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宝塚歌劇団

宝塚歌劇団(たからづかかげきだん、)は、兵庫県宝塚市に本拠地を置く歌劇団。阪急電鉄の一部門であり、阪急阪神東宝グループのエンターテイメント・コミュニケーション事業として運営は阪急電鉄創遊事業本部歌劇事業部が行っている。劇団員は阪急電鉄の正社員扱いとなっている。理事長は小川友次。1914年に初の公演を行って以来、今日も人気を集める未婚の女性だけで構成された歌劇団である。現在は花(はな)・月(つき)・雪(ゆき)・星(ほし)・宙(そら)の5組と、いずれの組にも所属しない専科に分かれている。「宝塚」「ヅカ」などと略して呼ばれることも多い。宝塚大劇場(兵庫県宝塚市)と、東京宝塚劇場(東京都千代田区)を中心に公演を行っている。また、中劇場の宝塚バウホール(宝塚市)も所有。2001年より、劇場中継や公演案内を中心とした専門チャンネル「TAKARAZUKA SKY STAGE」の東経110度CS放送が行われている。創設の当初から「老若男女誰もが楽しめる国民劇」を目指し、日本で初めてレヴューを上演した劇団として、一躍有名になった。現在も、健全かつどの世代の人が見ても楽しめる演目を中心に、芝居(ミュージカル)やレヴューを上演し続けている。ジャンルは古今東西を問わず、歴史劇、ファンタジー、そしてSFまで多岐にわたる。舞台に出演するのは宝塚音楽学校の卒業生であり、全員が未婚女性である。団員たちは「タカラジェンヌ」の愛称で親しまれている。退団後の再入団も認められておらず、外部の俳優が本公演に出演することもない。また団員が在団中に外部の舞台・テレビなどに出演することは少ない。団員の育成が、大きな特徴の一つであり、本公演の稽古期間は公演日数とほぼ同じである。また若手スターの勉強の場として新人公演が開催されたり、団員向けの劇団レッスン(無料)等も開講されている。収容数2000人以上という大規模劇場で常時公演し、舞台上には照明が当てられていることから、遠目からでも演者の表情が分かるように、大き目の付けまつげ、厚めのドーラン、強いアイライン等ほとんどの演者が華やかなメイクを施している。このメイクは宝塚大劇場内にある「サロン・ド・タカラヅカ」で予約をすれば一般客(女性のみ)も体験が可能である。女性だけの劇団であるため、男性役も女性が演じる。男性の役を「男役」・女性の役を「娘役」と言う。身長を目安に、劇団併設の宝塚音楽学校在籍中にどちらかを優先的に希望することになっているが、公式に定められてはいない。また、入団後、男役から娘役への転向は多数の例があるが、娘役から男役への転向例は極めてまれである。創設初期の頃は娘役に人気が集まったが、現在は男役の方がファンの人気が圧倒的に高い。そのため舞台構成なども男役を中心に作られる。劇団のシンボルソングのようになっている「すみれの花咲く頃」は戦前のドイツ映画主題歌「リラ(またはライラック、ニワトコ)の花咲く頃」をフランスでシャンソン化して歌われているのを聴いた白井鐵造が持ち帰って詞をつけたもの(原曲のドイツ語版のCDなども発売されている)。歌劇団のみならず阪急百貨店の開店時にも演奏されるなど阪急阪神東宝グループの象徴的なテーマ曲となっている。団員は、歌劇団付属の宝塚音楽学校で予科1年・本科1年のあわせて2年間の教育を受けることになっている。また、宝塚歌劇団入団の条件も、音楽学校の卒業生に限られている。歌劇団員の正装は、黒の紋付に緑(オリーブ色)の袴であり、各種式典・退団時に着用する。歌劇団入団以後も、団員は「生徒」と呼ばれる。これは、宝塚歌劇が発足当初、歌劇団員が「芸者や舞妓のようなもの」と揶揄されたことに、小林一三が怒り「宝塚歌劇は良家の子女に高等なる音楽教育を施した“生徒”によってなされるものである」といったことに由来する。歌劇団と学校が一体であったこと等から、双方の期数は一致する(例:音楽学校の95期生は、歌劇団の95期生として入団)。1939年まで歌劇団員は「宝塚音楽舞踊学校(当時)の研究科生徒」という扱いであった。現在でもその名残から、生徒の入団年数を「研究科○年」略して「研○」と公式に呼んでいる(例:入団1年目の生徒は「研究科1年=研1」)。1972年より57歳定年が導入され、現在は満60歳の誕生日に延長されている。ただし理事には定年は適用されない。現役団員のうち歌劇団理事は、現在では松本悠里・轟悠の2名である。1977年入団生(63期生)から通称「(結婚)適齢期定年制度」が導入された。これにより、“女子技芸員”として阪急電鉄の社員扱いをされていた生徒は、一定の学年になると“タレント”として新たに個別契約を結ぶ。従来は入団7年目(研7)がタレント契約の時期だったが、2007年入団生(93期生)から、入団6年目へ契約時期が早められた。また、このタレント契約制度の導入によって団員の労働組合は解散し、代わって全団員で構成される「女子会」が組織され会合が行われるようになった。宝塚音楽学校の2年課程を終えて、卒業認定されたのちに入団式を経て、正式に宝塚歌劇団の研究科1年生(研1生)となる。尚、本人の技量や容姿等の理由で歌劇団から入団を認めてもらえないこともある。主に、音楽学校の卒業式が午前中、歌劇団の入団式が午後から執り行われることが多い。入団が認められた研1生は、入団手続きの際に阪急電鉄と雇用契約を締結する。その後の稽古を経て、春の大劇場公演に研1生全員が出演する。これを「初舞台公演」と呼び、研1生のことは「初舞台生」と呼ばれる。初舞台公演では、開演前に初舞台口上と、ラインダンスの披露が慣例になっている。初舞台口上は公演期間中毎日行われ、初舞台生が舞台上に整列し、日替わりで3 - 4名が代表して口上を述べる。