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保守党 (イギリス)

保守統一党(ほしゅとういつとう、)は、イギリスの政党。正式名称はスコットランドと北アイルランド以外ではあまり使用されず、通常は保守党(ほしゅとう、)を使用する。イギリスの二大政党の一つである。国際民主同盟に加盟。前身は「トーリー党」である。これを1830年代から40年代に掛けて「保守党」として近代化したのがロバート・ピールであるが、現在でも党の俗称としてが使用されることがある。以降、20世紀初頭までは自由党と、1920年代以降は労働党と共に二大政党制を形成し、政権交代を繰り返している。保守党の歴史は17世紀以来のトーリーに遡ることが可能である。一方で直接の起源は1780年代から1800年代にかけてのウィリアム・ピット(小ピット、1783年から1801年及び1804年から1806年まで首相)の支持者たちのグループに求められる。彼らの多くはホイッグ出身であり、小ピット自身もホイッグとして経歴をスタートさせたため独立派ホイッグ (Independent Whig) と名乗っていた。この時期にはピットの支持者たちはトーリーと協力し、チャールズ・ジェイムズ・フォックス率いるホイッグの一派と対峙する状況が生じた。1806年の小ピットの死後はホイッグ出身のピット派もトーリーを名乗るようになり、旧来のトーリーを含めて新しいトーリーが誕生した。ピット派に加えて新しいトーリーの誕生に寄与したのがロッキンガム派のホイッグ()のメンバーであった。彼らのうちロッキンガム侯爵死後の指導者であったポートランド公爵やエドマンド・バークといった保守派の人々はフランス革命への対応を巡ってフォックスやチャールズ・グレイ(後のグレイ伯爵, 1830年から1834まで首相)といった他の有力者と対立関係に陥った。やがて彼らはフォックスらとは袂を分かち1794年からポートランド公爵が内務大臣として入閣するなど、ピット内閣に参加することとなった。次いで1807年にはピット派やトーリーの支持を得てポートランド公爵が首班となる内閣が成立し、これが新しいトーリーの最初の政権となった。この保守党の直接の祖先であるピット派もしくは新しいトーリーは1783年の第1次ピット内閣成立から1830年まで短期間(1801年 - 1804年, 1806年 - 1807年)を除いて一貫して政権を担い、特にリヴァプール伯爵は1812年から1827年まで15年にわたって首相として安定した政権を維持した。しかしこのリヴァプール政権の末期にはカトリック解放問題を巡る党内の対立が現れ始めた。リヴァプール伯爵の後任はカトリック解放に積極的なジョージ・カニングであったが解放反対派はカニング内閣への協力を拒否した。内閣はカニングの突然の死によって短命に終わり、カニング派のゴドリッチ子爵の数か月余りの内閣を経て初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーが1828年に首相に就任した。その後1830年には議会での不信任決議案の可決によりウェリントン公爵は首相を辞職し、23年ぶりにグレイ伯爵率いるホイッグに政権を明け渡した。この間党内対立の焦点であったカトリック解放問題はウェリントン内閣の下でが成立したことにより解決したものの、ウィリアム・ハスキソン、パーマストン子爵らは党内で孤立を深めた。その結果カニング派はトーリーを離れてグレイ内閣に協力することとなり、やがてホイッグと合流した。一方分裂後のトーリーでは貴族院ではウェリントン公爵が、庶民院ではロバート・ピール(首相在任: 1834年 - 1835年及び1841年 - 1846年)がそれぞれ指導的な役割を果たしたが、この両者、特にピールによる尽力がトーリーから保守党への移行に決定的な役割を果たした。保守党が誕生した正確な年代を特定することは困難である。既に1820年代にはジョージ・カニングが自らの政治的立場を語る際にトーリーの語を避けて``conservative"と表現している。