ヒラヌマ(Hiranuma)は、太平洋戦争中の米軍によって報告された日本海軍が保有したとされる架空の戦艦。ヒラヌマなる艦名は日本海軍の命名慣例から大きく外れており、同名の艦船は当時の日本海軍に存在しなかった。1941年12月10日のフィリピン侵攻に際する空中戦において、米軍が「空の要塞」と誇っていたB-17が初めて撃墜され、機長のコリン・ケリーの死とともに、アメリカでそれが報じられた時に、そのB-17は戦艦を撃沈後に墜落したとし、その際に挙げられた可能性のある戦艦として、金剛型、榛名とともに伝えられたのが「ヒラヌマ」である。しかし、当時のアメリカの報道では、コリン・ケリーの報道と「ヒラヌマ」の報道は関連していない(後述)。「ヒラヌマ」という軍艦は、日本に存在せず、榛名は当時マレー半島沖にあった。アパリ沖にいたのは、重巡洋艦足柄、摩耶、軽巡洋艦球磨、名取以下で、日本側の記録ではこの日B-17とP-40の攻撃で受けた被害は、第19号掃海艇が被弾したのと名取が至近弾で死傷者29人を出しただけである。戦艦は誤認だったが、判定は、生還した搭乗員の報告を司令部の幕僚が「ジェーン海軍年鑑」と照合してまとめて、12月12日ダグラス・マッカーサー大将の名前で本国へ打電された。電報には「讃うべきはフロリダ州マジソン出身ケリー大尉の功績である。大尉は見事に戦艦榛名を攻撃し、これを航行不能とした」とある。前後して新聞記者の美談調の記事が送られ、話はエスカレートしていった。1941年12月12日付のThe Mercury紙は「日本海軍の戦艦が炎上」と題した記事を掲載した。この記事では、「マニラにて陸軍が発表した声明によるとフィリピンのルソン島沿岸北東10マイルの地点で日本海軍の29000トン級戦艦ヒラヌマがアメリカ陸軍による爆撃を受け炎上した」と報じており、同日付のThe Canberra Times紙やAdvocate紙も同様の報道を行っている。これらの報道にケリーの名は一切登場せず、爆撃機による体当たり攻撃が行われたという報道も存在しない。ヒラヌマの被害状況も撃沈ではなく、あくまで炎上としか報じられていない。ヒラヌマに関する報道自体も特に大規模に行われた訳ではない。12月10日の航空戦は「被撃墜後、戦艦榛名の煙突へ体当たりして撃沈した」と報道された。1944年9月2日付のThe Advertiser紙には「1941年以来の主要な出来事」と題した1941年12月から1944年9月までの年表が掲載された。この中で、1941年12月11日の欄には日本軍によるグアム攻撃と共に「日本の戦艦ヒラヌマを爆撃し、深刻な損傷を与えた」と記載されている。一方、1945年8月11日付のThe Daily Newsに掲載された「太平洋戦争のハイライト」と題された年表では、1941年12月11日の欄では「フィリピン沖にて米軍の爆撃により戦艦ヒラヌマが撃沈される」と記載されている。1945年9月28日付のWodonga and Towong Sentinel紙には太平洋戦争の経過を追う年表が付されたが、こちらの1941年12月11日の欄でも同様に記載されている。戦後、日本海軍の坂井三郎が『大空のサムライ』にて、アメリカにおける報道内容を「コリン大尉以下10名の搭乗するB-17は、圧倒的な日本空軍の攻撃を排除しつつ、ビガンの敵上陸地点を空爆した。戦艦ハルナ、戦艦ヒラヌマほか約40隻の日本艦隊は、上陸作戦中だったが、B-17は500ポンド爆弾3発を投下、そのうち1発はハルナに、2発はヒラヌマに命中、ともに大火災を発生させたが、敵艦載機数10機による包囲攻撃を受け、故障を生じたコリン大尉は、B-17をそのまま降下させ、ハルナに体当たりを遂行しこれを撃沈した。コリン大尉の勇戦こそは全軍の範とすべきである」と紹介して、米軍が「空の要塞」と誇っていたB-17が撃墜されたことから、「士気の低下を恐れた米軍が、(架空の)日本軍戦艦を撃沈した、との情報を流したのであろう」と語っている。坂井三郎はこのB-17を自分が撃墜したと主張しているが、記録によれば、坂井三郎はこの出撃で交戦していないとも書かれており矛盾がある。
出典:wikipedia
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