ラインダンスはショーの1場面で与えられていることが多く、初舞台生全員で一丸となってラインダンスを披露する。年によっては初舞台口上とラインダンス以外にも出演する機会が与えられることもある。初舞台公演を経て、研1生は組の所属が決定する。これを「組配属」と呼ぶ。年度によっては、初舞台公演の後に研1生が班に分けられて、各組の本公演に分かれて出演することもある。これを「組まわり」と呼び、組まわりを経てから組配属が行われる場合もある。配属先の情報は、配属日に歌劇団の公式ページでも発表される。生徒によっては、配属された組で一定の活動後に他の組へ異動する場合がある。それを「組替え」と呼ばれる。組替えの発表は、歌劇団の公式ページを通じて発表される。定年を迎えた場合や、結婚(前述の通り、生徒は未婚でなければならないため)・健康面・経済的な事情などで今後の活動が困難となった場合は、歌劇団を退団することになる(退団と同時に阪急電鉄との雇用契約も消滅する)。大劇場公演または東京宝塚劇場公演の出演と千秋楽をもって退団が可能で、かつ退団手続きが順調に行われた生徒は「卒業」という形で、本公演(宝塚大劇場・東京宝塚劇場の公演)の千秋楽に正装である黒紋付に緑の袴をはき、舞台上で挨拶をする。この時、所属組の上級生や音楽学校時代の同期生から花束が贈られる。千秋楽には、退団者は舞台衣装・髪飾り等に生花をあしらって舞台に出演する。本公演以外の千秋楽をもって退団する場合は、特に決まった形式のセレモニーはないが、カーテンコールの際に生花などをあしらって舞台に出演したり、簡単なスピーチをする場合がある。公演の千秋楽をもって退団する場合は、退団する公演の集合日(稽古の初日の顔合わせの日)に退団発表が宝塚歌劇団のホームページを通じて行われる。なお、諸事情により次回公演の稽古集合日付け、定年の誕生日付け、千秋楽翌日付けなどで退団する生徒もいる。その場合は本人かへの挨拶をする機会はないが、機関誌の『歌劇』に退団の挨拶文が掲載される。生徒は5つの組と、専科に分けられており、各組がそれぞれ公演を行い、必要に応じて専科に所属する生徒がこれに参加する。組に所属する生徒のことを「組子」と呼ぶ(例:花組に所属する生徒=「花組の組子」or「花組子」)。各組には組長・副組長がいる。組長は組を統括・管理し、公私にわたって組子の面倒を見ている。最上級生が就任することが多い。副組長は組長を助け、組を統括・管理し、組長に事故があるときはその任務を代行する。宝塚の大きな特徴の一つとして、「スターシステム」を採用している点が挙げられる。作品において重要な役・ポジションを担当するのは、基本的に各組所属の全生徒の中から選ばれた、一部のスターに限られている。このスターが観客動員・人気において、重要な役割を占めている。各組のスターの頂点に立つ男役が「主演男役」あるいは「トップスター」と呼ばれ、各公演で主演を務める。そのため、脚本はトップスターに当てて書かれている。また、トップスターの相手役を務める娘役のことは「主演娘役」あるいは「トップ娘役」と呼ばれる。各公演でヒロイン的な役を演じている。正式な名称は「主演○役」であるが、近年では公式サイト等でも「トップ○○」の名称が用いられることがある(なお、「トップ男役」「トップ娘役スター」などという呼称は誤り)。他の商業演劇とは異なり、在任中は原則としてずっと同じ生徒が主演を務める。トップスター以下、2番手、3番手…などという呼び方をするが、トップスター以外は明確に固定された地位ではないため、変動することがある。例えば天海祐希は昇進が早く、彼女より上級生が下位のスターとなったこともある。特に娘役は男役以上に安定していない。スターは、容姿・スター性(華やオーラ)・人気も重要な要素であり、実力者がスターになれるとは限らない。例えば、真矢みき・檀れい等はいずれも入団時の席次は下位(檀にいたっては最下位)であったが、その後の努力や人気が評価されてトップスター(檀はトップ娘役)に就任した。現在のようなスターシステムは、1980年代に確立された。それ以前では、トップが2人であったり、公演ごとに主演者が異なったり、またスターの他組への特別出演が現在よりも多く実施されたりするなど、より柔軟性に富んだ配役を行なっていた。スターシステム確立後、トップスターは各組に男役・娘役それぞれ一人で、単独での主演が原則である。トップ娘役に関しては、1984年から86年にかけ南風まいと湖条れいかが交互または対等なヒロイン役を演じており、Wトップ娘役体制であった。また、1984から85年の雪組(麻実れいの相手役)、2004年から05年(彩輝直の相手役)及び2008年から09年の月組(瀬奈じゅんの相手役)、2010年から11年の雪組(音月桂の相手役)がそれぞれ不在であり、大劇場公演において複数の娘役又は男役スターが相手役を演じた。大劇場でヒロイン役を演じても、トップ娘役に就任していない限り、トップ娘役とは呼ばれない。有望な生徒は、トップスター候補として下級生時代より新人公演・バウ公演などで役を与えられ経験を積む。この一連の流れをファンは「スター路線」さらに略して「路線」と呼び、劇団からスターとして扱われることを“路線に乗る”などと表現する。昇進試験が有ったSKDとは異なり、公式かつ明確に定められたものではないため、一時期抜擢されていた団員がいつの間にか脇へまわるといったことも多々有る。"路線に乗った"生徒は、本公演でも徐々に大きな役・ソロ場面・より豪華な衣装が与えられていく。プログラムでの序列や、実際の役付き、写真集やブロマイドの発売などを参考に、将来のスターを予測し応援することも、宝塚の楽しみ方の一つとなっている。トップスターになるためには、以下の条件が必須とされている。ただし昇進の早かった黒木瞳等は一部の条件を満たしておらず、例外もあり得る。