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高橋一三

高橋 一三(たかはし かずみ、1946年6月9日 - 2015年7月14日)は、広島県府中市出身のプロ野球選手(投手)、野球指導者。元・山梨学院大学硬式野球部監督。広島県府中市の府中西小学校、第二中学校を経て、北川工業高校(現:県立府中東高校)に進学。秋季中国大会県予選ではエースとして決勝に進み、尾道商業の小川邦和と投げ合い完封負けを喫するが、中国大会への出場権を獲得。しかし準々決勝で佐々木誠吾投手を擁する浜田高に敗れ、翌春の選抜への出場を逃す。同年夏の大会も県予選で敗退し、甲子園には届かなかった。読売ジャイアンツに入団。この入団は当時の中国地区担当スカウトの木戸美摸の尽力によるものであった。当初、木戸は1963年の春の甲子園優勝投手である下関商業の池永正明の獲得を目指していたが、高橋の評判を聞きつけ、池永にはない魅力を感じて面会した。面会に同席した教師が「先にこれを見て下さい」と横綱・柏戸の手形が押された色紙を持参し、高橋が手を手形に合わせると指がはみ出した。木戸が「こんな大きな手を見たことがない」と驚くと、「どうです。ヤツデみたいにでかいでしょう」と教師は答え、木戸はこの瞬間に第一ターゲットを池永から高橋に変えたという。なお、高橋は巨人と同時に近鉄バファローズとも入団交渉を進めたため、二重契約とマスコミに騒ぎ立てられ、北川工業は一年間の対外試合禁止処分を受けた。新人ながら4月15日に早くも一軍公式戦に起用されたが、5月11日の対広島戦で3番・興津達雄、6番・藤井弘に2打席連続アベック本塁打を浴び、即二軍落ち。再び一軍に上げられたのは1年後だった。後に「若い時、毎日地獄を見たおかげで、現役で19年も飯を食えました」と話している。から一軍に定着。には右打者の外角へ鋭く曲がるスクリューボールを習得し、22勝5敗、防御率2.21(リーグ4位)の好成績を挙げ、最多勝利、最高勝率、沢村賞、ベストナインと多数のタイトルを獲得。以降5年連続二桁勝利を記録するなど、1学年下の堀内恒夫と共に、V9時代の巨人投手陣の主力として活躍。エースである堀内と遜色ない成績を残していたため、“第二のエース”という意味で『左のエース』という呼び名で呼ばれた。今日、当たり前の野球用語として定着しているこの呼称は高橋から使われるようになったものである。にも23勝、防御率2.21(リーグ2位)を記録し、2度目の沢村賞とベストナインを獲得。その後は2勝、6勝と急速に不振に陥り、に張本勲との交換トレードで、富田勝と共に日本ハムファイターズに移籍。日本ハムではローテーション投手に復活して10勝を挙げる。に腰を痛めわずか2勝に終わる。「朝起きて1時間は動けない」程悪化した症状に一度は引退を覚悟するが、監督の大沢啓二の意向により現役を続行。落ちた球速を補うために、制球力に磨きをかけるとともにスクリューボールを習得し、は9勝を挙げて見事に復活した。翌にはチーム2番目の勝ち星となる14勝、防御率2.94(リーグ3位)を記録し、チーム19年ぶりのパ・リーグ優勝に大きく貢献した。古巣の巨人と対戦した日本シリーズでは第1戦と第5戦に先発したが、0勝1敗に終わっている。の開幕前に左脚を肉離れして十分な練習ができず、同年現役引退。この年は年初より当時9人しか達成者がいなかった通算2000奪三振を目標にしており、シーズン129試合目となる最終登板前の時点であと5個まで迫っていた。しかし、この試合で3イングスを投げて2個の奪三振に留まり、惜しくもあと3個届かなかった。わずか3個で目標を達成できなかったことは非常に心残りであったらしく、引退後も三振を奪う夢を見てうなされることがあったという。現役時代は、その名前とカウント1ストライク3ボールからでも打者を打ち取るその粘り強さからワンスリーと呼ばれ、また極端な怒り肩であったことから衣紋掛けという渾名でも呼ばれていた。引退後は巨人・日本ハムの投手コーチを歴任。