バリ島沖海戦(バリとうおきかいせん)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)中の海戦。1942年2月20日夜明け前に、連合国軍艦隊が日本軍のバリ島攻略船団を攻撃したが撃退された。アメリカ軍呼称はバドゥン海峡海戦(Battle of Badung Strait)。1942年(昭和17年)1月下旬、日本軍はジャワ島攻略のための飛行場確保を目的として、当初は予定になかったバリ島の攻略を決めた。第十一航空艦隊はボルネオ島バンジャルマシンよりもバリ島に飛行場を建設した方がのちのちの利点が大きいと熱心に主張し、これに蘭印部隊司令部や南方軍総司令部も同意、バリ島海路攻略とバンジャルマシン陸路攻略が決定したのである。マニラでの陸軍第十六軍司令官今村均中将と第三艦隊司令長官高橋伊望中将の協定は1月23日に成立したが、ジャワ島攻略作戦の発動遅延により、バリ島攻略作戦の日程も延期された。攻略に当たる海軍部隊は、第一根拠地隊司令官久保九次少将ひきいる支援隊(軽巡洋艦長良、第21駆逐隊《若葉、子日、初霜》)、攻略隊(第8駆逐隊《大潮、朝潮、満潮、荒潮》、第五設営班、陸軍輸送船2隻《相模丸、笹子丸》)、補給部隊(マカッサル海峡部隊《筑紫、蒼鷹、第2駆潜隊、第1号駆潜艇》、ケンダリー部隊《白山丸、君島丸、第52駆潜隊、第1駆潜隊、いくしま丸》)、さらに第8駆逐隊による第一次急襲作戦成功後は、軽巡「長良」を旗艦とする第二次輸送作戦が実施されるという兵力配置となった。当時の第8駆逐隊各艦は、駆逐隊司令阿部俊雄大佐(海軍兵学校46期)、「大潮」駆逐艦長吉川潔中佐(兵50期)、「朝潮」駆逐艦長吉井五郎中佐(兵50期)、「満潮」駆逐艦長小倉正味中佐(兵51期)、「荒潮」駆逐艦長久保木英雄中佐(兵51期)が指揮していた。バリ島攻略に投入される陸軍部隊は、第48師団の一部を抽出した金村亦兵衛少佐指揮の支隊(台湾歩兵第一聯隊第三大隊、山砲1個小隊、独立工兵1個小隊:歩兵1個大隊基幹)と決定し、輸送船2隻(相模丸、笹子丸)に乗船することになった。1942年(昭和17年)2月中旬のマカッサル海峡は天候不順だったため航空隊の活動が制限され、蘭印部隊指揮官高橋中将は2月16日にバリ島作戦を1日延期した。17日も天候不良で、陸上攻撃機は攻撃を中止した。待ち切れなくなった久保少将は2月18日攻略発動(19日泊地進入)を決定、作戦を開始した。2月18日午前1時、陸軍支隊を乗せた輸送船2隻(笹子丸、相模丸)は第8駆逐隊(駆逐隊司令阿部俊雄大佐)所属の駆逐艦「大潮」(駆逐隊司令艦)、「朝潮」、「満潮」に護衛され、マカッサル泊地を出航した。途中で対潜掃蕩のため先行していた駆逐艦「荒潮」と合流し、18日2300時バリ島サヌール泊地着、19日0015に同泊地へ進入して上陸を開始した。19日の日の出は午前7時22分であった。上陸に対して抵抗はなく、未明には日本軍金村支隊がデンパッサル兵営を占領、午前11時30分に飛行場を占領した。陸上部隊が順調に戦闘を続ける中、停泊中の艦艇は連合軍の空襲を受けた。小数機による反覆攻撃で、「相模丸」が被弾、片舷航行可能状態となる。1630、「大潮」は敵潜水艦から雷撃されたが回避した。1700、輸送船の揚陸はほとんど終了、空襲を避けるため「大潮、朝潮、笹子丸」は一時ロンボック海峡北側へ退避、損傷した「相模丸」は第8駆逐隊第2小隊(満潮、荒潮)に護衛されてマカッサルへの退避を開始した。一方の連合軍は、哨戒中のイギリス潜水艦「トルーアント」とアメリカ潜水艦「シーウルフ」により、日本軍の攻略船団を発見していた。2月17日、連合軍海軍部隊指揮官ヘルフリッツ蘭海軍中将は、カレル・ドールマン少将に日本軍輸送船団撃退を命じた。