(以下は男役のみ)など多岐にわたる。男役の場合、概ね研12〜15で就任するが、様々な事情で遅くなることも早くなることもある。スターシステムが確立された1980年以降では、前述の天海祐希が最速の研7(1987年入団 → 1993年就任)で就任した他、研9で就任した珠城りょう(2008年入団 → 2016年就任)が早い例である。一方、遅い例としては研18の大空祐飛(1992年入団 → 2009年就任)・北翔海莉(1998年入団 → 2015年就任)、研17の壮一帆(1996年入団 → 2012年就任)等が挙げられる。早い理由は圧倒的なスター性の評価・人気など。逆に遅い理由としては、人事上の都合によるところが大きい。娘役の場合では、就任時期は一概に言えず、最速は黒木瞳の研2(1981年入団 → 1982年就任)で、他に研3の麻乃佳世(1988年入団→1990年就任)・千ほさち(1994年入団 → 1996年就任)・映美くらら(1999年入団 → 2001年就任)等がいる。遅い例としては研14の渚あき(1988年入団 → 2001年就任)、研10のひびき美都(1978年入団 → 1987年就任)が挙げられる。人気は男役が圧倒的なため、相手役と容姿が釣り合うか否か、ダンス・演技の組み易さ等がトップ娘役の重要な選定基準である。娘役は入団10年未満での就任が多く、学年も相手役より下級生であることがほとんどである。また、男役から娘役へ転向した後、トップ娘役へ就任を果たした例も姿晴香、若葉ひろみ、遥くらら、紫城るい、愛希れいか等、複数ある。トップスターに就任すると、専科へ異動する極少数の例(スターシステム確立後では榛名由梨・轟悠のみ)を除き、数年で退団することになる。すなわち大劇場公演の回数にして4〜10回程度が目安となるが、後継スターの成長・本人の意欲、また健康上の理由等で変動する。短期の例は、匠ひびき(2001年 - 2002年)・絵麻緒ゆう(2002年)・貴城けい(2006年 - 2007年)の1年未満(大劇場公演1回)が代表的であるが、いずれも退団理由が人事上の問題というのが明確であり、劇団の姿勢がファンから激しく非難された。長期の例は、トップ娘役を12年に渡り務めた花總まり(1994年 - 2006年)が代表的であるが、これは他と比較しても極めて稀な例である。他に和央ようか(2000年 - 2006年)・柚希礼音と夢咲ねね(共に2009年 - 2015年)の6年、南風まい(1983年 - 1988年)・剣幸とこだま愛(共に1985年 - 1990年)・麻乃佳世(1990年 - 1995年)・春野寿美礼(2002年 - 2007年)の5年といった例がある。スターシステム確立以前では、汀夏子(1970年 - 1980年)の10年、鳳蘭(1970年 - 1979年)・榛名由梨(1973年 - 1982年)の9年、安奈淳(1970年 - 1978年)の8年などの例がある。さらに以前に遡ると、春日野八千代などは20年以上に渡り多数の主演をしている。トップスターとトップ娘役は退団する公演の集合日前のタイミングで退団発表が行われ、後日マスコミを集めた退団発表会見が執り行われる。また、トップスター・トップ娘役・またはそれに準ずるスタークラスの退団者になると、出演公演の足跡を振り返る「サヨナラショー」公演が行われることもある。また、トップスターのみ千秋楽の退団挨拶の際、正装である黒紋付と緑の袴ではなく、他の衣装(燕尾服・タキシード等)を着用することが許されている。退団は多くのマスコミが取り上げ、また熱烈なファンは複数回観劇する・記念グッズを購入するなど「歌舞伎は襲名披露で稼ぎ、宝塚は退団公演で稼ぐ」とまで言われる。公演の中心は、「本公演」と呼ばれる大劇場作品である。2009年に公演期間を短縮し、回数が年10回となったため、各組とも本公演は年に2作である。その合間に、バウホール公演・全国ツアーなど他の公演を行う。時には、少人数でコンサートやディナーショーなどを行うこともある。本公演の合間にどんな公演が行われるかは、その時々によって異なる。これら本公演の間の公演の場合は、たいてい各組ともトップスターが主演するチームと、2番手以下が主演するチームの二手に分かれて公演を行う。個々の公演の人数は少なくなるため、若手団員にも目立つ役が付く・スター以外の団員にも見せ場が有る等、チャンスと経験を与える場ともなっている。現在はロングランシステムを採用していないため、いずれの公演形態においても、公演期間が延長されることはない。バウホール公演では観客動員により、東京での続演(東上)が急遽決定する場合もある。逆に、観客動員が悪いからといって、上演打ち切りになることも無い。理事ら「公演編成委員」が、半年に一度、座付き演出家の脚本・企画書を協議し、ラインナップを決定していく。阪急電鉄の前身、箕面有馬電気軌道創始者の小林一三が、三越少年音楽隊や白木屋少女音楽隊に想を得て、1913年(大正2年)に結成した宝塚唱歌隊が前身。宝塚新温泉にあった室内プール「パラダイス」が閉鎖された際、このプールを利用し、温泉場の余興として集客のために少女たちに歌を歌わせようということになり、組織された。同年12月に宝塚少女歌劇養成会に改称。尋常小卒の少女に大卒者同等の給与を払う厚遇だった。翌1914年(大正3年)4月1日 - 5月31日まで宝塚新温泉で初演。初演演目は桃太郎を題材した歌劇『ドンブラコ』、『浮れ達摩』、ダンス『胡蝶』、管弦合奏、および合唱であった。この年の平均入場者数は1100人/日であった。新温泉入場者は観覧無料で観客は次第に増えた。以後、数年間はパラダイス劇場・公會堂劇場での正月・春期・夏期・秋期の年4回公演を中心に活動。1918年(大正7年)、帝国劇場での公演を行い、東京進出。