ロベール・エマニュエル・ピレス(Robert Emmanuel Pirès, 1973年10月29日 - )は、フランス・ランス出身の元サッカー選手。ポジションはMF(サイドハーフ、センターハーフ)。フランス代表に長く名を連ねた。ポルトガル出身の父親とスペイン・オビエド出身の母親の間に生まれたが、本人は生まれも育ちもフランスなため、両親と自身の母国語の計3か国語を自在に操る。8歳で入団した地元のクラブ・サンタンヌで1983年、11歳以下のジュニア全国大会で優勝し、人生最初の優勝カップを手にする。その後スタッド・ランス=シャンパーニュのフォーメーションセンターを経て、1992年にFCメスとプロ選手契約。1993年4月、デイヴィジョン1(現在のリーグ・アン)デビュー。程なくクラブの中心選手として頭角を現し、フォワードのシリル・プジェとのコンビは当時「PPガンマンズ」と呼ばれ、爆発的な攻撃力を誇った。1996年にフランスリーグカップで優勝。この活躍によりフランス代表に招集され、1996年8月31日のメキシコ戦で代表デビューを果たした。また同年開催のアトランタオリンピック代表メンバーにも選ばれ、準々決勝まで進出した。1997-98シーズンには最終節で優勝を逃したものの、国内リーグでのクラブ歴代最高成績の2位を記録。この年のワールドカップ・フランス大会の決勝トーナメント1回戦・パラグアイ戦では、ゴールデンゴールとなったローラン・ブランのゴールをアシストし、優勝への過程に貢献した。ワールドカップ後、フランスの名門クラブであるマルセイユに移籍。1998-99シーズンはUEFAカップで準優勝、国内リーグでも2位と好成績を残す。翌シーズンはキャプテンに任命されるが成績は低迷し、一部の過激なサポーターが主要選手の車を襲う等問題が多発、このシーズン限りでフランスを離れた。UEFA EURO 2000に臨むフランス代表に選出され、決勝戦ではダヴィド・トレゼゲのゴールデンゴールをアシスト。フランス代表の優勝に貢献した。2000年にイングランド・プレミアリーグのアーセナルへ移籍。移籍当初は水が合わず思うような活躍が出来なかったが、2001-02シーズンにはフランス代表でも共にプレーするティエリ・アンリ、パトリック・ヴィエラらと共に主力として活躍し、プレミアリーグとFAカップの2冠を達成した。またこのシーズンは記者選定による最優秀選手に選ばれるなど、代表とクラブ双方にとって不可欠な存在となった。これらの活躍ぶりから2002年のワールドカップ・日韓大会でもフランス代表の主力メンバーとして期待されていたが、大会前に右膝の靭帯断裂という大怪我を負い選考から外れた。2004年、レイモン・ドメネクがフランス代表監督に就任すると、同監督との確執が生じ2004年10月頃から代表に招集されなくなった。また、クラブでは負傷や若手の台頭もあり、レギュラーの座を明け渡すようになった。2005-06シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝で、GKのイェンス・レーマンがレッドカードで退場した際に、控えのGKマヌエル・アルムニアと交代させられた。こうした事情もあり、2005-06シーズン終了後、長年プレーしたアーセナルに別れを告げ、スペインのビジャレアルに新天地を求めた。その矢先の2006年8月、ラモン・デ・カランサ杯のカディスCF戦で左膝十字靭帯断裂の大怪我を負い、戦線を離脱。なお、同大会ではゴンサロ・ロドリゲスも十字靭帯を負傷する大怪我を負った。2007年3月には調子を取り戻すためにビジャレアルの下部チームでプレーすることを希望したが、スペインサッカー連盟に却下された。2007年3月18日のソシエダ戦でようやく戦列復帰し、2007-08シーズンは主力として活躍した。2010年6月、契約を満了してビジャレアルを退団した。10月から古巣アーセナルの練習に参加し、11月17日にイングランド・プレミアリーグのアストン・ヴィラFCへの加入が発表されたが、9試合の出場に留まり、シーズン終了後に退団。アストン・ヴィラ退団後、3年近く所属クラブがない状態が続いていたが、2014年7月インディアン・スーパーリーグ参戦を表明。9月20日、FCゴアへの加入が発表された。翌2015年3月に退団。それから1年間近く無所属が続いていたが、2016年2月25日にメディアのインタビューにて現役引退を表明した。ちなみにピレスの引退により1998年のワールドカップ・フランス大会のフランス代表メンバー全員が現役引退したこととなった。228||51||||||||||||198||62||||||||||||102||13||||||||||||515||126||||||||||||
出典:wikipedia
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