LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

大道典良

大道 典良(おおみち のりよし、1969年10月28日 - )は、三重県志摩郡大王町(現:志摩市)出身の元プロ野球選手(外野手・内野手)、野球指導者。2013年より福岡ソフトバンクホークスの2軍打撃コーチを務める。2001年から2012年までの登録名は大道 典嘉。2013年以降は本名で活動。大王町立船越中学校を卒業。明野高校2年生の夏に甲子園出場。ただし、この時は控え投手(4番手)で試合には出場していない。センターのレギュラーになったのは2年の秋からである。南海ホークスでは最後となったのドラフト会議で4位指名を受けて入団するも、レギュラー定着には至らなかった。入団当時の体重は70kgで、現役晩年よりも30kg以上痩せていた。1989年10月14日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)に代打で初出場し、阿波野秀幸からプロ初安打を打った。にはドラフトで主砲候補と期待されていた小久保裕紀が入団し、小久保の練習風景を見てパワーに驚愕した。以後「これでは飯を食えない」と、持ち味の長打力を捨てて、藤本博史の右打ちを参考に「大柄な体を小さく曲げ、バットを極端に短く持つ」という独自の流し打ち打法を作り上げた。はスコット・ライディの不振によってチャンスを得ると、流し打ちの練習による効果が出てレギュラーに定着し、規定打席不足ながら打率.325・10本塁打・51打点の成績を残した。は前年より数字は落ちたものの3番に定着し、規定打席にも到達。1998年以降は柴原洋・村松有人との併用により打席数は減少したため、規定打席に到達したのはこの年のみだった。シーズン終了後、吉永幸一郎・柳田聖人と共にスパイ疑惑が西日本新聞によって報道されたが、証拠不十分として処分には至らなかった。の日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)では、第6戦において敗戦につながる失策を犯している。から登録名を「大道典嘉」に改める。この年以降、スタメン出場では指名打者・一塁手が中心となった。それでもトニー・ミッチェルの不振によってレギュラーを奪取すると、夏場以降は右投手・左投手それぞれの対戦打率が3割を超えた。は前年より若干数字を落としたものの、モーガン・バークハートの不振によって再びレギュラーに定着する。この年に行われたプロ野球史上初の台湾遠征2連戦(対オリックス・ブルーウェーブ戦)では1戦目・2戦目で追撃の本塁打を放っている。は開幕から指名打者としてスタメン出場を果たしていたが、外野で起用する予定だったフリオ・ズレータがデビュー戦で守備難を露呈したため、指名打者で大道と併用されるようになる(松中信彦が指名打者に入った時は、大道・ズレータ共に一塁を守った)。この年、オールスターゲームにファン投票で選出された。はズレータが指名打者に定着したこともあって、出番が激減した。しかし後半には一軍に昇格し、主に代打や相手先発が左投手での右翼手で起用された。も前年と同じ起用法だったが、この年の出場は全て代打、もしくは一塁手としてだった。この頃から打撃不振によって一軍と二軍の往復を繰り返すようになる。は開幕を二軍で迎えたが、チーム全体が打撃不振に陥ったことから5月下旬に一軍昇格。6月までは打率.313を記録していたが、7月に入ると成績が低下し、後半戦は代打での出番も少なくなった。そして、シーズン終了直後の同年10月15日に戦力外通告を受ける。本人が「あまりに急な出来事だった」と述べているように、妻との外出中に携帯電話が鳴り、出ると球団幹部からの戦力外通告だったという。これについて、「南海からホークスの選手として頑張った自負があったし、引退試合ぐらいはさせてもらえると思っていた。それだけに、携帯電話での戦力外通告というのはショックだった」と語っている。このため現役続行を決断したが、3日後に王貞治の計らいによって、深刻な右打者不足に悩む読売ジャイアンツへ無償トレードされた。背番号は44。の開幕は二軍で迎えたが、6月9日に一軍昇格を果たすと、同日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(東京ドーム)で代打として出場。この時の相手投手は吉田豊彦で、元南海ホークス所属選手同士の対決となった。結果は右前安打で、その後も代打で出場した。代打本塁打も記録し、ソフトバンク時代の2005年以来2年ぶりとなる通算11本目の代打本塁打となった。打点は本塁打の際の1点のみだったが出塁率は.405、長打率.472を記録している。も右の代打の切り札として活躍していたほか、膝に不安を抱えていた小笠原道大に代わって3番・一塁手としてスタメン出場することもあった。6月21日の対福岡ソフトバンクホークス戦(東京ドーム)では9回2死に代打で登場し、あと1球で完封勝利を挙げる可能性のあった杉内俊哉から同点本塁打を放った。その後は木村拓也が決勝打を放って、共に移籍後初のお立ち台に上がったが、この時の写真が東京ドームのロッカーに巨人を去るまで飾られていた。同年8月27日の対横浜ベイスターズ戦では決勝点となるシーズン2本目、通算15本目の代打本塁打を放ち、当時の現役選手では単独トップとなった。は開幕を二軍で迎えたが、5月に初昇格。しかし調子は上がらず、シーズンのほとんどを二軍で過ごした。特に得点圏で結果を残せず、出場試合数は37試合にとどまった。しかし、シーズン終盤に入って徐々に調子を上げ一軍に復帰すると、クライマックスシリーズ第2戦(対中日ドラゴンズ戦)チェン・ウェインから決勝2点適時打、日本シリーズ第5戦(対北海道日本ハムファイターズ戦)の8回には林昌範から代打同点適時打を放ち、巨人の日本一に貢献した。当初、フロントはシーズンでの不振から大道に2009年限りでの引退を勧告するつもりでいたが、ポストシーズンの活躍により2010年の契約・現役続行となった。は一軍出場がシーズン終盤の5試合のみにとどまり、無安打に終わる。同年10月29日に現役引退を表明し、引退会見では同年4月に急逝した木村の名を出し「チャンスがあれば、タク(木村拓也)のようにコーチになりたい」と今後の方針を語った。大道の引退をもって、南海ホークスに在籍経験のある選手はすべて現役を退いた事になった。はニューヨーク・ヤンキースの傘下マイナーリーグで巡回コーチに就任、コーチの研修を積み、は巨人の育成コーチを務めた。この年限りで巨人は退団し、は二軍打撃コーチとして7年ぶりにソフトバンクに復帰。2012年10月中旬、読売ジャイアンツ球場で練習中に球団関係者に「ホークスから呼ばれた」と言われ、「その場で初めて、去年も“大道を戻してほしい”という話が来ていたと教えてもらった。王会長の頼みだし、巨人としてもさすがに2年目だから――と。呼ばれていくというのはコーチ冥利に尽きるよね」と語った。登録名も12年ぶりに本名の「大道典良」に戻すことになった。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。