同年に機関誌『歌劇』が創刊される。『クレオパトラ』でヒロインを交代で演じた雲井浪子・篠原淺茅が人気を博した。この年の平均入場者数は2000人/日で、徐々にその人気を伸ばしつつあった。1919年(大正8年)、私立学校としての認可が下り宝塚音楽歌劇学校設立。少女歌劇養成会は解散し、新たに宝塚少女歌劇団として発足。予科1年・本科1年と研究科からなる学校組織となった。1921年(大正10年)、公演の増加により花組・月組に分割。1923年(大正12年)1月22日、パラダイス劇場・公会堂劇場が焼失。急遽建造された宝塚中劇場での公演を経て、翌1924年(大正13年)に3000人収容(当時)を誇る宝塚大劇場が完成した。大劇場完成に先立ち、雪組が新設された。当時の宝塚は、宝塚指定席・温泉入場券・カレーライスが各30銭で「一圓あれば一日遊べる」まさに総合娯楽施設だった。1925年(大正14年)からは、年12回の本公演が行われるようになる。1926年(大正15年)、大阪松竹歌劇団が『春のおどり』を上演した翌年、宝塚も『春のをどり』を上演する。以後20世紀末まで『春の踊り/をどり/おどり』等として春先に日本物ショーが上演されることが定番となった。1927年、岸田辰弥が欧米遊学から帰国。岸田はこの経験を活かして、日本初のレビュー『モン・パリ 〜吾が巴里よ!〜』を日本人の世界旅行記をテーマにして制作する。同年9月1日から上演されて画期的な内容で大ヒットを記録した。主題歌レコードがヒット、当時としては露出の高い豪華な衣装も話題となった。また、ラインダンスを初めて演目に取り入れ、16段ながら(現在は26段)大階段も登場した。以後、少女歌劇のレビューに欠かせないものとして定着する。『モン・パリ 〜吾が巴里よ!〜』の成功後に劇団は演出家を積極的に海外へ送った。白井鐵造が帰国後、1930年に制作したのが『パリ・ゼット』である。この作品中に「すみれの花咲く頃」、「おゝ宝塚」が登場し、宝塚歌劇団を代表する楽曲として定着した。レビューの誕生に前後して、男役が登場し人気が集まり始めた。1931年、『ローズ・パリ』で銀橋登場。また、松竹歌劇団の男役:水の江瀧子が断髪したことに続いて、宝塚少女歌劇団では門田芦子と佐保美代子が1932年の『ブーケ・ダムール』稽古中に髪を短くして、神代錦らが後に続いた。1933年、星組の新設・専科制度の充実等の改革が行われる。この年上演された『花詩集』は花をテーマとしたレビューで、翌1934年に東京宝塚劇場のこけら落としとしても上演された。当時の団員数は約300名と大規模なものになっていた。葦原邦子と小夜福子の二枚目男役コンビが人気を集めた。1938年10月2日から1939年3月4日にかけて、団長:小林米三、組長:天津乙女、副組長:奈良美也子以下、雲野かよ子、初代糸井しだれ、千村克子、打吹美砂、久美京子ら、1938年9月19日に小林一三から発表された計30名の選抜メンバーと衣裳係、道具係、関係者ら合計56名が『訪独伊芸術使節団』として、神戸港第四突堤から豪華客船・靖國丸の第22次往航に乗船して命令航路を通ってナポリに到着後に、現在のドイツ(ベルリン、ドレスデン、デュッセルドルフ、ミュンヘンなど)・イタリア(ローマ、フィレンツェ、ベニス、ミラノなど)・ポーランド(ワルシャワ)・クロアチア(リエカ、1938年当時はイタリア領フィウメ)を巡行して劇団史上初の海外公演を行った。復路はドイツで仕立てた制服を着用して選抜メンバーは意気揚々と客船・伏見丸にナポリから乗船して日本に帰朝した。選抜メンバー一行がイタリアのナポリ港に到着した時の様子やドイツのベルリン公演の模様を伝えるニュース映像や、イタリアに向けて航行している往路において、靖國丸の船上で撮影されたモノクロの集合写真などが現存する。1939年5月には宝塚映画において、『日・独・伊親善宝塚振袖使節道中記』という題名でこの海外公演の模様を記録した短篇映画が製作された。1939年4月5日から同年7月4日にかけて、団長:吉岡重三郎、組長:小夜福子、以下、三浦時子、春日野八千代、櫻町公子、月宮みつる、佐保美代子、草笛美子、霧野都ら、同年3月5日に、宝塚音楽学校講堂で挙行された訪独伊芸術使節団の帰国歓迎会に於いて、小林一三から発表された計40名の選抜メンバーと衣裳係、道具係、関係者ら合計60名が『訪米芸術使節団』として神戸港から豪華客船・鎌倉丸に乗船してアメリカ合衆国(ホノルル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ポートランドなど)へ出帆して劇団史上2度目の海外公演を行う。復路は豪華客船・氷川丸の第59次復航にシアトルから乗船して日本に帰朝した。氷川丸に乗船中には、船内のすき焼きパーティーや船長主催のパーティーに積極的に参加して、華やかな装いと立ち居振る舞いで他の船客たちを魅了した。選抜メンバー一行が着物姿でロサンゼルス市ハリウッドにあるRKOラヂオ映画社の映画スタジオを見学している様子を撮影したモノクロ写真や、アメリカ公演の模様やニューヨーク観光をしている選抜メンバーの様子などをとらえたモノクロ映像や、同年6月21日にカナダのバンクーバーで撮影されたカラー映像が現存している。1934年の『太平洋行進曲』を皮切りに、作品タイトルにも戦争を意識した題名が表れる。他に『揚子江』『満州より北支へ』等といったものが見受けられる。1938年に星組を廃止して、同年12月に学校と劇団を完全に分離した。1940年には大日本国防婦人会宝塚少女歌劇団分会が設立されて、全生徒が加入させられた。軍需工場・軍病院へ慰問するようになる。同年、宝塚歌劇団に改称。1940年には外来語のタイトルが消滅して、それ以後は、ほぼ全ての公演に軍国主義的な演目が登場する。