だがドールマン少将麾下の艦隊は2月15日のガスパル海峡空襲(空母「龍驤」艦載機および基地航空隊の攻撃)によって撃退されてきたばかりであり、各地に分散していた。17日には陸攻部隊が商船「スロエト・ヴァン・ベレル」を、龍驤艦攻10機がヴァン・ガレン級駆逐艦「ヴァン・ネス」を撃沈していた。やむなくドールマン少将はジャワ島チラチャップの艦艇で第一攻撃隊(デロイテル、ジャワ、ピートハイン、ジョン・D・フォード、ポープ)、ジャワ島スラバヤの軽巡「トロンプ」と、スマトラ島タンジュンカランの駆逐艦4隻で第二攻撃部隊(トロンプ、スチュワート、パロット、エドワーズ、ピルスベリー)を編制し、第一攻撃部隊と第二攻撃部隊は各個にバリ島の日本軍輸送船団攻撃を目指すことになった。このほか、バリ海峡基地の魚雷艇7隻も出動したが、戦闘に至らずに帰還した。米駆逐艦4隻は2月17日-18日にタンジュンカランを出港してジャワ海を東進、「トロンプ」と合流後、2月19日夜にバリ海峡を南下してバリ島南方へ進出した。ドールマン少将率いる軽巡2隻、米駆逐艦2隻、蘭駆逐艦2隻は2月18日2330にジャワ島南部を出撃、東進してバリ島を目指した。すなわち本海戦に参加したABDA艦隊の全艦艇は、オランダ海軍のカレル・ドールマン少将指揮の軽巡洋艦3隻(オランダ軽巡洋艦「デ・ロイテル」、「ジャワ」、「トロンプ」)、駆逐艦7隻(オランダ駆逐艦「」、アメリカ駆逐艦「ジョン・D・フォード」、「ポープ」、「スチュワート」、「パロット」、「ジョン・D・エドワーズ」、「ピルスバリー」)であった。2月19日(月齢4、曇天暗夜、視界8km)23時50分、「笹子丸」の舟艇揚収はおわり、3隻(大潮、朝潮、笹子丸)はバリ島サヌール泊地を出港しようとしていた。23時53分、「朝潮」は南方約6kmに接近してくる「ジャバ型巡洋艦2隻」を発見する。この時、泊地に突入してきたのは軽巡「デロイテル、ジャバ」、蘭駆逐艦「ピートハイン」、米駆逐艦2隻(ジョン・D・フォード、ポープ)の計5隻である。軽巡2隻と駆逐艦3隻の間は距離があった。2月20日0000頃、軽巡2隻(デロイテル、ジャバ)が「朝潮」に対し砲撃および照明弾を発射、「朝潮」も応戦して距離2000m同航戦となったが、出航直後で速度が上がらず、砲戦開始まもなく敵艦を見失った。被害は探照灯に弾片があたったのみで、「朝潮」は『我敵「ジャバ」型ト交戦中「ロンボック海峡」』と報告した。「デロイテル、ジャバ」は再攻撃することなく、泊地北方へ去った。先に出航していた第8駆逐隊司令駆逐艦「大潮」は「朝潮」の前方2-3kmにおり、砲戦を見て航進を開始したが接敵しなかった。すると南の煙幕の切れ目に駆逐艦1隻(ピートハイン)の北上を確認し、南へ向かった。「朝潮」も南へ向かっており、20日0011に同航する駆逐艦1隻(ピートハイン)を発見し1500mで射撃を開始、距離1000mで魚雷を発射し0016に撃沈を報告する。しかし「ピートハイン」は大破しながらも沈んでおらず、低速で動いていた。つづいて「大潮、朝潮」はそれぞれ南下、右舷2000mに同航する駆逐艦2隻(フォード、ポープ)を発見して砲撃を開始するが、米駆逐艦2隻は煙幕を展開して逃走した。「大潮、朝潮」は敵艦が北方へ逃げたと判断して反転北上、0042に合同して単縦陣を形成した。20日0045、「大潮、朝潮」は左前方3500mに駆逐艦2隻(実はピートハイン1隻)を発見して砲撃を開始、0047に1隻火災発生沈没、もう1隻にも火災を発生させたと報告。「ピートハイン」は炎上しながらも反撃を行ったが、最終的に撃沈された。「大潮、荒潮」は砲撃を続けながら北上と南下を繰り返し、1時10分に敵艦が姿を消したのを確認した。0140、阿部司令は『敵「ジャバ」型2隻ハ「ロンボック」海峡ヲ北方ニ遁走セリ 後ニ残レル駆逐艦三隻ハ二隻撃沈一隻大破我被害ナシ 〇一四〇』と報告する。