しかし保守党の誕生は1830年代の組織改革の結果と一般には考えられている。まず1832年のに際しトーリー議員を中心とする反対派が``conservative"と自ら名乗るようになった。同時期にはが党に所属する議員をメンバーとするクラブとして発足し、議員の組織化が図られた。さらに1834年にロバート・ピールが自らの選挙区の有権者に対してを発表したことも重要な転機である。タムワース・マニフェストは必ずしも党の全ての議員に受け入れられたわけではないが、少なくとも幹部層の間では党の方針であると暗黙のうちに了解された。こうして議会内の組織として政策的選好もしくは綱領を共有した近代的な政党としての保守党が確立された。こうして誕生した保守党による最初の本格的な政権は1841年に成立した第2次ピール内閣であった。ピール内閣は内政面でタムワース・マニフェストにも現れた自由主義的な路線に沿って政権を運営してきたが、1845年に生じた穀物法廃止問題で危機に直面した。穀物法こそはナポレオン戦争後のイギリスの保護主義政策を支える法案のうちで最重要のものであり、従って同法の廃止は通商政策の保護貿易から自由貿易への転換を意味していた。穀物法廃止賛成派は閣僚及び党幹部の間では多数を占めていたが、農業に利害を持つ地主貴族の多い一般議員も含めた党内全体では少数派であった。保護貿易派ではベンジャミン・ディズレーリやジョージ・ベンティンク卿といった若手議員が活発に運動を行っており、彼らは陸軍大臣兼植民地大臣のスタンリー卿(後のダービー伯爵 首相在任: 1852年, 1858年 - 1859年, 1866年 - 1868年)をリーダーに担いだ。結局党内調整に失敗したピールは辞意を固めるが、ホイッグ内の対立により後継内閣の組閣の目処が立たなかったため続投、1846年にホイッグの協力を得て穀物法の廃止は達成された。ここに至って自由貿易派と保護貿易派の対立は決定的になり自由貿易派は離党しピール派と呼ばれる新党を結成した。ピール派の離党は保守党に大きな打撃を与えた。以前の党幹部で閣僚経験の豊富な政治家の多くが離党組に含まれていたからである。1852年にダービー伯爵が組閣した際には13人の閣僚のうちダービー伯爵自身を含む4人のみが以前に閣僚の経験があるという状態であった。また1874年に至るまで議会で過半数を握ることはなかった。その中で党首を務めたダービー伯爵は党組織の再建に尽力すると共にピール派との再統合を試みた。そのピール派は1850年のピールの死後も独立した政党として活動したが、1852年には自党のアバディーン伯爵を首班にホイッグ及びと連立内閣を成立させるなど徐々にホイッグ寄りの立場をとるようになった。1859年にはホイッグ、急進派とともに自由党を結成し合流することでピール派はその歴史に幕を閉じた。保守党の党勢の回復は新たに政治参加を始めた労働者階級を取り込むことによっても図られた。第3次ダービー内閣では参政権の拡大が課題となり、ついに1867年同内閣の下で都市労働者にも選挙権を与えるが実現した。翌年ダービー伯爵は引退し、ベンジャミン・ディズレーリ(首相在任: 1868年, 1874年 - 1880年)が後任の首相に就任した。1868年の総選挙で保守党が自由党に敗れるとディズレーリは辞任し、代わって自由党党首のウィリアム・グラッドストン(首相在任: 1868年 - 1874年, 1880年 - 1885年, 1886年, 1892年 - 1894年)が組閣した。以後選挙を通じた2大政党間の政権交代が定着することとなる。ディズレーリの時代には1870年に保守党中央事務局(Conservative central office)が設立され全国に地方組織が確立されるなど、党の主に議会外での組織化と党首の権限強化が進んだ。ディズレーリは1874年に政権に復帰し、1880年の総選挙敗北の後1881年に死去した。その死後しばらくは貴族院のソールズベリー侯爵、庶民院のスタッフォード・ノースコートの二頭体制が続いたが1885年までにソールズベリー侯爵(首相在任: 1885年 - 1886年, 1886年 - 1892年, 1895年 - 1902年)が党首として党を掌握し、同年首相に就任した。