1942年からは満州国での公演が行われた。1941年には、内海重典の脚本・演出の『宝塚かぐや姫』が上演。その作品でかぐや姫を演じた小夜福子が歌った「さよなら皆様」(内海作詞、河崎一朗作曲)は、終演後に劇場に流されるBGMに採用されるなど、現在の宝塚歌劇団でも歌い継がれる曲のひとつとなっている。1943年3月、空襲の激化によってついに宝塚大劇場が閉鎖に追い込まれて、海軍に接収されて潜水艦乗りや航空隊(宝塚海軍航空隊)向けに使用された。最終公演は『翼の決戦』であり、“夢”や“希望”のない内容であっても、ファンが殺到して宝塚大橋を越えて宝塚南口駅付近まで長蛇の列を作った。大戦中は、全国各地での慰問公演を中心に細々と活動し、一方で女子挺身隊として川西航空機宝塚製作所(跡地は阪神競馬場になった。)や縫工所等に動員させられて、労働奉仕を行った。第二次世界大戦終結後の1946年、宝塚音楽舞踊学校が宝塚音楽学校に改称。そして、4月22日より宝塚大劇場が公演を再開。再開第1作は『カルメン』『春のおどり』の二本立てで、大戦中に入団した計3期69名がラインダンスを披露した。しかし東京宝塚劇場は進駐軍に接収されていたため、1947年より再開された東京公演は日本劇場・帝国劇場などで行われた。翌年には10年ぶりに星組が復活した。花組の越路吹雪&新珠三千代コンビ、そして雪組の春日野八千代&乙羽信子コンビが絶大な人気を博した。特に春日野は戦前から長期間にわたり二枚目男役スターとして第一線で活躍し、困難な時代に宝塚を支え続けた功績は極めて大きい。1951年、『虞美人』が初演。馬が登場する等迫力ある舞台が大ヒットし、ロングランを続けた。他にも『ジャワの踊り子』等の名作が数多く誕生している。1955年には、ついに東京宝塚劇場公演が再開された。1954年に日伊合作映画『蝶々夫人』の制作において、チネチッタ撮影所での撮影に参加するために、先にイタリアに渡伊していた八千草薫と寿美花代に続いて、東郷晴子、淀かほる、鳳八千代らトップスターと伊吹友木子、朝日奈世志子、梓真弓、筑紫まりら選抜メンバー15名が、同年10月2日午後4時20分に羽田空港からエールフランス航空機に搭乗してイタリアのローマへ出発。選抜メンバー一団が羽田を離陸後に、サイゴン(現・ホーチミン)・カラチ・ベイルートを経由して、ローマ近郊にあるローマ・チャンピーノ空港に到着した時の模様やチネチッタで映画『蝶々夫人』撮影中の様子を伝えるニュースフィルム(モノクロ)が現存する。そして、全撮影を終了して、同年11月12日午後9時羽田空港着のエールフランス機で一団は約40日ぶりに帰国した。その後、同年12月28日に八千草が帰国した。映画制作費は当時の約2億円。このローマへの渡航をきっかけとして、海外公演が急増する。また、1951年に演出家の内海重典が渡米。翌年の帰国後には、ブロードウェイですでに導入されていた紗幕やコード付のハンドマイクを取り入れた。1955年に上演された『ブルーハワイ』で、世界で初めてドライアイスを使ったスモーク効果を使用。この効果は演出家の内海重典の思いつきから生まれたものだった。1957年『モン・パリ』で史上最大50段の大階段が登場。1958年には、天覧・台覧公演が相次いだ。4月1日に東京宝塚劇場で香淳皇后・皇太子明仁親王・義宮正仁親王・秩父宮妃が「花詩集」を、10月30日には昭和天皇・皇后・義宮正仁親王・清宮貴子内親王が「光明皇后」「三つのワルツ」を鑑賞。さらに、翌11月1日には皇太子明仁親王が単独で宝塚大劇場で「秋の踊り」を観劇した。また、宝塚音楽学校が前年から二年制となった影響で、この年の初舞台生はいない。(ただしこの年の音校本科生は舞台実習の名目で4月花組公演「花のなかの子供たち」に出演しており、実質的にはこれが初舞台。)一方で4月1日に宝塚大劇場で月組・香月弘美がセリに巻き込まれ死亡するという凄惨な事故も発生している。なお、この事故によりセリは使用中止になり翌年に安全装置が完成した。同年には、日本の民俗芸能を舞台化する目的で「郷土芸能研究会」を発足させて、日本各地の伝統芸能、祭事、芸能催事の取材、記録や収集を開始した。この活動は約20年間継続して行われた。これらは、日本民俗舞踊集という形で舞台化されて、1958年に雪組による第1集:南紀篇、南紀太地の「鯨」を始めとして、月組による第5集:奥羽篇『花のみちのく』など、合計22作品が発表された。1960年の『華麗なる千拍子』(寿美花代主演)は大ヒット作となった。宝塚のみならず、主題歌もヒットした。東京での再演の後、翌1961年に芸術祭賞を受賞した。翌年も、九州の郷土芸能をテーマにした『火の島』で同賞を受賞している。明石照子・寿美花代らが人気を集め、その退団の際には『さよならショー』が上演された。これは今日でも恒例である。寿美、明石が去った後の1960年代中期には、マルサチオソノの愛称で知られる那智わたる、内重のぼる、藤里美保がファンから多大な支持を受けた。1960年代後半には、海外から振付家を招聘し『シャンゴ』(真帆志ぶき主演)等のこれまでの宝塚のイメージと異なるショーが誕生した。『ウェストサイド物語』『オクラホマ!』『回転木馬』といった海外ミュージカルの日本初演も、この時期の宝塚である。なお『ウェストサイド物語』は芸術祭賞を受賞した。3Kトリオこと甲にしき・上月晃・古城都らが人気を集めた。また、1968年6月より、本公演において若手団員による「新人公演」が定例となった。当初は2回ずつ別のメンバーで行われていたが、1984年以降は1回のみとなる。1970年の大阪万博に際し、万博会場と同じ阪急沿線の宝塚も観客を呼び込もうと『タカラヅカ EXPO70'』を上演。上月晃らスターの退団と重なったことで、狙い通り連日満員の大盛況となった。