、3位に終わった。モウリーニョ自身がそれまで持っていたホームスタンフォード・ブリッジでの無敗記録も、2014年4月20日のサンダーランド戦に敗れたことで77試合で止まった。リーグカップでは準々決勝でそのサンダーランドに、FAカップでは5回戦で2月1日にチェルシーにホーム全勝記録を止められたマンチェスター・シティにリベンジされる様にして敗れた。UEFAヨーロッパリーグ王者として臨んだUEFAスーパーカップでは、ジョゼップ・グアルディオラ率いるUEFAチャンピオンズリーグ王者のバイエルン・ミュンヘンと対戦し、延長戦の末敗れた。UEFAチャンピオンズリーグでは、準決勝で前年レアル時代に国王杯決勝で敗れたディエゴ・シメオネ率いるアトレティコ・マドリードと対戦したが、2戦合計1-3で敗れ、リベンジを果たせなかった。FAコミュニティ・シールドにはチェルシーは出場していないので、2001-02シーズンのウニオン・レイリア時代以来12シーズンぶり、ポルトやチェルシーの様なビッグクラブを率いるようになった2003年以来では初めての無冠に終わった。復帰2年目の2014-15シーズンはキャピタル・ワン・カップを制し、さらに独走状態でチェルシーの5シーズンぶり5度目のリーグ優勝に貢献し、二冠を達成した。2015-16シーズンは開幕から絶不調に陥り、第16節の時点で4勝3分9敗の16位と大苦戦。チャンピオンズリーグではグループGを首位通過するも、12月18日、成績不振を理由に解任された。2016年5月27日、マンチェスター・ユナイテッドはジョゼ・モウリーニョと2016-2017シーズンから2019年6月30日までとなる3年契約、さらに4年目の2020年6月30日までとなる契約更新のオプションがついた条件を締結すると発表。8月7日、FAコミュニティ・シールドで昨シーズンリーグ王者のレスター・シティFCを破り、マンチェスター・ユナイテッドで初タイトルを獲得。対戦相手によって様々なフォーメーションを使いこなすが、サイドを広く使い攻撃的といわれる4-3-3を最も好んでいる。基本的に4-3-3を適用しているが、チェルシー時代は中盤を省略して素早く前線にボールを送るカウンター寄りの戦術がよく見られたために、彼の意思に反して「守備的なチーム」と言われていた。また、このカウンター戦術は彼の好みではなかったということで、インテル就任時に「トライアングルを作ってパスを回すサッカーをしたい」とも語った。選手を固定せず 自身のフォーメーションに合わない場合は変更に躊躇のない信念の強さを持っている。一試合を通して彼の経験からハードワークをする選手、チームの為に隙を与えない徹底的に攻守に貢献しようと実行する選手を好む(例えば中盤の全選手に攻撃色の強い選手を並べる様な事はしない為、中盤にはマケレレやマティッチ、カンビアッソやケディラといった守備色の強い選手を起用している)。特にオフ・ザ・ボール(ボールを持っていない時)の選手の動きに重点を置いている。マスコミやメディアを利用したり相手チームの輪を乱すものを挑発するなどして試合を円滑に進めるためには手段を選ばないところにも注目である。ポルト大学のビトール・フラデ教授が1980年代初期に提唱した戦術的ピリオダイゼーション理論(PTP理論)を取り入れており、綿密な分析を基に周到な戦術を駆使することで知られる。選手起用においては、シーズンを通しての出場時間数や怪我の有無といった一般的な判断材料から、試合時間別の成績とプレーの精度、体脂肪のベスト数値などの細かいデータを参考としている。ただし結果が出るのは2年目までで2016年現在、2回率いたチェルシーやレアルで3年目に物事が瓦解したのも、当面の戦いに勝つ事に集中しがちで長期的なプランを描くのは二の次である。また、本人は否定するものの、グアルディオラやマウリシオ・ポチェッティーノとは違い、ユースから上がってきた若手の育成や登用には消極的でもある。サッカーの監督には、信念や我の強さが求められることも多分にあり、それは、選手たちを引き付けるリーダーシップにもつながる。ジョゼ・モウリーニョはこの点において最も注目を集める監督のひとりである。また、モウリーニョはプロ経験がなく通訳としてプロチームのスタッフの一員となった。こうしたキャリアをもって欧州有数の監督になったことからも、監督としての手腕やリーダーシップが注目されることが多い。そのリーダーシップがビジネスの世界でも活用できることから、サッカーやスポーツに関連のないテレビCMにも出演している。アメリカの企業のアメリカン・エクスプレス社は自国以外に向けてのCMに、未来に起こることを予測するリーダー像としてモウリーニョを起用している。また、多国籍企業のサムスンも007に似せたCMにモウリーニョを起用している。モウリーニョは、自身が監督としてチームの指揮を執る際の哲学として、正直・率直・明確、そして野心的であることをあげている。モウリーニョは対戦相手のプレースタイル、中心選手の長所・短所など細かい点についてまで事前に調べて試合前の練習において試合を想定した練習をする。