LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

マイケル・シクルナ

"バロン" マイケル・シクルナ("Baron" Mikel Scicluna、1929年7月29日 - 2010年3月20日)は、マルタ共和国出身のプロレスラー。元WWWF世界タッグ王者、WWE殿堂者。ヒールの大型ラフファイターとして、ニューヨークのWWWFなどを主戦場に活躍した。ファーストネームの "Mikel" はラテン語式に「ミケル」とも発音される。カナダに移住後、1950年代にオンタリオ州トロントにてデビュー(当時のトレーニング仲間にはワルドー・フォン・エリックらがいる)。マイク・バレンティノ("Mike Valentino")をリングネームに、1960年代前半までカナダやNWAサンフランシスコ地区を主戦場に活動した。1965年よりWWWFに進出し、バロン・マイケル・シクルナ("Baron Mikel Scicluna")と改名。マルタ十字の施されたマントをまとった大型ヒールとして頭角を現し、1966年1月24日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に初挑戦、マルタ式背骨折りでサンマルチノを半失神に追い込んだ。同年9月22日にはスマッシャー・スローンとのコンビでジョニー・バレンタイン&アントニオ・プリエーゼからWWWF USタッグ王座も奪取している。1967年11月には日本プロレスに初来日。日プロには1968年2月にも再来日している。同年はオーストラリア(ジム・バーネットが主宰していたワールド・チャンピオンシップ・レスリング)にも遠征し、6月15日にシドニーでスパイロス・アリオンを破りIWA世界ヘビー級王座を獲得。7月6日にはサイクロン・ネグロと組んでマリオ・ミラノ&ドミニク・デヌーチから同タッグ王座も奪取した1970年上期はテキサスのダラス地区にて "Ripper Secuma" なる変名を用い、キラー・カール・コックスやボリス・マレンコと共にジョニー・バレンタイン率いるヒール軍団の一員となって活動、同地区で人気を博していたミル・マスカラスやワフー・マクダニエルと抗争した。同年下期よりWWWFに再登場し、キャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーにキング・カーティス・イヤウケアと "キング&バロン" のタッグチームを結成。1972年2月1日、カール・ゴッチ&レネ・グレイの独仏コンビからWWWF世界タッグ王座を奪取し、第3代の王者チームとなった。王座陥落後の1972年6月には国際プロレスに来日、ビル・ミラーと組んでストロング小林&グレート草津とのIWA世界タッグ王座決定戦に出場した。シリーズ中は草津初の金網デスマッチの対戦相手を務め、ラッシャー木村とも金網デスマッチで2回対戦している。翌1973年3月と1974年8月には全日本プロレスに登場し、1973年の来日時は『チャンピオン・カーニバル』の第1回大会に参加。トーナメント1回戦でサムソン・クツワダを下したが、2回戦でザ・デストロイヤーに敗退した。以降もWWWF / WWFを主戦場に、1976年6月1日には、モハメド・アリがゴリラ・モンスーンに喧嘩を売ったアングルにおいてモンスーンのジョバーを務めている(アリは同月26日にアントニオ猪木との異種格闘技戦が決定しており、そのプロモーションとしてWWWFのリングに登場した)。1978年4月には当時のWWFの提携ルートで新日本プロレスに初参戦し、『MSGシリーズ』の第1回大会に出場。すでに体力的なピークを過ぎていたこともあり決勝リーグ進出は果たせなかったものの、予選トーナメント1回戦ではチーフ・ジェイ・ストロンボーとの本場MSGでの定番試合が実現している(このストロンボー戦に敗退後、敗者復活戦の1回戦でマーティン・ジョーンズ、2回戦で藤原喜明を破り勝ち進んだが、決勝リーグ進出を賭けた3回戦で坂口征二に敗れた)。その後も中堅ヒールのポジションでWWFに定着し、ベテランのジョバーとして活動。1980年8月9日にシェイ・スタジアムにて開催されたビッグ・イベント "Showdown at Shea" では、ベビーフェイス陣営のジョバーだったドミニク・デヌーチとのシングルマッチが組まれた。1984年の現役引退後はWWFの重要拠点の一つだったペンシルベニア州フィラデルフィアに居住し、ニューヨーク・タイムズのトラック・ドライバーの職に就いた。1996年にはWWF殿堂に迎えられている。2010年3月20日、癌のため死去。。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。