この時、万博の観光客(従来のファン以外)を退屈させないよう公演時間を短縮し、2幕2時間半、幕間に30分休憩での公演形式が確立された。テレビの普及・娯楽の多様化に伴い、劇場稼働率は低下し、赤字が続くようになっていった。一部のマスコミから「宝塚とブレーブス球団は阪急の2大お荷物」と呼ばれたこともある。また、人件費節約のため、1972年4月に定年制度導入(満57歳定年)が発表され、同年7月1日より導入された。このような宝塚の窮地を救ったのが、1974年に植田紳爾が脚色した『ベルサイユのばら』であった。社会現象を巻き起こしていた同漫画を舞台化するや否や月・花・雪・星の各組の上演により140万人の観客動員となり大ヒット。空前の宝塚ブームを巻き起こした。少女のファンが急増したことで、宝塚音楽学校の倍率もそれまでの5倍から20倍前後の難関となり「東の東大、西のタカラヅカ」と呼ばれるようになる。ベルばらシリーズで主要な役を務めた榛名由梨・鳳蘭・安奈淳・汀夏子は「ベルばら四強」と呼ばれ人気を集めた。1975年には、公演期間が約1か月半の年8回公演となる。翌1976年宝塚ブームの冷めぬうちに『風と共に去りぬ』を上演。榛名が二枚目男役として初めて髭を付けた。1970年代より柴田侑宏が『星影の人』『あかねさす紫の花』といったオリジナル名作を多数発表する。1978年、宝塚バウホールが開場。初演は『ホフマン物語』。スター・スタッフの育成を目的に、実験的な公演が行われている。この時期、1970年代後半より、スターが円形の羽を背負うのが恒例になる。徐々に巨大化し、より舞台を華やかにしている。1980年代より、スターシステムが確立していった。すなわち、各組の主演者が主演男役(トップスター)に固定されるようになる。また、トップスターへの昇格には様々な条件を満たす必要があり、ファンは誰がスターになるか予想し、長期的に応援しやすくなった。同時に、私設ファンクラブの活動も活発になる。1980年代初頭までは、劇団員に手渡しで飲食物の差し入れをする・劇団員がその場でファンを喫茶に誘う等、団員とファンは近い存在だったことが伺えるが、現在ではこのような行為はない。また、集団での過剰な拍手が機関誌の投書欄で問題視されることも多い。出演者への掛け声も禁止されている。組替えがあるもののスターの地位が固定されることで、トップスターとトップ娘役だけでなく二番手男役スターとの掛け合いやコンビーネーションにも人気が集まった。例えば、雪組の麻実れい・寿ひづる・遥くららの3人はゴールデントリオと謳われた。また、各組の特色も徐々にはっきりしていき、特に昭和末から平成初期にかけては、「ダンスの花組」「芝居の月組」「日本物の雪組」「コスチュームの星組」と呼ばれた。1982年、トップスター松あきら・二番手男役寿ひづるが共に「夜明けの序曲」で退団。観客と一体となった舞台の熱気はすさまじく、芸術祭大賞を受賞した。1984年、星組の大劇場ヒロインに湖条れいかが抜擢され、すでにトップ娘役の地位にあった南風まいとともに1986年までWトップ娘役体制となる。1985年、月組トップコンビの大地真央・黒木瞳が同時に退団した。以後、トップスターとその相手役が同時退団することは珍しくなくなったが、このことについて「良い部分を次代のスターに継承できない」との批判もある。1986年星組公演『レビュー交響楽』で126人のラインダンスを披露し、これが最多規模での実施となっている。1987年、『ミー・アンド・マイガール』日本初演。同年にほぼ同一キャストで再演し、現行の公演システムでは唯一のロングラン例。1989年(昭和64年 - 平成元年)、昭和天皇の崩御をうけ、当日・翌日の全公演を自粛。大喪の礼当日も公演を自粛した。同年から“20世紀最後”と銘打った『ベルサイユのばら』の再演が開始され、1970年代の初演に対し「平成のベルばら」と称される。うち1991年には、月組『ベルサイユのばら』(主演:涼風真世)を皇太子徳仁親王が観劇した。1992年、雪組『忠臣蔵〜花に散り雪に散り〜』をもって宝塚大劇場を閉場。1993年に、新・宝塚大劇場が開場した。こけら落とし公演は『宝寿頌』『PARFUM DE PARIS』。春日野八千代他、各組のトップスターが日替わりで出演することに加え、高田賢三デザインの衣装が話題となる。高田はメイク・靴等も担当したため、その影響は大きく、この公演を境に舞台メイクがよりナチュラルに変化していった。1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。劇団員に死者は出なかったものの、本拠地での公演中止を余儀なくされた。同年3月31日からの『国境のない地図』にて公演を再開するものの、この後、観客動員数は大幅に低下し、元の水準に戻ったのは2001年のことである。1996年、『エリザベート』が雪組にて日本初演(主演:一路真輝)。「死神」という暗いイメージに前評判はいまひとつだったが、初日が開いたとたんに絶大な支持を集める大ヒット作品となった。その後も複数回再演され、定番の演目の一つとなった。1997年12月、旧・東京宝塚劇場が閉場し、新築立て替え工事を開始。工事期間は、帝国劇場を2回使用した後有楽町駅付近に立てられた仮設劇場・TAKARAZUKA1000days劇場で公演が継続され、その名の通り約1000日間使用された。1998年1月、東京での通年公演実現のため、宙組が新設される。香港公演『夢幻宝寿頌』『This is TAKARAZUKA!』が組として最初の公演となる。1999年には愛華みれと稔幸がトップスターに就任。すでにトップの地位にあった真琴つばさ・轟悠とともに、2001年まで同期生トップスターとして並び立つ。同時期に4名は最多となる。