「ピートハイン」1隻撃沈に対し「駆逐艦2隻撃沈1隻大破」と誤認した原因は、海面に広がった燃料の火焔を、炎上敵艦と錯覚した為と思われる。第一次合戦が終了した後、「大潮、朝潮」は泊地を哨戒した。支援隊(第一根拠地隊司令官久保少将)が座乗する軽巡洋艦「長良」は2月19日午前8時にマカッサルを出発、第21駆逐隊(若葉、子日、初霜)と合同後、夕刻にはロンボック海峡の北80浬にいた。第8駆逐隊第1小隊からの戦闘報告を受けて南下を開始するが、同時にマカッサル帰投中の第8駆逐隊第2小隊(満潮、荒潮)に同第1小隊(大潮、朝潮)の支援を、「相模丸」は単艦でのマカッサル回航を命じた。「荒潮、満潮」は反転して第1小隊との合流を急いだ。20日午前3時前、蘭巡洋艦1隻・米駆逐艦4隻がサヌール泊地に突入してバリ島沖海戦第二次合戦がはじまる。連合軍艦隊は、米駆逐艦4隻(スチュワート、パロット、エドワーズ、ピルスベリー)が単縦陣で先行し、その後方8000mに「トロンプ」が続く。0306、連合軍艦隊は一斉に魚雷を発射するが命中せず、最後尾の「ピルスベリー」が「エドワーズ」を見失い、単艦でレンボンガン島北方へ移動を開始した。0310、第8駆逐隊第1小隊(大潮、朝潮)は東にむけて航行中、南方から北上する巡洋艦2隻駆逐艦1隻(実際は米駆逐艦3隻)を右舷に発見、0315距離3200mで砲雷戦を開始、0323爆発音を確認して魚雷命中と判断した(実際には命中せず)。しかし魚雷を発射するため右に転舵(一時的に南下)した結果、敵艦隊を左舷側に見る格好となり、バリ島の山影に見失った。この時、軽巡「トロンプ」も右後方を進む第8駆逐隊に気付いていなかった。阿部司令は『我「ジャバ」型巡洋艦二隻ト激戦中「サヌル」沖 〇三一五』と報告した。米駆逐艦隊では「スチュワート」が砲撃を受け舵故障を起こし、隊形が乱れた駆逐隊は北方への脱出を開始した。連合軍艦隊を追撃してバダン海峡を東に航行していた第8駆逐隊第1小隊(大潮、朝潮)は0341にレンボンガン島北岸沖で左前方3200mに「トロンプ型巡洋艦」を発見、距離3000mで砲雷撃戦になった(第三次合戦)。被弾した「トロンプ」は射撃指揮装置と探照灯の故障を起こしたが、反撃して0346に「大潮」の二番砲塔給薬室に命中弾を与えた。「大潮、朝潮」は左砲戦、「トロンプ」は右砲戦で双方が撃ち合う中、「トロンプ」は突如左舷からも砲撃を受ける。これは戦闘発生を知り「長良」の下令に従ってバリ島へ戻ってきた第8駆逐隊第2小隊(満潮、荒潮)の攻撃で、2隻は0340ころバダン海峡東口に到達し、砲戦を確認して西進してきたのである(第四次合戦)。ところが「満潮、荒潮」の右舷側には米駆逐艦3隻(エドワーズ、パロット、スチュワート)が東進中であり、さらに「トロンプ」のそばに「ピルスベリー」が迷い込んでいた。海峡南側を東進する「トロンプ、ピルスベリー」と、海峡北側を東進する「エドワーズ、パロット、スチュワート」の間に自ら突入した「満潮、荒潮」は挟撃される格好となり、0347に距離3500mで砲撃戦となった。「満潮」は戦闘開始2分で敵艦1隻の轟沈を確認(錯覚)したが、同艦の機関室にも命中弾があって航行不能、機関長以下64名の死傷者を出した。「満潮」は漂流しながらも『このまま漂流しつつ哨戒にあたる』と発信、その士気は衰えていなかったという。「満潮」に後続していた「荒潮」は左舷に巡洋艦2隻(駆逐艦ピルスベリーと巡洋艦トロンプ)を認め、反航戦となったが、双方とも決定的打撃はなかった。この時、「荒潮」は左舷の「トロンプ」に命中弾を与え左舷探照灯を破壊している。「ピルスベリー」は1-2斉射を行ったのみで避退した。「パロット」は砲撃せず東へ避退、0350にラプアン湾沖で座礁したが自力で脱出した。