ダンプ松本(ダンプまつもと、1960年11月11日 - )は、日本の女子プロレスラー。タレント。本名・松本 香(まつもと かおる)。身長163cm、体重91kg、血液型B型。埼玉県熊谷市出身。えりオフィス所属。「D・松本」と表記されることもある。幼いころから父親の金銭、DV、女性問題等で苦労していた最愛の母親のために家を買って建ててあげたいという思いで、ビューティーペアに憧れて女子プロレスラーになることを志す。デビュー後の1984年、一番弟子のブル中野らとヒールのタッグチーム『極悪同盟』を結成。翌年にフジテレビで放送されていた『全日本女子プロレス中継』でヒールにもかかわらず人気を博し、クラッシュギャルズ(ライオネス飛鳥と長与千種が当時結成していたコンビ名)との抗争は女子プロレスを大いに盛り上げた。長与千種とは2度にわたり、敗者髪切りデスマッチを行った。リングネームの「ダンプ」は、本名時代のファイトを観たある客が「あいつ、ダンプみてえだ!!」と口走ったことに由来するとされる。全日本女子プロレスの松永高司会長は、このエピソードを引き合いに出して「スターはお客さんがつくってくれるんですよ」と語ったことがある。ダンプは松永会長からは生前には大変に可愛がってもらったとインタビューなどで語っている。得意技はラリアット。そのパワーを利して喉元にぶち当てる一撃は強烈で、相手が空中で一回転したこともあった。悪役レスラー当時、ダンプのアンチが実家に押しかけ、「ダンプ出て来い!」と玄関を叩きながら大声で叫ぶ、玄関先にダンプを中傷する張り紙を貼る、窓ガラスを割られる、といった嫌がらせを受けたことが何度もあり、母親に怖い思いをさせてしまったために一時は悪役レスラーを辞めようかとも考えたが、その当時はまだ給料も少なくとても貧しかったので、つらい中でも必死で頑張ったという。努力の甲斐あって、デビューから5年後には、地元に念願だった新築一軒家を購入して母親にプレゼントしている。母親は、リングでの凶行が演技だと知っていても、自分の娘が人様の娘をいたぶる姿に抵抗を感じていたそうで、試合会場へ観戦に訪れていた時には、毎回ケガをさせた対戦相手の元に謝罪に訪れていたといい、ダンプも母親に「試合中のケガの事で親が出てくるのは恥ずかしいから謝りに行かなくてもいいからね。」とよく話していたという。リング上でダンプがよく手にしていた凶器は当初は金属チェーンや鞭だったが、振り回した時に自分に当たりそれがとても痛かったことや、場外乱闘中にフジテレビで放送されていた 「全日本女子プロレス中継」 の常連ゲストの一人だった松岡きっこに誤って当てて指を負傷させてしまってからは現在の竹刀に替えた。ほかにもフォークやハサミ、一斗缶なども試合中には多用した。中継試合にゲストで招かれたタレントを威嚇 (いかく) して絡むのが定番だった。しかしゲストの一人だったガッツ石松がそれに対して本気で怒り、殴りかからんばかりに向かってきた時には内心怖くて逃げ出したかったが、テレビカメラの前だったので平静を装ったという。また、試合前の入場時や試合後に控え室に引き上げる際、テレビカメラマンを竹刀で頻繁に攻撃するのも定番であった。 ( 当時極悪同盟側についていたレフリーの阿部四郎も、松本に便乗して同じ様にテレビカメラマンを蹴ったり物をぶつける等をして攻撃していた事もあった ) 。凶器を多用した試合内容の反面、危険度の高い技の使用を控えている。流血した際は麻酔なしで結合させられ、ダンプ自身が抜糸を行っていた。仲が良くて飲み仲間でもあったプラム麻里子の試合中の事故の際、マスコミに対して「最近危険な技が増えてきていて、いつも危ないと思うことがある。いくら体は鍛えられても頭だけは鍛えることができない」と涙ながらに応えていた。試合中の奇抜なメイクは、ダンプの素顔が童顔で笑うとえくぼが出てしまい、ヒールレスラーでありながら可愛く見えてしまうことを避けるためで、キッスのメイクを参考にした。コスチュームは自己負担だった。ピーク時の1試合当たりのギャラは3万5千円で、月収は100万〜200万円であった。ヒールキャラが受けてバラエティ番組に出演するようになると、月収500万円の時もあったという。リング上ではヒールに徹するが、リングを降りれば涙もろく人情に篤い性格で後輩達の悩み事や相談などを親身になって聞いてアドバイスしたり、引率して飲食に連れて行く等と面倒見がとてもよかったために今でも多くの後輩レスラーから慕われている。