2000年5月、当時の2番手・3番手男役スター10名全員が専科へ移籍することが発表された。突然の事態にファンは騒然となり、公式HPにアクセスが殺到した。専科には、黎明期に分野別に実力のあるスターが配属された他、1970年代まではスターが所属し各組へ主演格で特別出演していた。しかし、スターシステムの確立以後は、ベテラン脇役が所属するのが慣例であり、スター10名が一度に移籍するのは珍しいことであった。劇団は、従来の専科と異なりスターとして特別出演すると説明したため、2000年の人事異動は「新専科」と通称される。2001年、新・東京宝塚劇場が開場。建設期間中、仮設の1000days劇場の稼働率(1998-2000年の三年間)は実に96%を誇った。人口は多いが劇場の小さい東京はほぼ100%を堅持しているが、人口が少なく劇場の大きい宝塚は90%前後となっている。しかしながら、通常公演でチケットが完売することも稀になっており観客動員数は年々低下している。少子化の影響もあり、隣接していた宝塚ファミリーランドは閉鎖された。歌劇団の制作部企画室もファンの高齢化を指摘している。新たなオリジナル名作・良作もなかなか誕生せず、人気演目『ベルサイユのばら』『エリザベート』の再演頻度も高くなってきている。2004年に創立90周年を迎えた際に、「百年への道」と冠した歌を奉唱。またこの年には、安蘭けい、瀬奈じゅん、貴城けい、水夏希、霧矢大夢、大和悠河の当時の中堅スター6名が、所属していた組以外の公演に特別出演し、瀬奈と水は後に出演した組への組替えを経て、トップスターに就任している。創立95周年を迎えた2009年には同題で奉祝式典を挙行するなど、来る2014年に創立100周年を迎えることを強く意識する一方で、『太王四神記』、『相棒』などの人気テレビドラマや、『逆転裁判』などゲーム題材にした作品の上演など新たな取り組みを行った。2009年には、本公演の公演期間を短縮し、5組化以降の懸案だった年10回の本公演を実現。ただし、東西両方の劇場で従来のA席・B席を大幅に減らした上でSS席・S席のチケットを値上げした。高級感のある高額なグッズ・土産物の販売等も行われており、かつてのような映画料金よりも安い"庶民の娯楽"からは遠ざかりつつある。(2014年4月の消費税率引き上げ時にも値上げが行われている。)2010年には、本拠地の宝塚大劇場の年間動員数が、100万人を割り込み、約80万人にとどまった。100万人を割り込んだのは1995年度以来。このときは阪神・淡路大震災の影響で約2か月半休演していたため、通常より公演期間が短かったが、そのときの約96万人より下回る結果となった。2014年、創立(初公演)から100周年を迎えた。4月には宝塚大劇場にて、OG・現役スターが出演する祭典及び記念式典が行われた。100周年記念公演は月組(主演は龍真咲)がレビュー『TAKARAZUKA花詩集100!!』などを3本立てで上演した。100周年のイベントの効果もあり、2014年度の観客動員数において、宝塚大劇場が約118万人、東京宝塚劇場が約98万人を記録し、大劇場は1993年の現劇場開場以来、東京宝塚劇場は2001年の現劇場開場以来、それぞれ過去最高の動員人数を記録した。宝塚歌劇団創設時から、小林一三には「国民劇」という構想があった。それは西洋の題目のみならず日本の時代劇なども、西洋風のメロディーで展開する物であった。宝塚歌劇団に男性団員を加入させるという案は二度に渡り実施されたが、いずれも周囲の反対により立ち消えている。1919年(大正8年)、宝塚音楽歌劇学校に選科を設けて第一期と第二期の計8人の男子生徒を入学させたが、10か月後に解散している。第一期には堀正旗、後に新国劇の辰巳柳太郎、藤原歌劇団演出家の青山圭男、第二期には白井鐵造、岸田辰彌がいた。第二次世界大戦後の1945年11月に1名と12月に4名が第一期生、1946年3月に第二期生3名、1947年4月に第三期生5名、公募により宝塚歌劇団に特設された部署に男子生徒が計13名入学した。各期3年にわたり声楽、日舞、バレエ、演劇のレッスンを経た後のデビューを目指した。しかし、女子劇団員やファンらの反対により、最後まで本公演には出演することはなく陰コーラスを歌ったのみに留まる。他に1947年12月に女子団員1名と共演し宝塚中劇場でオペレッタ「さらば青春」を上演した。1952年1月に第四期生12名が採用されたが、前年の「虞美人」の成功で女性だけでもレベルの高い演劇を生み出せる事が改めて確認されたために、小林一三は男女共演の宝塚から元の女性だけの宝塚歌劇に復帰させて、最終的に1954年3月、解散となった。同期の女性がスター街道を歩むのに、男性に宝塚では活躍の場が無く、それまでに辞める者も出て、残っていた男子劇団員のうち7名は宝塚新芸座(軽演劇)に専属座員へ移籍し演劇活動を継続し、他の6名は北野劇場ダンシングチームに専属になった。その一方で芸能界から引退し、宝塚にいた頃の事を秘密にしていた者も多かった。男子部出身の有名人としては、2期生に西野バレエ団創始者の西野皓三、4期生にはのちに写真家になった矢頭保らがいる。2004年に演劇ジャーナリストの辻則彦により男子部の足跡を追った本『男たちの宝塚』が出版され、それをもとに2007年に劇作品『宝塚BOYS』が全国で上演され、2008年と2010年と2013年にも再演された。主な卒業生については宝塚歌劇団卒業生を参照。◎マークは現在宝塚歌劇団に在籍している演出家★マークは宝塚歌劇の殿堂入りしたスタッフ当初は阪急電鉄出版部(大阪市)、2003年7月からは阪急コミュニケーションズ(阪急の出版事業をTBSブリタニカと統合)が発行していたが、2014年10月以降は宝塚クリエイティブアーツが発行。QuatreRevesや阪急電鉄の売店(ラガールショップ)で販売している。