以上の戦闘で連合軍艦隊はすべて戦場を離脱し、海戦は終了した。第8駆逐隊はオランダ士官1名、下士官兵9名を収容し、第一次海戦兵力は蘭巡洋艦2、米駆逐艦2、蘭駆逐艦1であることを知った。弾薬の消費量は、「大潮」12.7㎝主砲217発(約36斉射)、「朝潮」主砲310発(約52斉射)、「満潮」主砲62発(約10斉射)、「荒潮」73発(約12斉射)と記録されている。20日午前6時、第一根拠地部隊指揮官久保少将率いる「長良、若葉、子日、初霜」は戦場に到着、「長良、初霜」がロンボック海峡北口を警戒し、残る艦で「満潮」の救援を行う。午前10時、「荒潮」は「満潮」を曳航して退避を開始するが、空襲により回避行動をとったところ曳索が切れ、さらに「満潮」は至近弾で浸水してしまう。また「大潮」も至近弾による浸水で最大発揮速力10ノットとなり、阿部司令は「朝潮」に移乗した。各艦は第一群(朝潮、荒潮、満潮、子日)、第二群「若葉、大潮」、第三群(長良、初霜)にわかれ、北上を開始。第一群は夕刻までにのべ26機の空襲を受けたが被害はなく、22日0130マカッサルへ到着した。第二群・第三群および輸送船「相模丸、笹子丸」は一足先にマカッサルへ帰投した。午後、蘭印部隊指揮官高橋中将は第8駆逐隊を主隊に編入、マカッサル待機を下令した。2月22日、バリ島に陸上攻撃機が進出し、同島航空戦力は戦闘機32、陸上偵察機4、陸攻11となる。2月23日18時、第二輸送作戦部隊(主隊《長良、朝潮、荒潮》)、梯団(第21駆逐隊《若葉、子日、初霜》、輸送船《洛東丸、興津丸、臺東丸、とよさか丸、第三日の丸》、第2駆潜隊《第1号、第21号駆潜艇》)、支援隊(筑紫)はマカッサルを出撃した。24日1700、航空機より「敵巡洋艦1、駆逐艦3、スラバヤ北方60浬」との情報を得た久保司令官は、連合軍がバリ島方面に脱出するかバリ島飛行場を砲撃すると判断し、「長良、朝潮、荒潮、若葉、子日、初霜」を率いて敵艦隊を求めたが、接敵しなかった。25日0800、第二次輸送部隊は泊地に到着、連合軍の妨害を排除して揚陸に成功した。3月5日、第一根拠地隊のバリ作戦は終了した。巡洋艦3隻・駆逐艦7隻を擁する連合軍は戦力的にかなり優勢であったが、多国籍艦隊のため連携がうまくいかず、日本軍の駆逐艦4隻に撃退されてオランダ軍駆逐艦1隻を喪失、攻撃は失敗に終わった。チェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官は『兵力を集結しなかったために、この利点(数的優勢)は無価値に等しかった』と評価している。宇垣纏連合艦隊参謀長は『バンダ海峡における第八驅逐隊の海戦振りは誠に見事なり。蘭巡洋艦二、蘭米驅逐艦三撃沈其の他二に大損害を與へたり。之をバンダ海峡夜戦と銘打つて世に問ふべきなり。一驅逐隊を以て誠に立派なる夜戦なり。司令は阿部弘毅少将の弟なりと云ふ』と第8駆逐隊を賞賛した。宇垣参謀長の戦藻録にあるように、第8駆逐隊の戦果報告は過大であった。大本営発表では連合軍駆逐艦4隻撃沈、巡洋艦2隻・駆逐艦1隻大破となっている。なお『大東亞戦海戦以来最初の水雷戦隊に依る海戦』という宣伝もなされたが、水雷戦隊同士が戦った最初の海戦は1月24日のバリクパパン沖海戦(第四水雷戦隊の敗北)である。この後にも、連合軍艦隊と日本軍船団が交戦するという類似の状況のスラバヤ沖海戦とバタビヤ沖海戦が発生し、連合国軍艦隊は壊滅する。日本艦隊には報道班員が乗艦しており、のちに作戦に参加した艦長や乗組員を集めて座談会が開かれた。駆逐艦スチュワートはその後スラバヤにて損傷個所を修理中に占領した日本軍に鹵獲され、第百二号哨戒艇として日本海軍に編入された。
出典:wikipedia
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