池ノ内 亮介(いけのうち りょうすけ、1988年11月22日 - )は、三重県伊賀市荒木出身の元プロ野球選手(投手)。三重県伊賀市立中瀬小学校時代、1年生の頃に中瀬ヒュービーズに入部し野球を始める。同桃青中学校時代には伊賀ボーイズに所属し、遊撃手としてプレー。高校はプロ野球出身者も多い岐阜県にある中京高に進学。当時は、外野手兼控え投手であった。同期に高森勇気、大抜亮祐がいた。中京学院大学に進学すると、本格的に投手に転向。チームでは二番手ながら先発の柱として活躍。中日ドラゴンズの二軍と対戦した際、直球だけで1イニングを無失点に抑えたこともあり、中日をはじめプロのスカウトも視察に訪れるようになる。スピードのあるピッチングが評価されたことから、2011年の育成ドラフト会議で、広島東洋カープから2巡目で指名。育成選手として入団した。入団当初の背番号は「121」で、1993年に硬式野球部を創部した中京学院大の選手が(支配下登録選手を含めて)ドラフト会議でNPBの球団から指名されたのは初めての事例。東海地区大学野球岐阜学生リーグから直接ドラフトで指名されたのは、1993年に埼玉西武ライオンズから2位で指名された後に、同球団と広島に所属した朝日大学の山田潤以来、17年振りであった。には、ウエスタン・リーグ公式戦1試合に登板。しかし、シーズン終盤から参加したフェニックスリーグでは、救援投手として9試合に登板した。には、前年のフェニックスリーグでの投球内容が評価されたことから、一軍の春季キャンプのメンバーに選ばれた。育成選手による一軍キャンプへの参加は、広島では初めてであった。しかし、シーズン中には一軍公式戦への登板機会がなかった。には、シーズンを通じて四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツへ派遣されたが、リーグ最多の72与四球、同2位の14与死球を記録する一方で、先発陣の一員として、小林憲幸とともにチーム最多の12勝を挙げた。広島復帰後の11月1日には、育成選手契約から支配下選手契約へ移行することが球団から発表。この移行を機に、背番号を「68」に変更した。には、7月14日に入団後初めての出場選手登録。翌15日の対横浜DeNAベイスターズ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)に中継ぎ投手として一軍デビューを果たすと、1回を無失点に抑えた。一軍公式戦全体でも、2試合の登板で失点を喫しなかった。には、一軍公式戦への登板機会がなく、10月1日に球団から戦力外通告を受けた。2015年11月10日に、シートバッティング形式の12球団合同トライアウト(草薙球場)へ参加した。しかし、対戦した打者3人から二塁打1本を含む2安打を浴びたことから、現役を引退した。引退後は、会社員として再出発を図っている。荒れ球ながら最速151km/hのストレートと130km/h台の高速スライダーを投げるなどスピードのあるピッチングが持ち味。中京高校時代のチームメイトとして高森勇気(元横浜DeNAベイスターズ)がいる。
出典:wikipedia
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