阪急百貨店には「宝塚コーナー」があり、関連書籍のほかグッズを販売している。関連商品にはネクタイなど男性向けのものもある。阪急系列の関西テレビ放送(フジテレビ系)との結びつきが強く、1964年ごろには毎週木曜日の夕方に『宝塚民話劇場』という題名で30分番組を放映していた。その他、毎週土曜日(後に毎月1回)に、『ザ・タカラヅカ』(毎週土曜時)→『タカラヅカ花の指定席』(毎月1回時)等を含めた『宝塚歌劇舞台中継』として劇場中継を実施したほか、『阪急ドラマシリーズ』でも初期の頃はタカラジェンヌがレギュラー出演していた。また1999年夏の7月 - 8月には前出の関西テレビ限定で『タカラヅカ花組図鑑』というミニ番組が放送されたこともある。また、1969年 - 1979年までは、関西テレビのバラエティやドラマに出演するため若手団員がバンビーズに選ばれていた。バンビーズからは後のトップスター、トップ娘役を含むスターも数多く誕生している。なお『タカラヅカ花の指定席』での提供読みは「この番組は、阪急電車と楽しさあふれるお買物、阪急百貨店がお送りします(した)」。それ以前は提供読みがなく「提供 阪急電車 阪急百貨店」の表示に歌のない阪急のテーマソングが流れていた。現在は東京MXテレビ制作の『TAKARAZUKA CAFE BREAK』を提携の放送局にて、関西テレビで『夢見るシアター』が視聴できる。極めて稀ではあるが、劇団員がテレビドラマにレギュラー出演することもある。1994年度上半期、NHK朝の連続テレビ小説『ぴあの』に純名里沙(当時:雪組、後に花組トップ娘役)が現役タカラジェンヌとして初めてNHKの朝ドラのヒロインを務めた。また、TBSの朝ドラには、遥くらら(後に雪組トップ娘役)が、TBSのドラマには、鮎ゆうき(後に雪組トップ娘役)が、主演したことがある。その他、バラエティ番組やドキュメンタリー番組に現役タカラジェンヌが出演することもある。2001年7月、宝塚歌劇の劇場中継を中心に、劇団員の特集やバラエティを放送する専門チャンネル「TAKARAZUKA SKY STAGE」を東経110度CS放送のスカイパーフェクTV!2にて放送開始。2007年2月時点ではその後継であるスカパー!e2、および一部のケーブルテレビなどで視聴できる。スカパー!e2における他のチャンネルとは異なり、番組を制作する阪急電鉄自身が、総務省より委託放送事業者の認定を受けている。その他、下記の衛星放送チャンネル内で宝塚の番組を視聴することができる。☆印は、TAKARAZUKA SKY STAGEでも視聴可能な番組。2014年8月22日から、『100%宝塚』が放送開始。宝塚歌劇を見たことのない有名人に各組より選抜された若手スターがエスコート役として宝塚歌劇の魅力を伝える。『宝塚ファン・コンテスト』が1955年から毎日放送系列で30分間の公開録音番組として1974年まで19年間放送されていた。『ビバ!タカラジェンヌ』が、1981年頃から、毎週日曜日にラジオ関西系列で放送されており、宝塚の生徒が週替わりでゲスト出演をしている。また、1999年7月4日から宝塚歌劇団卒業生でパーソナリティーの風さやかによる『風さやかの愛と夢 永遠のタカラジェンヌ』も毎週月曜日に同局で放送されており、こちらはタカラジェンヌOGたちが多数ゲスト出演している。過去にはラジオ大阪でも『オー!マイアイドル』という宝塚の生徒がゲスト出演する番組があった。2009年12月23日には、NHK-FMにて、『今日は一日“タカラヅカ”三昧』という特別番組が放送された。12:15 - 23:00までという10時間45分という長時間放送で、総合MCは真琴つばさが担当。現役・OGが多数出演し、フリートークや楽曲のリクエストコーナーなどバラエティに富んだ内容の企画だった。タカラヅカ レビュー シネマとして、舞台の映画映像化が試みられている。宝塚歌劇の華やかな舞台と映画的な演出を融合した“映像美”で魅せる宝塚の世界をコンセプトにしている。最新のデジタルシネマ技術を駆使した撮影、映像や音源の収録が行われ、映画スタッフによって映像演出や編集されているため、通常の公演DVDとは一線を画している。2009年6月公開、第一弾の『ソロモンの指輪』(2008年雪組公演)が上映され、第21回東京国際映画祭にも出品された。2010年2月に、第二弾の『太王四神記 ver.II』(2009年星組公演)が全国25の映画館で上映された。10月に、第三弾の『THE SCARET PINPERNEL』(2010年月組公演)が先行上映、2011年1月から全国ロードショーされた。タカラジェンヌは不祥事を起こすことが殆どなく、多くのイメージキャラクターを務めている。かつて、ライオンのシャンプーやハウス食品「六甲のおいしい水」のCMで、それぞれ選抜メンバーによる、ユニットのCMが放映された。以下には、恒例かつ長期間のものを挙げる。()内は訪問国(訪問順)、国名・国旗・地名は当時。慰問・訪問等は含まない。称号・身位は当時(天皇・皇后を除く)。()内は、大=宝塚大劇場・東=東京宝塚劇場を指す宝塚歌劇団には、劇団から授与される「宝塚歌劇団年度賞」と阪急すみれ会の「パンジー賞」という独自の賞がある。「年度賞」には、特別賞・優秀賞・努力賞・新人賞・団体賞・レッスン奨励賞という6つの種類があり、特別賞・優秀賞・努力賞・新人賞は、舞台での演技に対して生徒個人に対して贈られ、団体賞は、作品やショーに出演していた生徒全員に対して贈られる。またレッスン奨励賞は、公演とは関係なく、劇団レッスンへの出席率が高い生徒に贈られる。

出典:wikipedia

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