またレスラー以外にも広く人望があり、多くの芸能人などとも幅広い交際範囲を持っている。ダンプの人柄を示すエピソードとして、ブル中野や小松美加、コンドル斉藤、北斗晶が一度だけ先輩のいじめやシゴキに耐えられず地方興行中に集団脱走して翌日全女の寮へ戻り、先輩たちに見つからないように隠れていたところをダンプに見つかってしまい、叱られると思い言葉を失っていたところ、ダンプは「おかえり。心配しなくても大丈夫だからね。」と優しく声をかけ、みんなで思わず抱き合って泣いてしまったという逸話がある。ダンプ自身もデビュー前や新人時代には先輩・同期・フロントの各方面から理不尽なシゴキ・いじめに耐えていたことを明らかにしており、後輩には自分がされてきたような理不尽なシゴキ・いじめなどは絶対にしなかったという。ただし同じヒール軍団の一員であった若手時代のアジャ・コングは松本に余り可愛がられず(アジャがプロレスデビュー前から熱狂的な長与千種ファンであったことは周囲に知られていて、アジャ本人はベビーフェイス志願だった)、アジャはダンプに対して新人時代には試合中に凶器を渡すミスをして殴られたりしたそうで「自分の中ではダンプさんとは合わなかった」と評している。クラッシュギャルズの二人とは同期でもありデビュー前から現在まで仲が良いが、当時の全女ではベビーフェイスとヒールが公の場で話をしたり仲良くすることは厳禁であったため、クラッシュギャルズファンに仲良しの場面を見られないようにとプライベートでも徹底してヒールを演じ、引退までは自分からわざと口を利かなかったことも語っている。また全女時代は自身のファンに対してもヒールを演じ切り、本心はファンに応援される事がとても嬉しかったが、サインや握手を求められても一切応じず、断る時も『暇じゃねぇ』などとわざと心にもないきつい言い方をして断っていたという。現在は極悪支部というファングループも全国各地にあり、昔とは違いファンサービスも喜んで応じていると語っている。デビュー前から中村雅俊を『雅俊さま』と呼ぶほどの熱狂的な大ファンで、全女時代に対談で初めて中村に逢えた時は素に戻ってしまい緊張してしまってなかなか話せず、感動のあまり思わず泣いてしまった、と後日テレビ番組で語った。自宅には中村の直筆サインが入った二人の2ショット写真の大型パネルが飾られている。1980年 - 前年の全日本女子プロレス新人オーディションに合格していたが、プロテストに通らず、一時は全女の営業車の運転手をしていた。トレーニングは過酷で、先輩の指示で道場に飾ってあった亀の甲羅を背負って這いずり回るしごきを受けたこともあったという。その後、選手数補強のためようやくプロデビュー。デビュー前から元々体格が良かったために、『太っていたからベビーフェイスよりもヒールが自分には似合っているし、ヒールでやるならベビーフェイスのファンからとことん嫌われるようなヒールのトップになりたい。』と本人は当時から思っていたそうで、そういった意向を会社に伝えてすぐにヒール軍団入りする。本人はファン時代、ビューティ・ペアのジャッキー佐藤の熱狂的な信者だった。ジャッキーが闘病中には頻繁に見舞いに訪れていたそうで、逝去後には『ダンプは泣き虫で、すぐに大泣きしてうるさいから私の見舞いに来るな!!とよく冗談ながらにジャッキーさんに言われました』と涙ながらにインタビューで語っていた場面が、当時のワイドショーなどで放映された。1983年 - ブラック・デビルの一員として(他のメンバーはデビル雅美、タランチェラ、マスクド・ユウ、山崎五紀など)、数年間全く芽の出ない、前座のヒールの地位に甘んじていたが、1月、地元の熊谷市民体育館でライオネス飛鳥の持つ全日本選手権に挑戦。飛鳥の負傷箇所であるヒザを徹底的にいじめ抜き、TKO勝ち。ベルトを強奪する。その後立野記代、山崎五紀を相手に2度の王座防衛に成功するが、6月、大宮スケートセンターでリターン・マッチに臨んだライオネス飛鳥にベルトを奪い返される。暮れのフジテレビ杯争奪タッグトーナメントでは、新人の小倉由美と組んで出場。1回戦で敗退。1984年 - タランチェラの引退、デビル雅美・山崎五紀のヒールからの離脱を機にデビル軍団とたもとを分かち、マスクド・ユウ(のちのクレーン・ユウ)と極悪同盟を結成。その直前に本名の松本香から、ダンプ松本へと改名し、髪を金に染め上げ、顔面に派手なペイントを施すスタイルを確立。前年から人気・実力が急上昇していたクラッシュギャルズの対抗馬として名乗りを上げる。