1886年にはを推進するの支持を得て、自由党の第3次グラッドストン内閣が第1次ソールズベリー内閣に代わって成立した。グラッドストンは早速アイルランド自治法案を議会に提出したが、この自治問題は自由党を二分することになる。ついにハーティントン侯爵(後の第8代デヴォンシャー公爵)とジョゼフ・チェンバレンに率いられた反対派は自由党を離れて自由統一党(リベラル・ユニオニスト)を結成した。続く総選挙で保守党が第1党となるとリベラル・ユニオニストは保守党への閣外協力を決め第2次ソールズベリー内閣が成立した。以後両党はを旗印に選挙協力などを通じて一体化していくが、正式な合併は1912年を待たねばならなかった。ただ既に1886年12月には第2次ソールズベリー内閣の大蔵大臣を務めていたランドルフ・チャーチル卿の辞任に伴い、リベラル・ユニオニストのジョージ・ゴッシェンが後任に就任、その後1895年には連立政権に移行した。この自由党の分裂と離党組の保守党との協力関係の確立は保守党の自由党に対する優位をもたらし、ソールズベリー侯爵による通算13年にわたる安定した政権運営を可能にした。1902年にソールズベリー侯爵が引退すると、再び通商問題を巡る対立が保守党を揺るがした。既に1850年代にダービー伯爵の指導の下で保守党は保護主義を放棄し自由貿易支持に転換していた。しかし20世紀に入ると植民地大臣を務めていたチェンバレンが関税改革を提起した。この関税改革は特に製造業におけるアメリカやドイツの企業との激しい競争を背景に、いわゆるの導入を図るものであった。帝国特恵関税とはイギリス植民地や自治領間では低率の関税を採用するものの、それ以外の国や地域との間には高率の関税を課すものである。チェンバレンの提起する関税改革はイギリス製造業の保護や関税収入を様々な社会改革の財源に充てることを目的としたものであったが、自由貿易からの逸脱であることは明確であり保守党内で物議を醸した。デヴォンシャー公爵や大蔵大臣を務めていた、前大蔵大臣でソールズベリー侯爵の側近だったサー・マイケル・ヒックス・ビーチ准男爵らは自由貿易の維持を唱えチェンバレンに反対した。両派は様々な運動を展開し改革派はを自由貿易派は自由食糧同盟をそれぞれ設立して、対立は徐々に激化した。首相で党首のアーサー・バルフォア(首相在任: 1902年 - 1905年)は将来の関税改革は否定しないものの当面は自由貿易を維持するという曖昧な態度をとり党内の対立を収拾しようと図った。さらにバルフォアは1903年、チェンバレンとリッチーを含む自由貿易派の閣僚3名の双方を辞任させる措置をとったが、対立は収拾されず1905年に辞任を余儀なくされた。一方の自由党はヘンリー・キャンベル=バナマン(首相在任: 1905年 - 1908年)の下自由貿易擁護で団結し、その結果1906年の総選挙では圧勝した。他方保守党は党首のバルフォアが落選する程の惨敗で打撃を蒙った。保守党はキャンベル=バナマン、H. H. アスキス(首相在任: 1908年 - 1916年)の2代の自由党内閣の下での9年間の野党経験を経て、1914年に第1次世界大戦が勃発したことに伴いアスキスの挙国一致内閣に参加する形で政権に復帰した。この間1911年には落選後1906年のシティー・オブ・ロンドン選挙区の補欠選挙で復帰していたバルフォアに代わってアンドルー・ボナー・ローが党首に就任した。1916年には戦争指導を巡って閣内対立が生じ、保守党はデイヴィッド・ロイド・ジョージ(首相在任: 1916年 - 1922年)ら首相批判派に同調した。その結果アスキスは辞任しロイド・ジョージが後任に収まった。1918年の戦争終結後も保守党は連立政権を維持したが、自由党の方は連立継続を巡ってロイド・ジョージの連立派とアスキスの野党派に分裂した。この結果ロイド・ジョージ派は単独では庶民院での過半数を失ったため保守党に政権の基盤を依存せざるを得なくなった。