チェルシーにおいてモウリーニョの下でプレーしたディディエ・ドログバは、ポルトガルの新聞「コレイオ・ダ・マーニャ」のインタビューで「外科手術で体を開いて説明するように、監督がベンチでこれからピッチで起こることを説明した。ときとして、その通りの試合展開となった。まるで監督には未来が見えているようだった。」と話した。モウリーニョはチームを率いる際に複雑性をテーマにしている。複雑性とはフランスの哲学者、エドガール・モランが提唱した言葉である。この言葉は「部分部分にあるものがすべてである。つまり、全体を理解できなければ、結局部分を理解することはできない。逆もしかりである。」ということを表している。モウリーニョの複雑性の考えは、練習においても表れる。サッカーの練習の現場では試合で起こる状況を考慮しない練習が行われることも多い。しかし、モウリーニョは練習では必ず試合の場面を想定した練習を行い、選手には実際の試合を体験させている。試合前の練習では必ず敵方を用意する。また、モウリーニョは選手には常にプロフェッショナルであることを求める。それは試合や練習以外のときでも同じで、休養日に家にいるときでもプロ意識を要求している。一方で、私生活が充実して初めて選手としての職業が成り立つことも理解している。FCポルトで監督を務めていたときに、MFのデコの心身の疲労を察したモウリーニョは「ブラジルに2、3日戻って来い」と言って選手にリフレッシュすることを指示した。記者会見では常に自信に満ち溢れた態度で記者たちに接し、時には傲慢な態度を取っていると受け取られることがある。チェルシーに就任した際の記者会見では、イングランドのメディアに対して「私のことを横柄だとか尊大だとか言って揶揄しないでほしい。私はCL優勝を果たした監督だ。ならば私は“特別な存在”であるということだと思う」と話している。しかし、チームにいるときにはチームに寄り添っていて、試合に負けたときなどにはロッカールームで選手にきつく当たることもあるが、それを外側に発信することはしない。このようなことから、記者会見での不遜な態度はチームを守る盾になるために演じているのではという見方もある。2009-10シーズンにインテルを率いていた際には年末の休暇を挟んでチームはパフォーマンスを低下させていた。ここで、モウリーニョはメディアの関心を一手に引き受けて、マスコミやファンのプレッシャーから選手を隔離することでチームを立て直している。一方で、モウリーニョのメディアに対する対応は計算されたものではなく、モウリーニョの人間性から来るものだという見方もある。スペインのスポーツ新聞で『マルカ』に次ぐ発行部数を誇る『アス』の編集長を務めるアルフレッド・レナーニョは「モウリーニョの振る舞いや言動は彼のエキセントリックな性格によるものだろう。彼は生来そういう類の人間なんだ。」と語っている。また、レアル・マドリードの指揮以降は選手を批判することも多くなっている家庭では二児の父で、夫人はアンゴラ出身。FCポルトでのチャンピオンズリーグ決勝試合直前、彼のチェルシーFC移籍が決定的となっていたことに起因し、ポルトの一部のサポーターから家族ぐるみで脅迫を受けるという災難に見舞われている。試合後、優勝セレモニーに加わらず足早にピッチを後にしたのは、その脅迫に対しての抗議行動であり、何より家族を案じていたからだというエピソードがある。故郷のクラブのヴィトーリア・セトゥーバルのファンである。コーチの前には通訳としての経歴を持ち、6言語(ポルトガル語、イタリア語、スペイン語、カタルーニャ語、英語、フランス語)を流暢に操る。分かりやすく的確な言葉で会話壁を作らず選手と親しくする事をいとわないよい仕事をした選手をしっかり報いる対戦相手の詳細なデータを選手に配布(VTRで対戦相手を分析 泊まり込みで作業することもあり)そして、選手にもVTRを見せる。思考が疲労しないように長さは10分程 さらに、自チームの好プレー集を見せる場合もあり、選手のモチベーションを上げるためボビー・ロブソンとはFCポルト、バルセロナで共に仕事をした経験があり、師弟関係にあった。ロブソンの訃報の際はインテルの公式HPを通して哀悼のコメントを寄せた。また、ロブソンの死後に同氏の基金が主催するがん撲滅チャリティーオークションに、自身が2010年に受賞したFIFA(国際サッカー連盟)年間最優秀監督賞のトロフィーを出品している。スペイン『Veo7』の取材で将来的なイングランドのプレミアリーグへの復帰を仄めかす(13-14シーズンからチェルシーの監督に復帰している)と同時に、ポルトガル代表の監督になることを最終目標としていると語った。モウリーニョはホームでの国内リーグ戦において150試合連続無敗記録を残した(国内カップ戦、UEFAチャンピオンズリーグなどの国際大会においてはホームで敗北がある)。途中就任したシーズンである2001-02シーズンの2002年2月23日に行われたSCベイラ・マルとの試合で敗れたのを最後に、2011年4月2日に行われたスポルティング・デ・ヒホンに敗れるまで9年間にわたってリーグ戦ホーム無敗記録を続けた。以下はその9年間の内容である。
出典:wikipedia
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