レフェリーの阿部四郎と結託し、反則攻撃の「黙認」やクラッシュギャルズに対する超高速フォールカウントなどの、ひいきレフェリングのもとに凶器攻撃を多用する徹底的なヒールファイトを展開し、クラッシュファンの少女たちから、憎悪を一身に浴びる存在に。両チームのわかりやすい戦いの図式が熱狂を呼び、女子プロレスは全国的なブームへと発展していく。極悪同盟のメンバーは、ブル中野・コンドル斉藤・ドリル仲前・影かほるなど。1986年 - WWF(現WWE)に短期間の参戦。現地でもブル中野とタッグを組み3月8日にボストンのボストン・ガーデンでベルベット・マッキンタイヤー&ドーン・マリー組と、同月16日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでマッキンタイヤー&リンダ・ゴンザレス組と対戦している。ビクターエンタテインメントからミニアルバム『極悪』を発表して歌手デビューし、芸能人水泳大会に長与千種と出演したり、月刊明星では読者のお悩み相談コーナーもレギュラー担当するなど本業のプロレスと並行して芸能活動をしていた。1988年 - 2月22日に大田区体育館で「ダンプ大森引退特別試合」を開催。最初は親友の大森ゆかりと組んで、クラッシュギャルズを相手に対戦したが、4人全員が場外で流血した上、ダンプが味方の大森に凶器攻撃を見舞うなど収拾がつかなくなり決着つかず。しかし、ダンプのマイクアピールに他の3人が呼応し、パートナーを交換してダンプ&長与組と大森&飛鳥組による5分間のエキシビションマッチが組まれた。そして、2月28日に地元・熊谷市体育館でダンプの両親、妹に見守られながら一番弟子のブル、コンドルを相手に変則ラストマッチを行ってプロレスを引退した。引退試合の後には、「クラッシュギャルズのファンの皆さん、今までチーちゃん(長与)や智ちゃん(飛鳥)のことをいじめてすいませんでした。」と号泣ながら謝罪して、最後のマイクパフォーマンスを行った。引退後はダンプの元気で明るくユニークなキャラクターを生かして本格的にタレント、女優として芸能活動を始めた。大森ゆかりと、桃色豚隊(ピンクトントン)というユニットを組み、シングルCD「赤いウィンナー逃げた」を発売。1998年 - 全日本女子OG興行(「メモリアル・オールスター戦〜あの時、君は強かった!!」 1998年8月14日 川崎市体育館)におけるエキシビションマッチで、一日限りの限定復帰。一緒に発起人で参加した大森ゆかりやジャンボ堀とは全女時代から現在まで仲良しの親友である。2003年 - 本物のヒールを復活させるためとして、新日本プロレスの「魔界倶楽部」に共鳴するかたちで「極悪倶楽部」を結成。吉本女子プロレスJd'でマネージャーとして現場復帰。横浜アリーナにおける全日本女子35周年記念興行での限定復帰の直後に、低迷した女子プロレスを自分が復帰して少しでも盛り上げられればと思い、古巣である全日本女子の松永高司会長にサーキット参戦を直訴し、サソリと「極悪同盟」を再結成して全日本女子のサーキットに参戦。一時期プロレスに専念するため、芸能活動を休止した。2004年 - シャーク土屋の呼びかけに応えてGAEA JAPANに出現し、タッグ戦にてクラッシュ2000(元・クラッシュギャルズ)と対戦。2006年 - 初の自主興行「極悪血祭り」を新宿FACEで開催。毎回好評で、現在まで不定期に開催されている。2014年 - 12月9日に椿山荘で開催された「X'mas チャリティ・プロレス・ディナーショー!」に参戦した(○井上京子 & Sareee & 三田英津子 vs ダンプ松本 & 山田敏代 & 伊藤薫×)。2015年 - 5月23日大田区総合体育館で大仁田厚&長与千種を相手にTARUをパートナーに迎えて史上初の男女混合電流爆破タッグデスマッチ「大江戸超花火」を開催した。現在も多くのファンに試合会場へ足を運んで楽しく観覧してもらえるように女子プロレス界を盛り上げたいという強い思いでレスラーと芸能活動を両立しながら活躍している。レスラーとしてはマーベラスが主戦場としつつ、プライベートでも可愛がっている後輩堀田祐美子率いる「堀田暴走軍」にも参加。また近年はボディプレスをフィニッシュムーブにもしている。
出典:wikipedia
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