日本ハムの投手コーチとしてはにはBクラスながら、2桁勝利を挙げた投手を5人出す(西崎幸広・柴田保光・松浦宏明・酒井光次郎・武田一浩)など評価は高く、翌限りで近藤貞雄が監督を辞任した際には次期監督の有力候補に挙がり、一部では「内定」の報道もされたが、本社サイドが高橋の監督就任に難色を示し、同年は土橋正幸が監督に就任、翌年には大沢啓二が就任し、監督への就任はならなかった。1995年からは古巣巨人のコーチ・二軍監督として長く指導者生活を続けた。アール・エフ・ラジオ日本野球解説者を経て、に巨人の投手コーチに就任(巨人の指導者としては3度目)。2005年、堀内恒夫が成績不振により監督を辞任したのを受けて退団。4月から山梨学院大学硬式野球部監督に就任。2014年春に体調不良のため、途中で退任し顧問を務めていた。後任はコーチの伊藤彰(元ヤクルト投手)。2015年7月14日、心不全のため東京都内の病院で死去。69歳没。中学・高校時代の同僚は、球速はあったがコントロールが悪く、名前のとおりにカウントが(1-3)になることが多かったと述べている。巨人時代は真上から投げ下ろす速球、落差の大きなカーブと右打者の外角へ逃げるシュートが武器であった。1970年代前半、指に特殊な装置をつけて球速を測定した際に156.46km/hを記録した。これは、スピードガン出現以前に実際の球速が直接測定された貴重なデータでもあった。堀内恒夫は「当時はスピードガンなんて便利な機械はなかったけど、150km/hをオーバーしたのはぼくとカズミさん(高橋)だけだったはずです」と述べている。但し現役後半の日本ハム時代には極端に球速が落ち、スコアボードでのスピードガンの球速表示が始まった頃、阪急西宮球場で高橋が全力で投げたストレートが、阪急のピッチャーのカーブの球速と同じ表示で、チームメイトだった江夏豊に腹を抱えて笑われたことがあるという。もっとも、ファイターズ時代に腰を痛めていた時期に敗戦処理やワンポイントリリーフでの登板を通じて、球速に頼らず、制球力とシンカー・スクリューボール等緩い変化球で巧みにバッターを打ち取る新しい投球スタイルを確立していた。これについて高橋は後年、「もしジャイアンツの選手のままだったら、結果を出すことだけを求められ続けるため、腰を痛めた時に引退していただろう」と、巨人というチームの体質について触れながら、放出されたことが結果的に自分の野球人生にはプラスになったと語っている。王貞治は「真っすぐとカーブが主流であった時代、右打者の外に落ちるスクリューボールを武器に活躍した。今の左投手の原型をつくった投手」と評した。巨人時代は対阪神戦に非常に強かった。巨人時代の通算110勝のうち34勝を阪神から挙げており、特には7勝0敗という非常に高い勝率を記録している。胴上げ投手を9度経験という日本記録を持っている(レギュラーシーズン5度、日本シリーズ4度)。特には、阪神とのセ・リーグ優勝をかけたシーズン最終戦を完封勝利で飾る劇的な胴上げとなった。ただし、このときは試合終了直後に、阪神が惨敗で優勝を逃したことに激高した観衆がグラウンドに乱入して巨人の選手に暴行する騒ぎとなり、実際の胴上げは宿舎で行われている。満塁での場面で四球で押し出しによるサヨナラ負けを3度記録している。このうち、1969年と1971年にはヤクルトの大塚徹を押し出しサヨナラ四球を与えている。アニメ版の『巨人の星』において、主人公・星飛雄馬の巨人に入団してからのピッチングフォームは、当時の左のエースだった高橋をモデルとした。当アニメの制作を手がけた読売テレビプロデューサー・佐野寿七は「巨人に入団してからの飛雄馬のピッチングフォームは、当時の左のエースだった高橋一三をモデルにしました。多摩川グラウンドで投げてるところをカメラで撮影して、それを参考にアニメしました。当時まだ売り出し中だった新浦壽夫をモデルに、という声もありましたが、結局は高橋一三になりました」と話している。

出典:wikipedia

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