一方の保守党では党首のボナー・ローが病気のため1921年に辞任し、連立維持に積極的なオースティン・チェンバレンが後任となった。1922年にボナー・ローとスタンリー・ボールドウィンは自由党との連立政権の崩壊を主導し、保守党党首に返り咲いたボナー・ローついでスタンリー・ボールドウィンが保守党単独政権を組閣したが、1923年の総選挙で保守党は第一党を保持したものの、自由党の閣外協力を取り付けたラムゼイ・マクドナルド率いる労働党政権が誕生した。この初の労働党政権はジノヴィエフ書簡事件などの為、同年の総選挙での敗北で崩壊した。再び保守党のボールドウィンが組閣したが1929年に労働党に再び総選挙で敗れて下野した。しかし労働党のマクドナルド内閣はこの年起こった世界恐慌への対応策として年金削減等を行ったことで労働党から除名され、1931年マクドナルドは自由党・保守党を加えて労働党を除いた「国民政府」とよばれる内閣を組閣し1935年まで続いた。1935年にマクドナルドは病気引退し、ボールドウィンついで1937年にはネヴィル・チェンバレンが国民政府を継承し組閣した。しかしチェンバレンはヒトラー率いるナチス=ドイツに宥和策をとり続けた結果、ポーランド侵攻をまねき第二次世界大戦がはじまった。1940年にフランスの敗勢が明らかになるとチェンバレンは退陣した。代わってウィンストン・チャーチルは保守党・労働党・自由党からなる挙国一致内閣を組閣し、そのリーダーシップで第二次世界大戦を戦った。しかし第二次世界大戦の対ドイツ戦勝利後の総選挙で労働党に敗北し、チャーチルは下野した。では、初めての女性党首マーガレット・サッチャーが誕生した。「ニューレイバー」を標榜するブレア政権下、中流階級の支持は労働党や自由民主党へ流れ、支持層がイングランドの富裕層に偏るなど、党勢の衰退が指摘され、2005年の総選挙ではスコットランドで1議席しか獲得できず、一時はマスコミに「保守党は死んだ」とまで書かれるほど深刻な状況に陥った。しかし、総選挙の敗北を受けて行われた党首選で39歳のデービッド・キャメロンを選出したことで、徐々に党勢の立て直しに成功。一部世論調査の支持率で労働党を逆転した。2006年に行われたイギリスの統一地方選挙では1992年以来最高となる316議席を獲得。2007年に誕生した労働党ゴードン・ブラウン政権の支持率が低落する中、翌年3月の支持率調査では20年来で最高水準となる16%の差をつけてリードした。同年秋の金融危機では政権批判を強めたが、既存の金融エリートと保守党との深い繋がりから支持率が伸び悩むなど、旧来の支持層との関係において依然として困難な課題を抱えていることを露呈した。世界金融危機後は政策の保守色を薄めて中道化し、2009年に入り支持率に労働党と再び二桁の差をつけるなど、政権奪還に向けて攻勢を強めた。2010年の総選挙では、一時は自由民主党が世論調査でトップに躍り出たが、終盤になって保守党は優位を固めた。選挙の結果、保守党は13年ぶりに第1党を奪回したが、単独過半数には届かなかった。このため、議会は単独過半数を制する第一党が存在しない「ハング・パーラメント」と呼ばれる状態となり、自由民主党との連立政権樹立で合意。デーヴィッド・キャメロン政権が発足した。キャメロン政権は財政健全化のために緊縮財政や増税、福祉や公共サービスの削減に取り組んだ。しかし、景気は一向に上向かず、若年層を中心に不満が爆発。国内で暴動が頻発し、警官隊と市民が衝突する異常事態となった。2012年5月に迎えた統一地方選では、連立を組む自民党と合わせて700議席以上を減らし惨敗、対する労働党は800議席以上を増やした。2015年の総選挙前の世論調査では概ね労働党と支持率が並んでいたものの、実際の得票率では6.5ポイントの差をつけ、単独過半数を制した。この結果、キャメロン政権は保守党単独政権となった。2016年イギリス保守党党首選挙では、テリーザ・メイが誕生した。富裕層や地方出身者、中高年層からの支持が強い。

出典:wikipedia

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