土屋 昌恒(つちや まさつね)は、戦国時代の武将。武田氏の家臣で譜代家老衆。金丸筑前守(虎義)の5男で、今川旧臣・武田家海賊衆の土屋貞綱の養子。信玄・勝頼期に仕える。父は金丸筑前守で、筑前守の次男・昌続は永禄4年(1561年)9月の川中島の戦い以降に土屋氏の名跡を与えられた。一方、養父の土屋貞綱は今川家臣・岡部氏の出自で、永禄11年(1568年)の駿河侵攻以降に武田家の海賊衆となり、永禄13年(1570年)には改姓して土屋豊前守を名乗っている。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは兄の昌続・養父の貞綱がともに戦死しており、昌恒は土屋氏を継承し、昌続と貞綱両方の家臣を率いた。昌恒は勝頼に従い主に東海道方面・関東方面の戦いの多くに参加した。天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐では最後まで武田勝頼に従う。『新編会津風土記』によれば、同年3月1日に最後となる龍朱印状を奉じている。『甲乱記』によれば、勝頼一行が小山田信茂を頼り郡内へ逃れる最中に信茂の離反を知り動揺する勝頼側近の跡部勝資に対して、これを非難したという。『信長公記』『甲乱記』『甲陽軍鑑』によれば、勝頼が滝川一益隊に天目山で追いつめられて自害を覚悟したとき、勝頼が自害する間の時間を稼いで織田勢と戦って奮戦したが、最後は討ち死にした。『三河物語』では、徳川家臣の大久保忠教は忠恒の活躍を賞賛している。武田家の滅亡後、同年10月9日には土屋民部少輔が高野山成慶院において昌恒の供養を行い、法名は「忠叟道節大禅門院」。なお、『寛永諸家系図伝』では法名を「道節」、『甲斐国志』によれば、甲州市大和町田野の景徳院の位牌では「忠庵存孝居士」としている。『寛政重修諸家譜』によれば、子息の土屋忠直は母に連れられて脱出したという。天正10年6月の天正壬午の乱を経て甲斐は三河国の徳川家康が領するが、忠直の同心70名は徳川家臣・井伊直政に付属され、天正壬午の乱の最中に家康に対して忠誠を誓った天正壬午起請文を提出している。忠直自身は天正16年(1588年)に家康に拝謁し、家康側室の阿茶局により養育される。慶長7年(1602年)には忠直は上総久留里藩の大名となった。
出典:wikipedia
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